オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
31.「四重奏曲」        S.ファルボ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、
スコア 原編成と同じ
パート譜
原編成と同じ(マンドロンチェロの代わりギターでも可能なようにギター譜も出版されている)

解説 「四重奏曲」は1922年におこなわれたイル・プレットロ誌第5回作曲コンクールのプレクトラム四重奏曲部門において“Tranquam non esset(何もなかったかのように)”と題するモットー(作曲の意図などを示す仮の表題)で応募され、金賞を得たものである。このときマンドリンオーケストラ曲部門でも、彼の「四楽章組曲(後に「スペイン組曲」と題して出版)」が金賞を受賞している。

 このコンクールの審査員(A.アマデイ、Erm.カロシオ、C.M.ガルローネ)は1922年2月25日のイル・プレットロ誌上で「今回のコンクールでマンドリン界は独創的で貴重なレパートリーを得ることができた」と述べ、四重奏部門について「シシリアのマエストロによって興味ある、価値ある作品がもたらされた」と特筆している。

 この「四重奏曲」はイル・プレットロ誌の定期刊行ではなく、同誌から1922年に特別出版された。さらに、コンクール応募時の自筆スコアが1925年に同誌から頒布されている。出版譜と自筆スコアにはかなりの相違があり練習・上演の際には双方を比較参照されたい。

32.「苦悩」        D.ベッルーティ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、マンドローネ、ギター、ハープ、オルガン、ティンパニー、打楽器
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ

解説 1893年8月31日にル(Lu)・モンフェッラート(Monferrato)に生まれ、1947年8月22日カザーレ(Casale)・モンフェッラートに死去したイタリアの作曲家でギタリスト。岡村光玉氏によるDino Berrutiの甥であるGianni Berruti氏からの聞き取り調査によると、Dino は独学で音楽学校にも行っていない。彼の父(Dinoの弟)も素人ながらDinoの影響を受け、ピアノ、ヴァイオリン、ギター、フルートをよくしたという。Dinoは、第一次欧州大戦前は電信員、戦後はCasaleの郵便職員を務めていたという。

Berben社発行の『イタリアギタリスト辞典』には、1961年に自殺したと書かれているが、1947年8月22日にCasaleの“Santo Spirito”病院で死去した。彼は常に神経質な人で、二三年おきに発作のようなものがおきて苦しんでいた。第二次世界大戦後、その発作の治療のため簡単な手術を受けることになっていたが、彼はこの手術に極度の絶望感を覚え自ら生命を絶ったという。

1930年5月、ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに彼の「モスコーの真昼」「黄昏語る時」の2曲が入選した。当時、沈滞下降をたどっていたマンドリン界はベッルーティに出現により、一時清新の風をあたえられた。彼の作風は、アマデイやマネンテ、ファルボ、ミラネージ等の独創的な技巧には及ばないが、憂いと郷愁に満ちたセンチメンタルなメロディーやリズムは、通俗的との謗りはあるがマンドリン本来の美しさに回帰し、マンドリン音楽に新しい精彩を加え、一段と新しい境地を求めている。

 この曲は、第二次欧州大戦中1940年、イタリアのシエナでおこなわれたマンドリン曲作曲コンクールに四位入賞(一位なし)したものである。岡村光玉氏がイタリア留学中にシエナ在住のマンドリン指導者アルベルト・ボッチ氏に懇請し、1940年・1941年のシエナでの作曲コンクール入賞曲のほとんどを譲り受け我が国にもたらしたものである。

 この曲のコンクール応募時のモットー(仮の題名)は、「勝利か死か!」と題されている。戦時中のことであり戦意高揚のための題名と考えることができるが、彼の生涯を苦しめた「死に至る病」からの悲痛な叫びであったと思いたい。
 スコアは1940年コンクールに提出された作者の自筆譜を用いた。パート譜はオザキ譜庫で作成したものである。

33.「エカーヴの嘆き」     N.ラウダス作曲 

原編成 第1マンドリンa/b、第2マンドリン、マンドラ・コントラルト、マンドラ・テノール、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ
スコア 原編成と同じ
パート譜
原編成と同じ

解説 作者は、ギリシャのアンドロス島(キクラディス諸島)ピトロフォス村で生まれ、アテネで没した指揮者・作曲家。彼の父は息子4人の教育のためピトロフォス村を離れアテネに移住したという。ニコラスは、アテネ大学で数理学を専攻し(物理科学博士号取得)、アテネ芸術大学で音楽を学んだ。その傍らJ.マスネーの教えを受け、作曲家、オーケストラ指揮者として活躍中のディオニソス・ラブラガス(ギリシャ歌劇創設1862-1941)の個人教授を受けた。また、ニコラスは叔父の影響を受けマンドリンに興味をいだいたという。

  作品には「第一ギリシャ狂詩曲」、イル・プレットロ誌主催の作曲コンクールで入賞した「第ニギリシャ狂詩曲(ギリシャ風主題による序楽)」、「ギリシャ序曲」、「クレタ風舞曲」「第ニギリシャ舞曲」、「舞曲風スケルツェット」「ギリシャの唄」などのマンドリン合奏曲があり、他に校歌、児童ミュージカル作品、25のギリシャ民謡和声歌などがある。著書には「マンドリンの奏法」「音楽理論の手引」がある。 ニコラスは、「マンドリナータ・アテニエーゼ」音楽院の校長として指揮者としても知られ、1912年同学院附属合奏団「アテナイキ・マンドリナータ」を率いアメリカを訪問しアメリカのマンドリン界に刺激を与えた。

本曲の「エカーブ」はフランス語題名の読みからとられているが、ギリシャ神話の「ヘカベ」であろう。ヘカベはトロイア王プリアモスの王妃。ホメロスの叙事詩『イリアス』では、息子パリスがスパルタの王妃ヘレネを奪ったことからはじまる十年にもおよぶトロイア戦争で、ギリシャ側の将アキレウスに討たれて命を落とした我が子の英雄ヘクトルを見て、髪の毛をむしり、艶やかなヴェールも投げ棄てて、激しく嘆く母として登場している。「トロイの木馬」によってトロイ側が破れたのち、奴隷となったヘカベと残された息子、娘や嫁には不運が続いた。本曲はこのトロイア戦争とヘカベの悲劇をモチーフとしたものと考えられる。
  この曲は印刷に付されることはなく、ミラノで刊行されていたマンドリン誌「イル・プレットロ」から手写譜により頒布された。
34.「ネリー・ガボット」     C.ムニエル作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、ピアノ
パート譜 原編成と同じ

解説 「ネリー」は、“協奏的二重奏曲”と題された6曲の作品集(op.171〜op.176)に含まれる作品。この中では「アダージオとロンド」がたまに演奏される機会があるが、その他の作品はほとんど知られておらず、寡聞にして演奏されたということを聞かない。
  ムニエルの作品は、作曲時期と出版年が一致しておらず、正確な作曲時期を特定することが甚だ困難であるが、恐らく1890年前後の作品であろう。
  「ネリー」は、ムニエルの長女エレーナの愛称を冠したガヴォッタで、可憐で魅力的な楽想が連なる佳曲である。中間部に“レント”と二重カデンツァを挟んで趣を変え、主部に戻る。なかなか凝った、規模の大きなガヴォッタとなっている。
 (2011年10月7日 京都市で開かれたオザキ譜庫主催「マンドリンの父、カルロ・ムニエル没後100年に捧ぐ 〜 ウーゴ・オルランディ&石村隆行マンドリンコンサート」プログラムに石村隆行氏が書かれた解説)

 楽譜は、フィレンツェのBratti版用いた。

35.「幻想的セレナータ」   C.ムニエル作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、ピアノ
パート譜
原編成と同じ

解説 「幻想的セレナータ」は、“協奏的二重奏曲”と題された6曲の作品集(op.171〜op.176)に含まれる作品。この中では「アダージオとロンド」がたまに演奏される機会があるが、その他の作品はほとんど知られておらず、寡聞にして演奏されたということを聞かない。
  ムニエルの作品は、作曲時期と出版年が一致しておらず、正確な作曲時期を特定することが甚だ困難であるが、恐らく1890年前後の作品であろう。

  「幻想的セレナータ」は「アダージォとロンド」に比肩する力作である。ホ短調、4分の3。冒頭に、どこかスペイン風のリズムに乗って物憂げな第一主題が第一マンドリンに現れる。それが第二マンドリンにオクターブ下で引き継がれると、突如短い“アレグロ・ジュスト”に遮られハ長調で穏やかに歌われる“アンダンテ・カンタービレ”に入る。その後も楽想がめまぐるしく移り変わるが、中間部に現れる華麗な“ワルツ”はかなり長大な部分となっている。終結部は第一主題がフォルテで再現するが、次第に力を失い消え入るように終わる。(2011年10月7日 京都市で開かれたオザキ譜庫主催「マンドリンの父、カルロ・ムニエル没後100年に捧ぐ 〜 ウーゴ・オルランディ&石村隆行マンドリンコンサート」プログラムに石村隆行氏が書かれた解説)
 楽譜は、フィレンツェのBratti版用いた。