オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
76.「間奏曲」  P.シルヴェストリ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ、クロシェット
スコア 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、クロシェット
パート譜 原編成と同じ
解説
作者はイタリアの作曲家。1871年モデナに生まれ、1960年に没した。14才から音楽を学び始め、ギター・マンドリンに関心を持つ。ペサロの音楽院でピアノと和声、対位法を学び、卒業後はモデナのウンベルト一世吹奏楽団の指揮者に任命されるが、後にモデナ・マンドリン合奏団を創立する。1901年、ロディにおける国際マンドリン独奏コンクールの会長に推される。ボローニャの「イル・コンチェルト」誌を主幹するアルドラバンディの後を受けて、同誌主幹となり、イタリア・マンドリン界を啓蒙すると共に数多くのマンドリン曲を作曲した。和声に優れた作品が多く、1941年シエナでの作曲コンクールで受賞した「夏の庭」や「ノスタルジー」「静けき夜」などが知られる。

先年、イタリアでシルヴェストリのマンドリン曲作品集が刊行され、彼の作品や業績が再認識されてきている。『間奏曲』は、1926年にイル・コンチェルト誌から出版された。

77.「劇的序曲」  G.アネッリ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、打楽器    
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説
  作者は、1876年クレモナ近郊トリーゴロ(Trigolo)に生まれ、1926年に没したイタリアの作曲家。最初V.Petraliの弟子でオルガニストの父から音楽の手ほどきを受け、ミラノに移って和声、対位法、作曲法並びに楽器編成法をSaladinoおよびGalliについて学んだが、父の死によって学業を中断、故郷に帰りオルガニストおよび指揮者を継がねばならなかった。それでも独学を続け、プライベートの学生としてボローニアのディプロマをとり、1895年から1907年にかけてトリノ近郊カルマニョーラ(Carmagnola)のAccademia Filarmonicaの指揮者および同市の吹奏楽団の指揮者をつとめ、近くの町ブラ(Bra)ではヴァイオリンとピアノの教師をした。 1897年にはトリノのマンドリン誌イル・マンドリーノに小品を発表するなど、はやくからマンドリン音楽に関係し、1911年にはジュゼッペ・アネッリ・トリーゴロの名で溌剌として清新な序曲『イタリアの復活』 を発表して初期マンドリン合奏に忘れることの出来ない作者となった。この後四つの序曲(『ロマン的序曲』『花の序曲』『劇的序曲』『イタリアの覚醒』)を作り、アネッリ風ともいうべきマンドリン合奏における序曲(Sinfonia)の定型を残した。『嬉しいとき悲しいとき』など、多くのマンドリン合奏のための小品をイル・マンドリーノ誌、マンドリニズモ誌(スイス)、レスチューディアンティナ誌(フランス)から発表しているが、残念ながらほとんど知られることもなく演奏されることはない。

78.「マリニータ」    C.コレッタ作曲

原編成 第1・第2・第3マンドリン、マンドラ、ギター、打楽器
スコア 第1・第2・第3マンドリン、マンドラ、ギター、打楽器
パート譜 第1・第2・第3マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース、打楽器
解説
ナポリ音楽院を卒業し、数多くの音楽コンクールにも入選した著名なギタリストで画家。イタリア本土を望むシチリア島のメッシナに住んでいた。1921年よりスイスの斯楽誌マンドリニズモの編集責任者になっている。特にギターとマンドリンのため作品を数多く作曲した。簡明で洗練された和音とメロディによる舞曲、セレナータ、スケルツォ、マーチ等の小品が多い。作品はミラノのイル・プレットロ誌やスイスのマンドリニズモ誌等から出版されている。マンドリン曲には、1920年のイル・プレットロ誌主催の作曲コンクール行進曲・舞曲の部で一位となった「マリニータ」をはじめ、「優雅な仮面」「化粧をする貴婦人」「三人姉妹の美の女神」「マンドリニズモ」「スペイン風マンドリナータ」「麗しのギター」等がある。

 本曲は1920年にミラノのイル・プレットロ誌主催作曲コンクールの行進曲・舞曲の部門で一位受賞したスペイン風行進曲で、1920年にマンドリンとギターの楽譜が、1925年にスコアが同誌から出版された。タンバリンとカスタネットが入る華やかな行進曲である。

79.「奇想的間奏曲」 A.アマデイ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説
 軍楽隊長の地位にありながら、絶えずマンドリン音楽との接触を保ち、斯楽の作曲、演奏のコンクールの審査員となり、また多くの佳曲を斯界に提供しているアマデイは「マンドリニストの友」と敬愛された。一方、イル・プレットロを主宰したA.Vizzariは、アマデイの「海の組曲」「降誕祭の夜」をはじめアマデイの作品を多く出版し斯界を啓蒙してきた。本曲は1906年に創刊されたミラノのイル・プレットロ誌の25周年を祝してVizzariに贈られたものである。マンドリン合奏でのアマデイの多くの経験によって到達した高いものがこの曲に見られる。

1931年イル・プレットロから出版され、同年4月26日、ミラノでのイル・プレットロ誌記念演奏会にD.Rinardi指揮のチルコロ・マンドリニスティカ・リナルディが初演した。

80.「オラッチとクリアッチ序曲」 D.チマローザ作曲   G.F.ポーリ編曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ 
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ 
解説
 編曲者ポーリは、1896年創立されたクレモナの「Circolo Mandolinistico di Cremona」の指揮者として、イタリア各地で開催されたコンクールに度々入賞するなど目覚ましい活躍をした。「Circolo Mandolinistico di Cremona」は、マンドリン系楽器によるマンドリン四重奏団、約25名によるプレクトラムオーケストラ、さらには若干の管楽器とオルガンやハープ等を加え、ポーリの編曲によるモーツァルト、ポンキエルリ、ヴェルディ、ドニゼッティ、ロッシーニ等の作品を演奏するグランドオーケストラの三つのグループで構成されていた。ポーリの死後、「Circolo Mandolinistico di Cremona」は「Circolo Mandolinistico di G.F.Poli」と名称を変更、ポーリの名を冠し、ポーリの功績を称えた。

1796年、ヴェニスで初演された歌劇「オラッチとクリアッチ」は、今日ほとんど演奏されることもなく忘れ去られているようだが、その「序曲」だけがマンドリンオーケヅトラの特性を熟知したポーリの巧みな編曲によりマンドリンオーケストラ曲として新たな生命を与えられ、マンドリン界に今も光を放っている。1910年「イル・プレットロ」誌主催の第3回作曲コンクールで特別金牌を授賞し、一躍斯楽で愛奏されるようになったこの曲は、悲劇的なオラッチ兄妹の宿命を暗示する緩叙部と、両国戦士の激闘を描写する快速部から構成されている。原調は変ロ長調であるが、ポーリにより簡潔明快に編曲されている。ポーリの編曲譜では4/4で記されているが、原曲では2/2である。演奏技術が格段とレベルアップした今日、従来の解釈、奏法にとらわれず快速に演奏されたい。今までの演奏が滑稽に感じられるはずである。右下は『オラッチとクリアッチ序曲』原譜。