オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
96.「マンドリン・マンドラ・マンドロンチェロ三重奏曲セレナーデ」  S.カンブリア作曲

原編成 マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ
スコア 原編成と同
解説 カンブリアはムニエルの教えを受けたマンドリニストで、ペティーネと相前後して渡米し、アメリカのマンドリン界を刺激するところが多かった。彼の独奏曲は彼が演奏家として立派な技巧をもっていたということを示すとともに、優れた作曲家で会ったことを物語っている。彼の作品の良さは情操の豊かな楽想が、洗練された技巧に裏付けされている点に存する(昭和6年、春秋社発行『世界音楽全集』高橋功氏の解説から引用)。作者カンブリアについての詳細は不明である。彼の無伴奏独奏曲「Ame Voltigeuse,petite fantasie(小幻想曲、焦燥)」が1908年にミラノのイル・プレットロ誌に掲載され、その後イタリアでの活動は顕れていないので、それ以降にアメリカに移住したものと考えられてきた。しかし、1903年のニューヨークの新聞に彼のマンドリン・ギター教授広告が掲載されているので、おそらく、彼の渡米時期はもう少し早かったのではないかと思われる。渡米後はニューヨークでマンドリン、ギターの教授をしながら作曲・演奏活動をしていたようで、「Stellario Cambria」出版社から多くの無伴奏独奏曲、ピアノ伴奏曲、マンドリン合奏曲を出版している。三重奏曲(セレナーデ)は、「Stellario Cambria」出版社から出版されたが、彼のマンドリンの教え子たちに贈られたマンドリンとピアノ(ギター)のための「思い出(miniscenze,serenata)」と同じ曲である。「思い出」をもとに「三重奏曲」が作成されたと考えられる。

97.「イタリア風子守歌」  C.ムニエル作曲 
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
スコア ピアノ譜
パート譜 原編成+マンドローネ
解説 カルロ・ムニエルは1859年7月15日ナポリに生まれ、1911年2月10日フィレンツェに逝いたマンドリニストで作曲家。ナポリの著名なマンドリン製作家パスクワーレ・ヴィナッチアはムニエルの大伯父にあたり、おりしもマンドリン音楽勃興の時で、彼がマンドリンに異常な愛を持ち、後に「マンドリン音楽の父」と称されるようになったのは運命的なものだったのかもしれない。はじめマンドリンの教則本の著者として、また先覚者の一人であるCarmine de Laurentisにマンドリンとギターを学び、15歳でナポリ音楽学校に入りGaliero及びCesi(1845-1907)にピアノを、D'Arienzo(1842-1915)について作曲法を修め、彼の音楽的生涯の基礎を固めた。さらに19歳で聖ピエトロ・ドマイエラの音楽学校卒業に際し、作曲法に一等、和声法に二等を得た。1882年彼はフィレンツェに移り、以後この地を本拠として演奏家、作曲家、指導者として活躍した。1890年最初のプレクトラム四重奏団を結成。この四重奏団のイタリア各地での演奏は非常な歓迎を受けた。1892年ジェノヴァで開かれた最初のマンドリンギター国際コンクールにおいて、彼は演奏家ならびに作曲家として金牌と賞状を得、さらに1898年トリーノのコンクールでも金牌を獲得した。1906年モナコで大規模なコンクールが開かれ、彼はイタリア側の審査員に推された。マンドリン楽の興隆につれてイタリアの各地には無数のマンドリン合奏団が生まれた。その中でもフィレンツェの「皇后マルゲリータ・マンドリン合奏団」は最も優れた奏者を集めた団体であったが、ムニエルは、この名誉ある合奏団の指揮者となった。1909年彼はソムマリヴァ・ピエルノの有名な王城で、時のイタリア皇帝ヴィットリォ・エマヌェーレ三世の御前に自作の「二調の前奏曲」と「第一マヅルカ」を演奏する栄誉を賜った。1911年春ベルギーを訪れた帰途、彼の友人でマンドリニストとして知られたローラン・ファンタウッツィを南フランスのマルセイユに訪れ、種々マンドリン音楽の発展普及について語り合ったが、フィレンツェに帰るや病に倒れ、妻と二人の娘を残したまま永眠してしまった。彼こそは斯楽に殉じたともいうべき人で、「マンドリン音楽の父」と仰がれるのも当然であろう。本曲はエドアルド・ベヴィラッカとジュゼッピーナ・ジョヴァネッティという若夫婦に贈られた子守歌で、作品245番、比較的後期の作品。カデンツァを配し、デュオ風な扱いもあり、マンドリン独奏曲としても鑑賞され得る。運指も克明に指示され、各パートの動きも独創的である(以上P.J.Bone著『マンドリンとギター』、中野二郎著『イル・プレットロ』から引用)。ギターの代わりにピアノ入れた編成でも楽譜が出版されているので、スコアの代わりとしてピアノ譜を用いた。楽譜はラピーニ社の出版による。
98.「山嶽詩」  S.サルヴェッティ作曲 
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
スコア
 原編成と同じ
パート譜 原編成+ベース(マンドローネ)
解説 サルヴェッティは、870年1月30日にアルプスの麓、ブレノ(Breno、ブレッシアの北60㎞にある山岳地の町)に生まれ、1932年12月10日、ダルフォ(Darfo、トレントの南東20㎞)に逝去した。パルマ音楽院でピアノ、オルガンと作曲を学び、ピアノのディプロマを得た。芸術的センスと、優れたオルガン奏者として地元の数団体の合奏団を指導・指揮する収入だけで、伝統や習慣にこだわらない自由な彼自身の生き方を満たすことができた。彼の生き方はValle Camonica(ヴァッレ・カモニカ)地方では有名で尊敬されていたという。

1904年、サン・マリノ近くのマルシア·ディ·ロマーニャ(Marciano di Romagna)でおこなわれたマンドリン作曲コンクールのマンドリンオーケストラ・宗教曲部門で名誉金賞を得、さらに次の年トリーノのイル・マンドリーノ誌主催の作曲コンクールに マンドリン合奏のために書いた間奏曲『海の囁き』が第一位で入賞し、マンドリン界で知られるようになった。1905年、カポ・ディ・ポンテ(Capo di Ponte)地域の音楽連盟が設立され、 ブレノ、エージネ、ダルフォの合奏団を指導した。20世紀の初めにはブレノ・マンドリン合奏団(Mandolinistico Breno)を創設した。スイスのベルンにも彼の名を冠したマンドリン合奏団があり、何らかの関係があったと想像される。1922年、Antonio Archetti の詩に、トナーレへの讃歌『トナーレ山の夏の夕暮れ』を作曲し、ボローニアのイル・コンチェルト誌に発表。1930年代になると、彼の作品はイタリアでラジオ放送されるようにもなった。彼の作品はいずれも抒情的な色彩と火のような情熱と気品に定評があり、我が国の斯界でも親しまれている作品が多い。作品はミラノのイル・プレットロ誌、イル・コンチェルト誌、イル・マンドリーノ誌、スイスのマンドリニズモ誌などから、判明しているだけでも、60曲余の作品が出版されている。“Poesia Alpesttre”は、『山嶽詩』と訳され、合奏曲集に掲載されるなど、古くから我が国で愛奏されている作品である。しかし、マンドラが分割された一方がなく、マンドロンチェロも省かれている。さらには、編曲と称して原曲を無視し、マンドロンチェロを新たに書き加えられたりしているのは残念なことである。正しい楽譜を用いて、練習・演奏していただきたい。(前列左端、杖を持っているのがSalvetti)

99.「松林にて」  S.サルヴェッティ作曲 
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 
原編成+ベース 
解説
 “Fla l’ombre della Pineta, idillio”は、1923年、トリーノのイル・マンドリーノ誌から出版された作品で、副題に「午後の平穏」と記されている。「松林愛好者に捧ぐ」とふざけてはいるが、松林の平穏な静けさのなかで午睡する情景が、作者特有の清涼感をもって表現されている。
100.「ネリーアルバム」  C.ムニエル作曲 
原編成 第一・二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター,
スコア マンドリンとピアノ譜
パート譜 原編成+マンドローネ

1.Dolca Mestizia, romanza op.235 (甘き憂愁)
2.Fiorellino Gentile, schottische op.234 (優しき小花)
3.Mazurka Serenata op.188 (セレナータ風マズルカ)
4.Valzer Cantabile op.192 (歌謡調ワルツ)
本曲は、四つの小品から構成されている。一番の「甘き憂愁」は1899年トリーノのイル・マンドリーノ誌から”Dolce Malinconia”として第一第二マンドリン、マンドラ、ギターによる編成で単独出版され、四番の「歌謡調ワルツ」は1900年同誌から第一第二マンドリンとギターの編成で出版されている。後に、四曲が組み合わされてフィレンッツェのモーリ・エ・ペトレリから出版された。編成は第一第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギターで、楽譜には「我が娘に贈る」と記されている。ムニエルは1884年にLuisa Camis de Fonsecaと結婚し、1886年長女Elenaを授かったが、1894年Luisaが亡くなっている。1898年Armida Bastianiniと再婚、1899年に次女Luisaが生まれている。作品番号221の“Serenatella”にも「我が娘Nellyに贈る」と記されていて、”Nelly Album”のNellyもその名をとったものと思われる。また作品番号175”Nellly Gavotta”もこの名前に由来していると推察される。楽譜の出版状況、次女Luisaの年齢から、Nellyは、長女Elenaのことだと考えられる。