オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
510.「マンドリン二重奏曲」  F.レバーリ作曲

原編成 第1・第2マンドリン
スコア 第1・第2マンドリン
解説
レバーリは20世紀初頭に活躍したマンドリン演奏家で、二巻からなるマンドリン教則本が出版されている。また、ムニエルやグラティアーニ・ワルテル等と共に、エルネスト・ベクッチ(1845-1905)の作品(室内楽曲か)をマンドリン合奏に編曲している。レバーリについては、現在のところ、これ以上のことは判明していない。

 この二重奏曲は、フィレンツェの出版社Brattiから出版されたレバーリの“Metodo Teorico Pratico per Mandolino”ParteU(ポジションの練習)の巻末に収録されているものである。

 アレグロ・モデラート、アンダンティーノ、ロンド・アレグレットの三つから成っている。マンドリンの楽しみが凝縮された、簡単で、親しみ深く味のある二重奏曲である。家族で、親しい友と、恋人同士で楽しく演奏していただきたい。
 スコアは、フィレンツェの出版社Brattiから刊行された掲載の教則本巻末の原譜に拠った

156.「カナル・グランデのセレナータ」 F.P.ネーリア作曲 B.ビアンキ編曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース    
スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース 
解説
 1874522日、シシリア島中央部のエンナに生まれ、 195273l日にスイス国境に近いマッジョーレ湖畔ヴェルバーニアで死去した。 本曲は1913年に作曲されたSuite Sinfonica "Tre quadri di vita venezianaop.32”(ヴェニスの生活三景)の第2楽章である。第1楽章は「ヴェニスのパノラマ」、第3楽章は「サンマルコ広場」となっている。
ライプチヒ・ゲバントハウス・オーケストラ指揮者ヘルベルト・アルベルトがトリーノに本拠をおくRAI国立交響楽団を指揮して録音したレコードの解説には、「二枚目の絵、愛する女性のいるバルコニーの下で恋人のマンドリンが奏でるセレナータがヴェニスの大運河(Canal Grande)の一角に響く」とある。

ミラノのマンドリン教授でマンドリンソリストとしてレコードに録音もしていたボニファチオ・ビアンキの編曲による。 

157.「シシリー風セレナータ」  F.P.ネーリア作曲 .ビアンキ編曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース    
スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース   
解説
1874522日、シシリア島中央部のエンナに生まれ、 195273l日にスイス国境に近いマッジョーレ湖畔ヴェルバーニアで死去した。

作品はオペラ、交響曲、室内楽曲、吹奏楽曲、合唱曲、ピアノ曲など多岐にわたり、当時もてはやされていたマンドリンにも興味を示し、無伴奏マンドリン独奏曲”Fntasia,op.6”を作曲、“Serenata Siciliana,  op. 37“では、編成にマンドリンを加えている。
 本曲は、ミラノのマンドリン教授でマンドリンソリストとしてレコードに録音もしていたボニファチオ・ビアンキの編曲によるもの。スコアおよびパート譜はトリーノの音楽出版社AUGUSTAから1956年に出版されたものを用いた。
 

159.「ジプシー風セレナータ」  S.ファルボ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説
1872年5月28日シチリア島シラクーサのアヴォラに生まれ、192748日スペイン風邪により同地に逝去したイタリアの作曲家。

 マンドリンではミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに度々入賞、斯界に新風を吹き込んだ。現代に至っても至宝の作品となっている。

「ジプシー風セレナータ」は、ファルボ最晩年の作品で、彼の死後1930年イル・プレットロ誌によりPostuma(遺作)として出版された。彼の遺作としては他に、イル・プレットロ誌から1928年に“L'eterna Serenata”「永遠のセレナータ」が出版されている。またセレナータとしては、国際作曲コンクール入賞したピアノ伴奏マンドリン独曲が1909年にイル・プレットロ誌から出版されている。

160.「夕べの静けさ」前奏曲 D.ベッルーティ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ、鐘、トライアングル、ティンパニー
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説
 1930年5月、ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに彼の「モスコーの真昼」「黄昏語る時」の2曲が入選した。当時、沈滞下降をたどっていたマンドリン界はベッルーティの出現により、一時清新の風をあたえられた。彼の作風は、アマデイやマネンテ、ファルボ、ミラネージ等の独創的な技巧には及ばないが、憂いと郷愁に満ちたセンチメンタルなメロディーやリズムは、通俗的との謗りはあるがマンドリン本来の美しさに回帰し、マンドリン音楽に新しい精彩を加え、一段と新しい境地を求めている。

 「夕べの静けさ」は1933年、ミラノのイル・プレットロ誌からから出版されたもので。シエナの合奏団に贈られたものである。スコアには“Era gia l’ora che volge ‘l disio”(あこがれの時は去りし)とダンテの詩の一節が掲げられている。