運命のトビラ
慣れ親しんだ世界は、今や背中の向こうでどんどん小さくなっているのだろう。 耳に入ってくるのは車輪がせわしなく回る音と、地面を削るように走る馬の蹄の音。 そして時折、ピシッと鞭のしなる音とが混ざりあっていた。 わたしはただずっと俯いて、ぎゅっと握った拳を膝の上に置いて石像のように固まっていた。
振り返ってはいけない。 呪文のように何度も何度も、心に言い聞かせながら。 背後に広がる暗闇に目をやれば、立ち所に冥界に引き戻されてしまうエウリディーケのように、 後ろを向いたら追っ手がすぐそこまで迫ってきているような気がして。 堅く口をひき結び、握りしめたまま微かに震えている自分の拳を見つめていた。
「大丈夫かい?」 その声にはっと我に返る。 「え、ええ…」 口元を軽く歪めたような笑顔で答えた。 いや、自分では精一杯笑っているつもりだった。
「シーラ?」 心配そうな声でモーリが手綱をやや緩めた。 わたしの顔が蒼ざめているのも、震えがどうしても止まらなかったのも、それは決して寒いからではなかった。
わたしは恐れていた。 振り返った時、もし真後ろにわたしを連れ戻す父の手が目の前まで伸びていたら。 それは全ての終わりを意味する。 わたしは二度とモーリと会うことも叶わない。 あの後味の甘ったるさを残して記憶を消すキャンディーが、きっと彼との思い出すらも奪っていってしまう。 彼と一緒に生きられないのなら。 その時は…。
わたしは傍らにある小さなバッグを膝の上に置いた。 その中にはわたしでも扱える程の小さな銃と、銀色の弾丸が隠れている。
覚悟は、できている。
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最近、父はさかんに見合い話を持ってくるようになった。 その話が父の口について出る度に、わたしはすり抜けるようにかわしてきた。 嫁に出すのではなく婿に来てもらえるのなら、家柄が釣り合うのなら、父は誰でも良かったのだ。 結婚には恋愛は必要無く、むしろ無駄なもの。 早く結婚して跡取りを産む。 わたしはただそれだけの為に生まれてきたのだから。
それを分かっていながら、わたしは父に逆らうことが出来なかった。 逃げ出すことが不可能だと身体が先に理解していると、試みようとすることすら諦めてしまう。 わたしの足には見えない足枷がある。 この場所から、父から逃れることはできない。きっと永遠に。
「そのお話はまた後でゆっくりとお聞きしますわ、お父様」 「いつもそうやって逃げてばかりで、一度たりとてわたしの話をちゃんと聞いてはおらぬぞシーラ!!」 その日もこのところ繰り返される問答にわたしは辟易していた。 父も同様で、だんだん声を荒げている。
わたしは横を向いて窓の外を見た。 外の景色が見たいわけではない。父の顔をこれ以上見たくなかったのだ。 「おまえはクレリー家を潰すつもりなのか!?ご先祖様に申し訳ないと思わないのか!?」 両方の肩を掴まれて揺さぶられる。透明の足枷が足首をキリキリ締め上げた。
逆らうことなど出来ない。 かと言って、何もかも諦めて素直に受け入れることもまだ出来ない。 わたしは籠の中の鳥。 もどかしさのあまり、涙が流れた。 父は顔色を変えることなく、ただ念を押すように、 「おまえの結婚相手はわたしに任せておけばいいのだ。何も考えるな」 とだけ言うと書斎へと戻って行った。
「あまり我が儘をいわないでおくれ。おまえはお父様の言う通りにすればいいのです」 母が縋るようにわたしを見つめる。 息苦しい。どんなに息を吸っても肺に酸素が入っていかない。 耐えかねたわたしは、家を飛び出していた。 狼の姿となり、目的もなくただひたすら走り続け、わたしはいつしか見知らぬ森の中にいた。
元々あまり村から出ずにいたせいかもしれない。 こんな場所があったんだと、辿り着いて初めて落ち着いて辺りを見渡した。 深い緑に囲まれた、銀色に輝く湖。 周りには誰もいない。静けさの音だけが響く。 身体を覆っていた金色の毛皮が消えていく様が、水鏡に映し出された。 最後には見慣れた顔がそこにある。が、何かが違うように思えた。
表情だ。戸惑いを隠せないわたしとは違って、鏡の中に映るその人は絶えず、微笑みが溢れていた。 「あなた、誰?」 反射的に手を伸ばすと、水面が揺れて水鏡は大きく湾曲した。
やがて何事もなかったかのように揺れが治まった時、恐る恐る湖を覗き込んでいるわたしの姿がそこにいた。 「一体なんだったのかしら?」 首をかしげながらも、すぐにそれは気のせいだとか、見間違えたのだと結論づけた。 そして気を取り直して、すうっと深く息を吸い込むと、
「お父様のわからずやーっっっ!!!」 と水面が吃驚して震えるほどの大きな声で、思いきり叫んだ。 石が詰めこまれていた心が、心なしか軽くなったような気がする。 ほっと気が弛んだのも束の間、 「うわっ」という声のすぐ後にどさっという音が続いた。
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