オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
126.「田園組曲」(田園写景)   S.ファルボ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラテノール、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ

スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ

解説 1872年5月28日シチリア島シラクーサのアヴォラに生まれ、192748日同地に逝去したイタリアの作曲家。パレルモのコンセルヴァトーリオで、CasiStronconeにピアノを、Favaraに対位法とフーガを、Zuelliに作曲法を学んだ。1896年、大管弦楽のための“Scena Lirica”と5声のための“Fuga”を卒業作品として提出し、ピアノと作曲法にディプロマを得た。5ヶ月後、ニコーズィアにおける吹奏楽団の指揮者のためのコンクールに勝利を得、指揮者として3年間同地に滞在し、その後故郷アヴォラの吹奏楽団指揮者に迎えられた。

 作品にはオルガンを伴う五声の“Kyrie Eleison”、室内楽のための“Lirica”、ヴァイオリンとピアノの“Serenata”、F.Amatoの台本によるオペラ、オペレッタ“La Favola della Principessa(王女の物語)”、フィラルモニカ・パイジエロにより上演された“三楽章の組曲”などがある。

 マンドリンではミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに度々入賞、斯界に新風を吹き込み、今日に至っても至宝の作品となっている。

 「田園組曲」は、1910年におこなわれたイル・プレットロ主催の作曲コンクールで、メラーナ・フォクトの「製作と芸術」(出版にあたって「過去への尊敬」と改題)、ボッタッキアリの「誓い」とともに第1位に同位入賞した。

 コンクールには「潔き誓い」というモットー(作曲の趣旨)で応募されたが“Scene Campestre”(「田園写景」)と題して手写譜版でスコアが出版された。「田園組曲」となっている手写譜版もあるが、1923年に「田園組曲」として印刷譜が出版された

117.「化粧をするご婦人」ガボット-間奏曲 C.コレッタ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、
     マンドロンチェロ、ギター、ベース

スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、
      マンドロンチェロ・ベース

解説 作者はナポリの音楽院を卒業し、数多くの音楽コンクールにも入選した著名なギタリストで画家。イタリア本土を望むシチリア島のメッシナに住んでいた。1921年よりスイスの斯楽誌マンドリニズモの編集責任者になっている。特にギターとマンドリンのため作品を数多く作曲した。簡明で洗練された和音とメロディによる舞曲、セレナータ、スケルツォ、マーチ等の小品が多い。作品はミラノのイル・プレットロ誌やマンドリニズモ誌等から出版されている。

マンドリン曲には、1920年のイル・プレットロ誌主催の作曲コンクール行進曲・舞曲の部で一位となった「マリニータ」をはじめ、「優雅な仮面」「三人姉妹の美の女神」「麗しのギター」等がある。 

「化粧をするご婦人」は1935年にイル・プレットロ誌で発表されたものである。1937年、Vizzari社から出版された“Prima Raccolta di pezzi favoriti per Chitarra”(ギター愛奏曲集−1)にギター独奏曲として収録されている。おそらく、Vizzari社から“Biblioteca del Chitarrista”12集のアルバムとして出版されたものから、この「化粧をするご婦人」のギター独奏曲が選ばれたのであろう。画家の彼らしい着眼と題材による好個の小品である。

118. 「魔法の洞窟」        A.ボッシ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、
     マンドロンチェロ、ギター、ベース
打楽器

スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、
      マンドロンチェロ、ベース
打楽器

解説 18761225日、モルベーニョで、オルガン奏者の家系に生まれ、195314日にミラノで没した作曲家でオルガニスト。はじめ、父ピエトロに学び、次にローマの聖チェチリア音楽院で指揮者をしていた兄エンリコ・マルコに教えを受け、その後、レッジオ・エミーリアでグリエルモ・マッティオーリに、ミラノの王立音楽院でオルガンと作曲をグァルニエリ、マッペリ、フェッローニ等に師事した。1895年、ミラノで行なわれた宗教的祭典での吹奏楽コンクールに『信仰』が第一位を受賞し、リコルディ社から出版された。その後、オルガン曲、ピアノ曲、歌曲、吹奏楽曲、室内楽曲、オーケストラ曲等を作曲し、リコルディ社、カリッシュ社、ファンツッティ社(以上ミラノ)とトリノのカプラ社から出版された。

 マンドリン合奏曲には、「魔法の洞窟にて」、「牧人の哀歌」等がミラノのイル・プレットロ誌から出版されている。「魔法の洞窟にて」(Nella grotta incntata)はイル・プレットロ誌上に掲載されず、当時としては珍しい手書き譜を青写真により印刷し、1937年にスコア・パート譜とも別出版の形で発行された。

 曲は、作者の記す次の情景にしたがって展開していく。
@魔法使いの霊魂への祈り
A魔法使いの周りで踊る妖精たち
B妖精たちのフーガ
C魔法使いの孤独と瞑想 

120. 「黄昏」前奏曲     D.ベッルーティ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、
     マンドロンチェロ、ギター、ベース

スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、
      マンドロンチェロ、ベース

解説 1893年8月31日にル(Lu)・モンフェッラート(Monferrato)に生まれ、1947年8月22日カザーレ(Casale)・モンフェッラートに死去したイタリアの作曲家でギタリスト。岡村光玉氏によるDino Berrutiの甥であるGianni Berruti氏からの聞き取り調査によると、Dino は独学で音楽学校にも行っていない。彼の父(Dinoの弟)も素人ながらDinoの影響を受け、ピアノ、ヴァイオリン、ギター、フルートをよくしたという。第一次欧州大戦前は電信員、戦後はCasaleの郵便職員を務めていた。Berben社発行の『イタリアギタリスト辞典』には、1961年に自殺したと書かれているが、1947822日にCasaleの“Santo Spirito”病院で死去した。彼は常に神経質な人で、二三年おきに発作のようなものがおきて苦しんでいた。第二次世界大戦後、その発作の治療のため簡単な手術を受けることになっていたが、彼はこの手術に極度の絶望感を覚え自ら生命を絶ったという。
1930年5月、ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに彼の「モスコー真昼」「黄昏語る時」の2曲が入選。当時沈滞下降をたどっていたマンドリン界は、ベッルーティの出現により、一時清新の風をあたえられた。彼の作風はアマデイやマネンテ、ファルボ、ミラネージの独創的な技巧には及ばないが、憂いと郷愁に満ちたセンチメンタルなメロディーやリズムは、通俗的との謗りはあるが、イタリアマンドリンの美しさに回帰し、マンドリン音楽に精彩を加え、新しい境地を求めている。

119.「間奏曲」        S.ファルボ作曲 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター

スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、
      マンドロンチェロ、ベース

解説

 1872年5月28日シチリア島シラクーサのアヴォラに生まれ、192748日同地に逝去したイタリアの作曲家。パレルモのコンセルヴァトーリオで、CasiStronconeにピアノを、Favaraに対位法とフーガを、Zuelliに作曲法を学んだ。1896年、大管弦楽のための“Scena Lirica”と5声のための“Fuga”を卒業作品として提出し、ピアノと作曲法にディプロマを得た。5ヶ月後、ニコーズィアにおける吹奏楽団の指揮者のためのコンクールに勝利を得、指揮者として3年間同地に滞在し、その後故郷アヴォラの吹奏楽団指揮者に迎えられた。

 作品にはオルガンを伴う五声の“Kyrie Eleison”、室内楽のための“Lirica”、ヴァイオリンとピアノの“Serenata”、F.Amatoの台本によるオペラ、オペレッタ“La Favola della Principessa(王女の物語)”、フィラルモニカ・パイジエロにより上演された“三楽章の組曲”などがある。

 マンドリンではミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに度々入賞、斯界に新風を吹き込み、今日に至っても至宝の作品となっている。
「間奏曲」は、1916年3月にミラノのイル・プレットロ誌から出版され、1927年10月に同誌から再販された。
両者とも スコアのみで、編成、内容は全く同じで、パート譜は出版されていない。