オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
161.「すべては去りぬ」哀歌  H.ラヴィトラーノ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター
スコア  第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース 
解説
19世紀後期ナポリ湾頭のイスキア島に生まれ、永年アルジェリァのボーン市に住み、1934年12月16日彼地で逝去したフランス国籍の作曲家。彼ははじめ、或るフランス人から音楽の手ほどきを受け、ナポリにおいてPaolettiから和声と作曲法を学び、同地の音楽学校教授Fotucciのクラスにも通った。その後彼は、管弦楽や吹奏楽の指導をしていたが、音楽の他にイタリア語、フランス語、スペイン語等数ヶ国語に堪能で、これらの教授もしていた。彼の作品の中には彼の郷土とも云うべきアルジェリアの熱く明るく輝く異国情緒豊かな息吹きが感じられる。 フランスのL'Academie Populaireの作曲コンクールに「Religioso Chiatite」が二等受賞。マンドリン音楽では、1902年トリノのマンドリン誌イル・マンドリーノ主催の作曲コンクールで「ローラ序曲」が二等受賞した(このときの一等はブラッコの名作「マンドリンの群」であった)。また、パリのレステューディアンティナ誌主催作曲コンクール(1909年)に「レナータ(小序曲)」が二等受賞、1908年ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールには「雪(ロマンツァとボレロ)」が応募作品19の中から上位入賞している。「すべては去りぬ」は、文字通り作者の晩年の作品で、「ローラ序曲」や「レナータ」には見られなかった円熟した作曲技法により当時のフランス斯界のレベルを超えた境地に到達している。1933年6月にレステューディアンティナ誌から出版された。楽譜にはヴィクトル・ユーゴーの詩集『秋の木の葉』の一節が載っている。 

163.「ニ調のガボット」 G.ボルゾーニ作曲(G.F.ポーリ編) 
原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース
スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース 
解説 1841年5月15日パルマに生まれ、1919年2月21日トリノに逝いたイタリアの作曲家、ヴァイオリニスト。
パルマの音楽学校に学んだ後、サボーナのオーケストラのヴァイオリニストとなり、6年後にはコンサートマスターと指揮者となった。その後、ペルージャのモルラッキ劇場で3年間指揮者と音楽監督をつとめた。1884年にトリノのレージョ劇場の音楽監督となり、プッチーニのオペラ『妖精ヴィッリ』の改訂版初演の指揮者を務めるなどした。1887年には、パルマ王立歌劇場のコンサートマスター、音楽監督となった。長らくトリノ音楽院の校長を勤め、29年にわたってその職にあり、多くの有能な音楽家を育てた。作品には、『ミヌエット』が知られているが、オペラ『民事婚』(1870年、パルマで初演)、『アルプスの星』(1876年、サヴォーで初演)、『イエラ』(1881年ピアチェンツァで初演)、さらには、オーケストラのための『主題と変奏』、小編成オーケストラのために『中世の城にて』などの管弦楽曲、弦楽四重奏曲、五重奏曲、ヴァイオリン小品を書いた。『ニ調のガヴォット』はクレモナ・マンドリン合奏団指揮者であったポーリの編曲による。 
ポーリはクレモナ・マンドリン合奏団のために多くの古今名曲をマンドリンオーケストラに編曲し、当時各地で開催された演奏コンクールや作曲(編曲)コンクールに度々入賞し、クレモナとクレモナ・マンドリン合奏団の名を広めた。合奏団の演奏技術もさることながら、マンドリンオーケストラへの編曲に対する彼の優れた選曲眼と編曲手法により、我々のレパートリーに、チマローザの『Gli
Orazii ed i Curiazii,sinfonia』など数多の名曲を残した。本曲は、ミラノの大音楽出版社であるリコルディから、当時としては珍しい手書き譜を製版して印刷され出版された。
165.「ミヌエット」  G.ボルゾーニ作曲(F.ゲネ編)

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ
解説
『ミヌエット』はボルゾーニの作品中最も知られている室内楽曲である。マチョッキの主宰したマンドリン曲出版者L’Estudiatina誌の後を継ぐL’Orchestre a Plectre誌を発行するパリのAdofe社から、 Freddy Guenettがマンドリンオーケストラのために『舞踏への勧誘』(ウェーバー)、『ラルゴ』(ヘンデル)、『おもちゃの交響曲』(伝J.ハイドン、L.モーツァルト作)、『牧歌』(シャブリエ)など数曲の編曲作品を発表しているが、本曲もその一つ。 

162.「我が恋人」ワルツ   R.クレパルディ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説
 クレパルディの経歴については生没年(1878-1949)と若干の管弦楽曲、マンドリン曲が判明するのみである。

クレパルディには次のようなマンドリン曲が判明している。
   Pas de quoi, polka brillante  I.M.R 1911
   Mon amour, valse           I.C  1914 (Il Concerto
   Serenata Romantica        A.Comellini.
   Viaggio di Nozze, marcia    I.C  1922
   Canzonetta, fox trot         I.C  1925
   Intermezzo(Notturno)       I.C  1927
   Te Sola, valzer lento         I.C  1934
  編曲作品

   Chueca e Valverde  
   Fantasia-Marcia sull'Operetta "La Gran Via"  I.C. 1916 
   Marenco, R.         Excelsior,fantasia           I.C. 1915 
   Moszkowsky, M.     Serenade                    I.C. 1919

 

164.「アンダンテとポロネーズ」  E.メッツァカーポ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ  
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ 
解説
 作者はイタリアのマンドリニストで、19世紀の終りにパリに移住してマンドリンの教授と多くのマンドりン佳曲を書いた、1901年にはロンドンを訪れ、同地の婦人合奏団の指揮とマンドリンの教授をした。王立アルバートホールで彼の指揮により自身の作曲になる“Reverie”と“Tolede”の演奏は大成功をおさめた。かのマルチェルリと共に共演したのはこの頃である。1912年には再びパリに帰り作曲家として、また音楽学校の教授として、さらにロンバルド・エステヴュディアンティーナの指揮をつとめた。

メッツァカーポは多くの好ましいマンドリンとマンドリン合奏のための曲を作曲した。“Sympathy Waltz”、“Napoli Tarantella”など、彼のマンドリン作品のいくつかは、ヴァイオリン曲、小管弦楽等にン編曲され広く出版された。彼の作品の多くはパリのRowies社から出版されたが、その数は約60曲にもなった。小規模のマンドリンアンサンブル曲に多くの佳曲があり、わが国では『アンダンテとポロネーズ』『ナポリ・タランテラ』『ゴンドラ漕手の唄』等が好んでよく奏かれる。