原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ、
解説 作者は1866年12月9日イタリア・ロレートに生まれ、1915年6月16日トリーノで逝去した作曲家で管弦楽指揮者。マンドリン合奏曲の創作は既に1897年ごろから始めているが、1906年ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに「プレクトラム賛歌」が受賞。1908年同誌主催の第二回作曲コンクールに提出された「海の組曲」は一位に入賞(このとき、二位はなく、マネンテの「メリアの平原にて」が三位)、以来マンドリン音楽の至宝として親しまれている。マンドリン音楽への作曲、編曲だけでも九十曲以上があげられるのは、マンドリン音楽への愛着が並々でなかった証拠といえよう。彼の貢献はマンドリン音楽の独創性を把握して、マンドリン本来の表現能カに対して何等の特殊技巧を施すことなく自然な表現をおこない、イタリア人の明朗なロマンティシズムを味わい深い旋律に託し、各楽器結合の妙味、音色に対する優れた感覚、対比旋律の巧みな配置、これらが渾然と総合されてマンドリン音楽独自の世界を創造したことにある。「マンドリニストの友」と敬愛されたアマデイは多くの優れた小品を残している。本曲もその一つで、A.Vizzariに代わり、1906から1908年までアマデイが主幹をつとめていたボローニアのヴィタ・マンドリニスティカ誌からスコアが出版(1908年10月)されている。そして第二次世界大戦最中の1942年暮れに、A.Vizzariが主宰するミラノのイル・プレットロ誌からパート譜が出版された。そして、イル・プレットロ誌は細々と出版を続けたが、ついに1943年に廃刊となった。
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