オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
121.「抒情的間奏曲」   S.ファルボ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター

スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、
      マンドロンチェロ、ベース

解説 「抒情的間奏曲」は、1924年イル・プレットロ誌主催の作曲コンクールで銀牌を授けされたもので、同年4月に同誌から出版された。マンドラテノールに相当の技巧を要求しているために上演の機会に恵まれないが、手法・構想ともに非常に内容の充実した作品である。
 スコアはイルプレットロ誌1924年版を用い、パート譜はスコアをもとにオザキ譜庫管理委員会が作成した。マンドロンチェロとベースのパート譜は、故松本譲氏が編集出版された『Salvatore Falbo』(オザキ企画刊)に所収された同氏作成スコアから写譜した。

122.「モスコーの真昼」 ロシア風舞曲 D.ベッルーティ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース打楽器(鐘、トライアングル、タンバリン))

スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ

解説 1893年8月31日にル(Lu)・モンフェッラート(Monferrato)に生まれ、1947年8月22日カザーレ(Casale)・モンフェッラートに死去したイタリアの作曲家でギタリスト。岡村光玉氏によるDino Berrutiの甥であるGianni Berruti氏からの聞き取り調査によると、Dino は独学で音楽学校にも行っていない。第一次欧州大戦前は電信員、戦後はCasaleの郵便職員を務めていた。Berben社発行の『イタリアギタリスト辞典』には、1961年に自殺したと書かれているが、1947年8月22日にCasaleの“Santo Spirito”病院で死去した。彼は常に神経質な人で、二三年おきに発作のようなものがおきて苦しんでいた。第二次世界大戦後、その発作の治療のため簡単な手術を受けることになっていたが、彼はこの手術に極度の絶望感を覚え自ら生命を絶ったという。
 1930年5月、ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに彼の「モスコー真昼」「黄昏語る時」の2曲が入選。当時沈滞下降をたどっていたマンドリン界は、ベッルーティの出現により、一時清新の風をあたえられた。憂いと郷愁に満ちたセンチメンタルなメロディーやリズムは、通俗的との謗りはあるが、イタリアマンドリンの美しさに回帰し、マンドリン音楽に精彩を加え、新しい境地を求めている。
 「モスコーの真昼」は定期刊行のイル・プレットロ誌には掲載されず、別出版のかたちでVizzari社から同年に出版された。同社からは、打楽器の手書きパート譜が頒布されていた。

124.「マドリガーレ」    E.ジュディチ作曲 

原編成 独奏マンドロンチェロ、第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、マンドローネ(ベース)

スコア 原編成と同じ
パート譜 独奏マンドロンチェロ、第1・第2マンドリン、
 マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
、マンドローネ(ベース)

解説 作者は1874年ベルガモで生れた作曲家で指揮者。生地のドニゼッティ音楽院でCagnoni(カニョーニ)Pizzi(ピッッィ)Marinelli(マリネルリ)の各教授より和声、フルート、作曲を学び、さらにボローニャの音楽院で作曲、吹奏楽法を修め優等で卒業した。その後、コンテストでバデイア・ポレジネ市吹奏楽団の指揮者の地位を得、そこで7年間活動した。1909年には故郷ベルガモに帰り指揮者、作曲家として活躍した。イタリアでも著名なマンドリンオーケストラであった「エストゥディアンティナ・ベルガマスカ」の指揮者としても活躍、イタリア各地の演奏コンクールに出場し度々上位入賞を果たした。また長年にわたり、マンドリン界の指導者としてベルガモはじめ各地の音楽出版誌に協力してコンクールの審査員や論説をおこない斯楽を大いに啓蒙した。最期まで「エストゥディアンティナ・ベルガマスカ」の指揮者をつとめ、1949年同地で逝った。
「マドリガーレ」は1923年に、ミラノのモンティーノ社が定期刊行していたMandolinista Italiano誌からスコアが出版された。歌曲形式の「マドリガーレ」というよりは、牧歌的な抒情詩「マドリガーレ」というべきだろう。曲中“Col ditto”は指(爪ではない)で弾くという意味。

123.「古譚」        E.ジュディチ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、
 ギター
、マンドローネ(ベース)

スコア 原編成と同じ
パート譜
原編成と同じ

解説 マンドリン曲では、マンドロンチェロを大胆に使った「マドリガーレ」「古譚」、「チェスの試合」などが我が国で知られていたが、岡村光玉氏、石村隆行氏がそれぞれイタリア留学中、「エストゥディアンティナ・ベルガマスカ」のギター首席奏者であったアンジェロ・マッツオーラ氏の遺族から「挽歌」「交響的行進曲」「交響的印象」「交響的円舞曲」「ヴェネチア風セレナータ」「ヴェネチア風小詩」「小交響詩」「薔薇の祭典序曲」などの自作曲や編曲作品のジュディチ自筆譜を譲り受け、日本のマンドリン界にもたらしている。
 「古譚」は1926年に、ミラノのモンティーノ社から定期刊行されていたMandolinista Italiano誌からスコアが出版された。中野二郎氏は「古譚」について「マンドロンチェロ特有の性格をを発揮させることにより起こる他のパートとの不自然さは、作者の綿密な作曲技法によって征服されている。しかもオーケストラは単なる伴奏の域を脱しつつ各独立したインストルメンテーションを持っている。大胆なポリフォニックな手法は南欧人たる彼独特の官能的な旋律をもって独自の境地を開くことが出来た。」と述べている

125.「即興詩」     P.シルヴェストリ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、 ギター

スコア 原編成と同じ
パート譜
第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース

解説 作者はイタリアの作曲家。1871年モデナに生まれ、1960年に没した。14才から音楽を学び始め、ギター・マンドリンに関心を持つ。ペサロの音楽院でピアノと和声、対位法を学ぎ、卒業後はモデナのウンベルト一世吹奏楽団の指揮者に任命されるが、後にモデナ・マンドリン合奏団を創立する。1901年、ロディにおける国際マンドリン独奏コンクールの会長に推される。ボローニャのアルドラバンディの後を受けて「イル・コンチェルト」誌の主幹となり、イタリア・マンドリン界を啓蒙すると共に数多くのマンドリン曲を作曲した。和声に優れた作品が多く、1941年の作曲コンクールで受賞した「夏の庭」や「ノスタルジー」「静けき夜」などが知られる。

岡村光玉氏はイタリア留学中、マンドリン出版社やマンドリン作家の足跡を訪ね、多くのマンドリン曲を発掘、それらを我が国にもたらした。「即興詩」は、岡村氏がシルヴェストリの遺族を訪問し、遺族から贈られたシルヴェストリの未出版自筆譜の一つである。