原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、マンドローネ、ギター、ハープ、オルガン、ティンパニー、打楽器
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説 1893年8月31日にル(Lu)・モンフェッラート(Monferrato)に生まれ、1947年8月22日カザーレ(Casale)・モンフェッラートに死去したイタリアの作曲家でギタリスト。岡村光玉氏によるDino Berrutiの甥であるGianni Berruti氏からの聞き取り調査によると、Dino は独学で音楽学校にも行っていない。彼の父(Dinoの弟)も素人ながらDinoの影響を受け、ピアノ、ヴァイオリン、ギター、フルートをよくしたという。Dinoは、第一次欧州大戦前は電信員、戦後はCasaleの郵便職員を務めていたという。
Berben社発行の『イタリアギタリスト辞典』には、1961年に自殺したと書かれているが、1947年8月22日にCasaleの“Santo
Spirito”病院で死去した。彼は常に神経質な人で、二三年おきに発作のようなものがおきて苦しんでいた。第二次世界大戦後、その発作の治療のため簡単な手術を受けることになっていたが、彼はこの手術に極度の絶望感を覚え自ら生命を絶ったという。
1930年5月、ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに彼の「モスコーの真昼」「黄昏語る時」の2曲が入選した。当時、沈滞下降をたどっていたマンドリン界はベッルーティに出現により、一時清新の風をあたえられた。彼の作風は、アマデイやマネンテ、ファルボ、ミラネージ等の独創的な技巧には及ばないが、憂いと郷愁に満ちたセンチメンタルなメロディーやリズムは、通俗的との謗りはあるがマンドリン本来の美しさに回帰し、マンドリン音楽に新しい精彩を加え、一段と新しい境地を求めている。
この曲は、第二次欧州大戦中1940年、イタリアのシエナでおこなわれたマンドリン曲作曲コンクールに四位入賞(一位なし)したものである。岡村光玉氏がイタリア留学中にシエナ在住のマンドリン指導者アルベルト・ボッチ氏に懇請し、1940年・1941年のシエナでの作曲コンクール入賞曲のほとんどを譲り受け我が国にもたらしたものである。
この曲のコンクール応募時のモットー(仮の題名)は、「勝利か死か!」と題されている。戦時中のことであり戦意高揚のための題名と考えることができるが、彼の生涯を苦しめた「死に至る病」からの悲痛な叫びであったと思いたい。
スコアは1940年コンクールに提出された作者の自筆譜を用いた。パート譜はオザキ譜庫で作成したものである。
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