オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
131.「宝玉の舞曲」      C.ムニエル作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
パート譜 原編成と同じ

解説 「宝玉の舞曲」は、かつて「ネリー・アルバム」と共にムニエルの代表的な合奏曲として広く愛奏された作品である。近年は本邦斯界のオリジナル作品への軽視と大曲嗜好から上演頻度が激減してしまったことは非常に残念である。
  作品番号229番があたえられた本曲は5つの楽章から成り1910年に出版されたが、はじめの3つの楽章は旧作をより充実した内容に書き改めたものである。編成はギターを含む5部であるがプレクトラム四重奏の形でも書かれており、ギターパートにオリジナリティーが乏しいことから、こちらが作者の望んだ編成なのかもしれない。各楽章はフランス語で表記されており、第二楽章のエレーヌとは長女ネリーのことであろう。
楽想は典雅で優雅、ムニエルの甘いロマンティシズムが全編を貫いている。当時、マンドリン音楽の擁護者としてムニエルの活動を大いに援助したといわれるミラフィオーリのガストン伯爵に“尊敬と敬意をもって”献呈されている。

(2011年10月7日 京都市で開かれたオザキ譜庫主催「マンドリンの父、カルロ・ムニエル没後100年に捧ぐ 〜 ウーゴ・オルランディ&石村隆行マンドリンコンサート」プログラムに石村隆行氏が書かれた解説)

 楽譜は、フィレンツェのBratti版用いた。

130.「スペイン組曲」     S.ファルボ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ、ハープ
スコア 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ
パート譜
スコアと同じ

解説 1872年5月28日シチリア島シラクーサのアヴォラに生まれ、1927年4月8日スペイン風邪により同地に逝去したイタリアの作曲家。Giorgio Miceliのレッスンを受けるためパレルモに行き、後に同地の国立「V.Bellini音楽院」に進み、CasiとStronconeにピアノを、Favaraに対位法とフーガを、Zuelliに作曲法を学んだ。1896年、大管弦楽のための“Scena Lilica”と5声のための“Fuga”を卒業作品として提出し、ピアノと作曲法にディプロマを得た。5ヶ月後、ニコーズィアにおける吹奏楽団の指揮者のためのコンクールに勝利を得、指揮者として3年間同地に滞在し、その後故郷アヴォラの吹奏楽団指揮者に迎えられた。作品にはオルガンを伴う五声の“Kyrie Eleison”、室内楽のための“Lirica”、ヴァイオリンとピアノの“Serenata”、F.Amatoの台本によるオペラ、オペレッタ“La Favola della Principessa(王女の物語)”、フィラルモニカ・パイジエロにより上演された“三楽章の組曲”などがある。マンドリンではミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに度々入賞、斯界に新風を吹き込んだ。現代に至っても至宝の作品となっている。ヴィツァリ社および同社が発行していたイル・プレットロ誌から出版された彼のマンドリン曲作品は、オザキ譜庫ホームページから「マンドリン出版社カタログ(1)」を選択し、「Il Plettro」誌の「作曲者別目録」で見ることができる。
 本作品は『小さな火花』というモットー(仮の標題)であったが、1921年、イタリアのマンドリン研究誌「イル・プレットロ」(ミラノ)が主催した作曲コンクールに『組曲「スペイン」』と改題して応募され第1位を受賞した。なお、この曲は「ミラノ・マンドリン合奏団」に献呈されている。我が国マンドリン音楽の先覚者の一人であり推進者であった武井守成の主宰する合奏団で1922年、本曲はいち早く初演された。以後、ファルボの作品を精力的に紹介、演奏した武井は、ファルボの音楽を生野菜にたとえて、その難解さと素晴らしさを評論・説明している。ファルボのマンドリン・ギター合奏曲の到達点ともいうべき作品で、吹奏楽に比べてパートが少ないマンドリン・ギター合奏の不備を補おうと和声を各パートに分散して配置しているため、ホタやボレロといった強烈なスペインのリズムとの両立が難しく、重音奏法など高度なテクニックが要求される。

 スコアおよびパート譜は1922年に発行されたイル・プレットロ誌による。なお、岡村光玉氏がイタリア留学中、ファルボの消息を尋ねてアヴォラに赴き、シラクーサに住むファルボのご子息に面会することができた。岡村氏は同氏からファルボの作品多数を複写したが、その中に、コンクールに応募した自筆の「スペイン」スコアがあった。それには、下記編成に加えアルパ(ハープ)が入っている。ファルボ自筆スコアが必要な方はオザキ譜庫まで問い合わせいただきたい。

129.「朝の歌」    A.アマデイ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、ピアノ
スコア 原編成と同じ
パート譜
第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース

解説 作者は1866年12月9日イタリア・ロレートに生まれ、1915年6月16日トリーノで逝去した作曲家で管弦楽指揮者。初め音楽家の父ロベルト(1840-1913)に学び、ボローニアのアカデミア・フィラルモニカで作曲、ピアノを修め、さらにオルガニスト、合唱指揮も修めた。以来各地のコンサート及び劇場の指揮にあたり、多くのオーディションのピアニストをつとめた。1889年歩兵第七十三連隊楽長を拝命以来、各地「セレナテルラ」という題名で軍楽隊長を歴任。退役後はトリーノに定住し、指揮者として、教授として音楽界各方面に尽くした。作品も多岐にわたり、オペレッタ、管弦楽曲、吹奏楽曲、歌曲、ピアノ曲、室内楽曲、マンドリン合奏曲を含めて約五百曲がある。
 マンドリン合奏曲の創作は既に1897年ごろから始められているが、1906年ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに「プレクトラム賛歌」が受賞。1908年同誌主催の第二回作曲コンクールに提出された「海の組曲」は一位に入賞(このとき、二位はなく、マネンテの「メリアの平原にて」が三位)、以来マンドリン音楽の至宝として親しまれている。マンドリン音楽への作曲、編曲だけでも九十曲以上があげられるのは、マンドリン音楽への愛着が並々でなかった証拠といえよう。彼の貢献はマンドリン音楽の独創性を把握して、マンドリン本来の表現能カに対して何等の特殊技巧を施すことなく自然な表現をおこない、イタリア人の明朗なロマンティシズムを味わい深い旋律に託し、各楽器結合の妙味、音色に対する優れた感覚、対比旋律の巧みな配置、これらが渾然と総合されてマンドリン音楽独自の世界を創造したことにある。
 マッティナータとは、イタリア語で「愛する人物のために、その人物がいる建物の窓の下で明け方に奏される音楽」を意味し、夕方に奏されるセレナータと対をなすものである。本曲は、1926年10月、当時イタリアマンドリン界を牽引していたA.Vizzariの主宰するイル・プレットロ誌から出版されたが、実は、1907年にボローニアのヴィタ・マンドリニスティカ誌から出版されていた「セレナテルラ」という曲と異名同曲である。ヴィタ・マンドリニスティカ誌は、1901年コッチ兄弟により刊行された斯楽楽譜誌であるが、最初S.Garganoが主幹となり編集発行していたが、F.Tentarelli、さらにA.Vizzariに代わり、1906から1908年まではアマデイが主幹をつとめていた。
 スコアは、マンドリン誌イル・プレットロが出版した「マッティナータ」原譜によった。第一マンドリンとギターのパート譜はヴィタ・マンドリニスティカ誌の「セレナテルラ」を用いた。マンドロンチェロ、ベースは故松本譲氏作成によるスコアからオザキ譜庫が写譜。(右下段は「セレナテルラ」のスコア)

135.「黄昏語るとき」前奏曲    D.ベッルーティ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ・コントラルト、マンドラ・テノール、マンドロンチェロ、マンドローネ、ギター、オルガン、ティンパニー
スコア 原編成と同じ
パート譜
原編成と同じ

解説 1930年5月、ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに彼の「モスコーの真昼」「黄昏語る時」の2曲が入選した。当時、沈滞下降をたどっていたマンドリン界はベッルーティに出現により、一時清新の風をあたえられた。彼の作風は、アマデイやマネンテ、ファルボ、ミラネージ等の独創的な技巧には及ばないが、憂いと郷愁に満ちたセンチメンタルなメロディーやリズムは、通俗的との謗りはあるがマンドリン本来の美しさに回帰し、マンドリン音楽に新しい精彩を加え、一段と新しい境地を求めている。

 この曲は、マンドリン合奏の特異な表現を駆使してベッルーティ特有の情景を描いている。レガートの効果を強くするためマンドラコントラルトとハーモニウムを加えた。楽曲表現に自然な音色の変化を求め、魅惑的な旋律とあいまって高度な効果をあげている。
スコアおよびパート譜は1930年発行のイル・プレットロ誌特別出版を用いた。オルガンとティンパニーの譜面はイル・プレットロ誌より手写譜頒布された

132.「カイロの思い出」アラビア風小曲   G.マネンテ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
スコア 原編成と同じ
パート譜
原編成に打楽器を加えた。

解説 1921年秋作者はエジプトから招聘されて、1924年まで国王ファド・パシャの宮廷附楽団の指揮者をつとめた。ヴェルディ、ベルリーニ、マスカーニ、ポンキェルリ等の作品を演奏し、殊にマス力一ニ「太陽への讃歌」が国王お気に入りの曲だったという。作者もこの時期にエジプトに取材した「アレクサンドリア旅団」「ポートサイドの思い出」等の作品がある。
 本曲もその一つで、エジプト国王の侍従武官長シェハタ・カメル・パシャ将軍に捧げられている。初演は1922年5月クルバン・バイラムの祭典においてエジプト国王吹奏楽団によって成功を収め、ローマの出版社から吹奏楽譜が出版されている(後にナポリのPucci社が継承)。同年9月、作者自身によってマンドリン合奏曲に編曲されミラノのイル・プレットロ誌から出版された。時期は分からないが、アレクサンドリアのF.Lifonti社からピアノ譜も出版されている。
 スコアおよびパート譜は1922年9月発行のイル・プレットロ誌を用いた。原調はへ短調であるが、マンドリン合奏ではイ短調に移調され弾き易くなっている(ピアノ譜はト短調)。しかし随所に増二度のムーア風音階が用いてあるので注意を要する。吹奏楽スコアと比較すると速度、表情、記号、その他で吹奏楽スコアの方が指示が細いので、上演に際しては吹奏楽譜も是譜参照していただきたい。とくに低音のリズムに相違があり、オザキ譜庫作成のマンドロンチェロ、マンドローネのパート譜には変更して記しているので、ギターパートは参照していただきたい。打楽器は吹奏楽スコアからオザキ譜庫が写譜した。
 
(右下段は「カイロの思い出」のピアノ譜)