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オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
265.「情熱と喜び」ワルツ  G.サルトーリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ・マンドロンチェロ、ギター(ベース)
スコア 原編成と同じ
パート譜 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース

解 説 ジャコーモ・サルトーリは1860年3月8日トレントとヴェローナの中間にあるアラで生まれ、1946年3月25日トレントに逝いた作曲者、オルガニスト、吹奏楽隊長、指揮者。
 理髪師であった父の後を継ぐはずだったが、マンドリンを独習。18歳で最初の作品を書き、1881年3月にはアラの音楽協会に「バイオリン練習生」として登録された。アラから北へトレントとの中間にあるロヴェレートでBrogialdiの下でバイオリンをGiovanni Tossに作曲を学び音楽に没頭した。アラに住み続け、地元バンドの代理指揮者、教会のオルガニストとなり、この町の音楽家となった。1889年にエルビラと結婚し4人の息子をもうけた。第一次世界大戦の間、彼は南のヴェローナに疎開し、しばしばシンフォニーコンサートの第一バイオリン担当した。戦後、彼はアラには戻らず、トレントに移り、そこで音楽に身を捧げるようになった。トレントでは、1938年まで、ビジル・キルヒナーの代わりにマンドリンオーケストラ「クラブ・アルモニア」を指揮し、トレンティーノ・アルト・アディジェ州の町々や、イタリアの様々な都市で演奏した。彼はプレクトラム音楽の専門家となりマンドリンとギターのためにだけ作曲するようになった。
 1894-1939にかけてトリノのイルマンドリーノ誌やミラノのマンドリニスタ・イタリアーノ誌、スイスのマンドリニズモ誌などから彼の作品が発表された。彼の作品のうち約7曲が作曲コンクールに入賞し、世界にその名を知られるようになった。いくつかの外国のマンドリンアンサンブルが彼の名を冠し、彼を「マンドリンのレハール」と称えた。

第二次世界大戦までに、彼の音楽は広くヨーロッパ全体に普及し、イタリアの伝統的なメロディ、エレジーやセレナータのメランコリーな詩情、そして陽気で活気のある舞曲は、「サルトーリ調」とも言うべきもので、今も愛奏されている。現在アラで開催されているマンドリンコンクールには、「マンドリン楽器によるジャコモ・サルトーリ国際コンクール」と彼の名前を冠している。アラ市は、市の劇場を「ジャコモ・サルトーリ劇場」を命名することによって、彼の功績を称えた。1990年、彼の作品はアラ市の市立図書館に寄贈された。

彼の作品は、約150曲残されているが、その大半はイル・マンドリーノ誌から出版されており、中でも「フローラ」「聖ルチオの鐘」「糸杉の林にて」等がよく知られている。彼の作品で注目すべきはワルツが41曲あり、「マンドリンのレハール」といわれる所以であろうか。

“Passione e gioia,valzer lento”は、1936年、イル・マンドリーノ誌から出版された作品で、彼の数多くのワルツの一つである。

266.「平穏」夜曲   A.サボイア作曲

原編成  第一・第二マンドリン、マンドラ・リュート、ギターベース
スコア
第一・第二マンドリン、マンドラ・リュート、ギターベース
パート譜
第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
解 説
 1855年8月13日ヴィッランテーリオ(Villanterio-Paviaの東約15㎞)に生まれ、1936年1月8日古都パヴィア(Pavia-ミラノの南約30㎞)に逝いた音楽家。

 1906年、マンドリン合奏団Estudiantina “In Arte Charitas” di Paviaを設立指揮し、Como市で行われたコンクール入賞するなど活躍した。

1908年のイル・プレットロ誌第2回作曲コンクールでは審査員を務め、1909年にパヴィアで開催されたコンクールには、彼の作品“Calma”“Ansie,”が課題曲となりVizzari社から出版されている。イル・プレットロ誌からは”Una Marci Muliebre”(同誌1907年)を出版。その他、”Pensiero Funebre”、 “Memorie d’Infanzia(gavotte)”などをミラノのAlessandro Pigna社から出版している。

  本曲は彼が指揮する合奏団“In Arte Charitas”の代表であるAdriano Valenti博士に献呈されている。1909年のコンクール課題曲であるから、おそらくその前年に出版されたものであろう。

267.「夕べに」 間奏曲 A.カタラーニ作曲 A.ボッチ編曲
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ(A/B)、マンドロンチェロ、ギター、ベース
スコア 原編成と同じ
パート譜
原編成と同じ
解 説 カタラーニは1854年6月19日イタリア ルッカの名門音楽家の家系に生まれ、1893年に旅先で若くして急死し、ミラノに埋葬されたオペラ作曲家。

教会のオルガニストであった父から音楽の手ほどきを受けた後、1871年にバーリ音楽院に入学し、バザンに学んだ。その後ミラノ音楽院に学び、バッツーイとフォルトゥナート・マジに師事。卒業後、ポンキエッリの後任として同学院の作曲科教授を務めた。彼は当時の通俗的なオペラの氾濫するイタリア音楽界に満足できず、音楽だけでなく台本にも厳しい目を向け、ワーグナーの芸術に対する真摯な精神を自己の作品の中に実現しようと試みた。ワーグナーに傾倒した最初のイタリア人オペラ作曲家とされる。今ではヴェルディとプッチーニの名声の陰に隠れてしまったが、『ラ・ワリー』と『ローレライ』の2つの名作オペラを遺している。38歳の時ミラノ・スカラ座でし『ワリー』が大成功を収めると、すぐにこの歌劇を故郷のルッカで上演し、人々に温かく祝福された。しかし、 『ワリー』上演の翌年、1893年に旅先で若くして急死し、ミラノに埋葬された。 オペラとして今日ではほとんど上演機会がないが、第1幕で、愛する人と一緒になるために家を出る決意をしたワリーが歌うアリア『さようなら、ふるさとの家よ』はオペラとは独立して取り上げられることが多く、マリア・カラスなど多くのソプラノ歌手のレパートリーとして人気がある。

 本曲、「夕べに(A sera)」は、歌劇「ラ・ワリー」の第三幕冒頭に演奏される間奏曲。シエナのアルベルト・ボッチがマンドリン合奏に編曲したものである。

 編曲者アルベルト・ボッチは1903年1月13日シエナに生まれ、1996年10月1日に逝去した。友人のギタリスト、ジョバンニ・ムルトゥラ(Giovanni Murtula)の助けを借り、独学でギターを学び、後にムルトゥラ等とCircolo Mandolinistico Senese(シエナマンドリン合奏団)を結成、シエナの図書館に勤めながら終生合奏団に情熱を注いだ。岡村光玉氏がイタリア留学の際、ボッチ氏に大変世話になり、ボッチ氏の譜庫を自由に閲覧することを許された。その中から「英雄葬送曲」「夏の庭」など1940・1941年にシエナで開催された作曲コンクール入賞曲はじめ多くのマンドリン音楽資料を恩師の中野二郎氏を通じて我が国にもたらした。また、全日本高等学校マンドリン音楽振興会の会長であった宮崎輝世氏との交流により、たくさんのマンドリン曲はじめ、ボッチ氏自身の編曲作品が我が国マンドリン界にもたらされた。ボッチ氏の死後、シエナマンドリン合奏団は、彼の功績を称え、合奏団の名称に彼の名前を冠し”Alberto Bocci” Circolo Mandolinistico Seneseと改称した。
 編曲者アルベルト・ボッチは1903年1月13日シエナに生まれ、1996年10月1日に逝去した。友人のギタリスト、ジョバンニ・ムルトゥラ(Giovanni Murtula)の助けを借り、独学でギターを学び、後にムルトゥラ等とCircolo Mandolinistico Senese(シエナマンドリン合奏団)を結成、シエナの図書館に勤めながら終生合奏団に情熱を注いだ。岡村光玉氏がイタリア留学の際、ボッチ氏に大変世話になり、ボッチ氏の譜庫を自由に閲覧することを許された。その中から「英雄葬送曲」「夏の庭」など1940・1941年にシエナで開催された作曲コンクール入賞曲はじめ多くのマンドリン音楽資料を恩師の中野二郎氏を通じて我が国にもたらした。また、全日本高等学校マンドリン音楽振興会の会長であった宮崎輝世氏との交流により、たくさんのマンドリン曲はじめ、ボッチ氏自身の編曲作品が我が国マンドリン界にもたらされた。ボッチ氏の死後、シエナマンドリン合奏団は、彼の功績を称え、合奏団の名称に彼の名前を冠し”Alberto Bocci” Circolo Mandolinistico Seneseと改称した。
練習・演奏に際しては、本曲の原曲『ラ・ワリー』のボーカル・スコアから第三幕の間奏曲譜も参考にされたい。

268.「月の光」 幻想曲  D.ヴァスターノ作曲

原編成  第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア  原編成と同じ
パート譜 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
解 説 
作者について、経歴など全く不明である。作品も「月の光、幻想曲」だけが知られているのみである。この曲は1905年9月15日、発行のヴィタ・マンドリニスティカ誌に掲載されたが、その表紙に、この曲を掲載する経過を掲載している。
1. 作者はニューヨークに住んでいる。
2.1904年2月から1905年9月、日本とロシアの戦争終結と講和に尽力したセオドア・ルーズベルトの娘であるアリス・ルーズベルトに献呈されている。
3.  この曲は、ヴィタ・マンドリニスティカ誌が募集した作曲コンクールに応募されたものだが、締め切りに遅れたため、規定により審査できなかった。
4. しかし、ローディで行われた大衆選考会で、この曲が多く聴衆から積極的な支持を得た。
5.簡潔で特徴的な技量と素晴らしいインスピレーションを賞賛し、ヴィタ・マンドリニスティカ誌の読者、特にマンドリン合奏団に推薦する。

 おそらく、当時たくさんの人々が移民としてイタリアからアメリカに渡ってきたが、作者もその一人であったのだろう。マンドリン界では他に、R.カラーチェ、S.カンブリア、G.ペティーネ等が活躍の場を求めて渡米している。

 東洋の一小国が無謀にもロシア帝国と戦ったことは世界の耳目を集め、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋により、1905年9月5日、ポーツマスで講和条約が結ばれたのである。戦争が終わり、暗雲が去り「月の光」が射しこんできたことを喜んで作曲されたものであろうか。

 当時はマンドリンの勃興期で、この戦争で一躍脚光を浴びた日本を題材とした「日本風行進曲」、「東京」、「大阪」など、日本風とは似ても似つかない、作品としては如何かと思われる曲がイタリアやフランスで多く出版された。

 ただし、この「月の光」は純粋に平和の訪れをうたう動機から作曲されたものであり、当時の風潮による日本描写ではない。

269.「セレナード」    C.アンカラーニ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
パート譜 原編成と同じ
スコア 
第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
解 説 
作者はイタリアのギタリストで通俗作曲家。Forlivesi(フォルリヴェジ)社(フィレンツェ)よりマンドリン曲、ギター曲を出版しているが、経歴の詳細は不明である(『Dizionario dei chitarristi e liutai italiani』La Chitarra社(Bologna)1937刊。
 「セレナード」は、マンドロンチェロを含む五部編成のパート譜が1902年にフォルリヴェジ社から出版され、1932年四部編成のスコアがパリのL'Estudiantina(エスチュディアンティナ誌)から出版された。イタリアの星夜を思わせるセレナードである。
  判明している作品は、次のとおりである。
Canto di Sera,berceuse        A.Forlivesi
Da lontano,melodia(ピアノ曲)  A.Forlivesi
For Ever,valzer           A.Forlivesi
Je Pense a toi,Valzer      A.Forlivesi
Mariannina, mazurka (ギター曲)G.Ricordi
Sempre cosi,melodia(歌とピアノ) A.Forlivesi   
Sere d'Agosto,valzer      A.Forlivesi
Sera d'Autunno,mazurka       A.Forlivesi(1900)
Serenade             A.Forlivesi, L'Estudiantina

 フォルリヴェジ版は入手できないので、1932年5月15日のエスチュディアンティナ誌(フランス・パリ)に掲載されたスコアをもとにパート譜を作成した。

270.「ナルキッソス」  E.ネヴィン作曲  W.ウォルベルシン編曲

原編成  第一・第二マンドリン、マンドラ、ギターロ
スコア   第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
パート譜 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース

解 説 作者は1862年、ピッツバーグ新聞のオーナーで編集者でもある父と、ピアニストの母との間に生まれ、1901年38歳で逝いた著名な作曲家。1878年、現在ピッツバーグ大学として知られているウェスタン大学に入学したが、1年で退学。その後​​ボストンで、ベンジャミン・ジョンソン・ラングの下で​​ピアノを、スティーブン・エメリーの下で作曲を学んだ。ボストンでの2年間の勉強の後、1882年にネヴィンはピッツバーグに戻り、レッスンを行いながらベルリンでの音楽修業資金を貯めた。そしてベルリンに渡り、カール・クリントヴォルトのもとでピアノはもちろんすべての芸術と人生のすべてを師から学んだ。1885年、クリントヴォルトの推薦で、ネヴィンはじめ彼の優れた4人の生徒はハンス・フォン・ビューローのクラスに入りさらに研鑚を積んだ。

1887年、ネヴィンはアメリカに戻りボストンに住み、ピアノを教え、時折コンサートで演奏したりしていたが、1892年に彼はパリに行き、そこで歌とピアノを教え、オペラの舞台で多くのアメリカ人とフランス人の芸術家を指導した。1893年、彼はベルリンに移り、そこで彼は彼の健康を蝕むほど作曲に打ち込み、さらにはアルジェで1年間過ごした。1895年のはじめ、彼はこの国のコンサートツアーに参加した。

かつての師クリントヴォルトはネヴィンについて「彼は涙をもたらすタッチを持っている、そして彼が優れているのは華美ではなく深い解釈である。」と語っている。孤独と作曲のためのより良い環境を求めて、彼はフィレンツェに住み、トスカーナやベニスで1年過ごした後、パリでも1年間暮らし、その後アメリカに戻り、死ぬまでそこに留まった。

ネヴィンの”Narcissus” は水の情景を歌ったピアノ曲”Water Scenes(水の情景)(作品番号13)”第4番のピアノ曲。水に映った自分の姿に恋して、水仙の花に化した美青年ナルキッソスのことか。

1.Dragon Fly  2. Ophelia  3.Water Nymph  4.Narcissus  5.Barcarolle

編曲者ウィルヘルム・ウォルベルシンは1868年生まれのギタリスト。マンドリン楽譜出版社であるライプチッヒのDie Mandolinen-KapelleやZimmermann社の編集をつとめていた。両社から、彼の編んだ曲集や編曲作品が出版されている。ウォルベルシンはバス・ギターの教則本も書いている。

なお本曲は、ドイツ・マインツのShott’s Sohne社から出版された。

271.「山々の調和」  G.サルトーリ作曲  

原編成  第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
スコア   第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター(ベース)
パート譜 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
解説 ジャコーモ・サルトーリは186038日トレントとヴェローナの中間にあるアラで生まれ、1946325日トレントに逝いた作曲者、オルガニスト、吹奏楽隊長、指揮者。

理髪師であった父の後を継ぐはずだったが、マンドリンを独習。18歳で最初の作品を書き、18813月にはアラの音楽協会に「
バイオリン練習生として登録された。アラから北へトレントとの中間にあるロヴェレートでBrogialdiの下でバイオリンをGiovanni Tossに作曲を学び音楽に没頭した。アラに住み続け、地元バンドの代理指揮者、教会のオルガニストとなり、この町の音楽家となった。

 1889年にエルビラと結婚し4人の息子をもうけた。第一次世界大戦の間、彼は南のヴェローナに疎開し、しばしばシンフォニーコンサートの第一バイオリン担当した。戦後、彼はアラには戻らず、トレントに移り、そこで音楽に身を捧げるようになった。トレントでは、1938年まで、ビジル・キルヒナーの代わりにマンドリンオーケストラ「クラブ・アルモニア」を指揮し、トレンティーノ・アルト・アディジェ州の町々や、イタリアの様々な都市で演奏した。彼はプレクトラム音楽の専門家となりマンドリンとギターのためにだけ作曲するようになった。
 1894-1939にかけてトリノのイルマンドリーノ誌やミラノのマンドリニスタ・イタリアーノ誌から彼の作品が度々発表された。彼の作品のうち約7曲が作曲コンクールに入賞し、世界にその名を知られるようになり、いくつかの外国のマンドリンアンサンブルが彼の名を冠し、彼を「マンドリンのレハール」と称えた。

第二次世界大戦までに、彼の音楽は広くヨーロッパ全体に普及し、イタリアの伝統的なメロディ、エレジーやセレナータのメランコリーな詩情、そして陽気で活気のある舞曲は、「サルトーリ調」とも言うべきもので、今も愛奏されている。

現在アラで開催されているマンドリンコンクールには、「マンドリン楽器によるジャコモ・サルトーリ国際コンクール」と彼の名前を冠している。アラ市は、市の劇場を「ジャコモ・サルトーリ劇場」を命名することによって彼の功績を称えた。1990年、彼の作品はアラ市の市立図書館に寄贈された。

彼の作品は、約150曲残されているがその大半はトリノのイル・マンドリーノ誌から出版されており、中でも「フローラ」「聖ルチオの鐘」「糸杉の林にて」等がよく知られている。彼の作品で注目すべきはワルツが41曲あり、「マンドリンのレハール」といわれる所以であろうか。

Armonie alpine(山々の調和)は、1926年、イル・マンドリーノ誌から出版された。いかにも「サルトーリ調」の幻想曲である。初期の合奏団にとっては、こうした明快簡明・技術容易で面白い作品を充分に引きこなせた上で、徐々に力をつけていっていただきたい。無理な選曲を押しとおした演奏はいただけない。