原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、リュート(マンドロンチェロ)
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説 1861年にナポリで生まれ、1924年ニューヨークで逝去した。ナポリ音楽院で音楽教育を終え、カラーチェ家2代目アントニオの下で楽器製作を学び、弟ラファエルと協力し、楽器製作のカラーチェ社発展のために多くの業績を残した。同時に彼は作曲者、演奏者、歌手としても著名であった。
父が亡くなったころ"Fratelli Nicola e Raffaele Calace"社と社名を変更、MANDOLIRAという特殊なマンドリンを作成し特許も取った。のちに、ニコラはアメリカに移住するが、その原因や時期について弟ラッファエロとの不仲説など不明のまま今日に至ったが、彼のアメリカ入国ビザが最近になって発見され、1905年12月31日イタリアを出国、1906年1月14日に米国に入国したことが判明した。
彼の作品はナポリのR. Izzo社などから100曲余出版されていたことが判明していたが、近年イタリアで作品の多くが発見され、我が国にも紹介されている。我が国では今まで、『マンドリンギター研究』昭和4年4月、5月、6月号添付された「四重奏曲」だけが知られ、彼の代表作品として演奏されてきた。
本曲については『マンドリンギター研究』に掲載された武井守成氏の「四部合奏曲小解」を紹介する。
「ラッファエ-レ・カラーチェの兄で。弟よりも芸術的素質に恵まれて居たと云われた彼れニコラ・マリア・カラーチェは、如何なる理由によるか早く故国を離れ米国に隠遁しそして其処で黄泉の客となってしまった。数多くの作品を残したが、それはどれもマンドリン音楽の揺籃期に於ける小品として認められるに過ぎない。弟ラッファエーレが今日の盛名をなしたにつけても思い起こさるるものは兄ニコラである。
此曲は彼の残した唯一の純プレクトラム四部合奏曲で、ナポリのイッツォから出版されたもの。昨年私達の第二十四回演奏会に初めて上演された、三楽章のきわめて簡単な小品である。然しながら今月添付の第一楽章は演奏技巧は単純であるが、効果を興へる事の極めて面倒なものである。簡単な技巧をしか要求する事なしに此位生かせ憎いものは、先ず珍しい方である。従って奏者は十分に此曲を玩味しなければならない。私は特に何等の指示をも之に興へやうとは思わない。それは演奏される方それぞれのオリジナリティーを発揮して戴き度いからである。
(一言御断りして置くが本楽章の第四十一小節に附せられたポーズは本楽章中最難解なものである。特に演奏される方の注意をうながして置く。)
(第二楽章)此のカンツォネッタは演奏技巧の上からも表現の上からも第一楽章よりは遥かに簡単であると云える。唯中間緩徐なテンポの部分への移り方、及びプリーモテンポへの復帰には相当の注意を必要とする。スタッカートを主体として居る為に、若し之が不注意に演奏されたならば殆ど聞くに堪えないものとなり終わるであろう。中間部ラルゴに於けるリュートパートの高音部記号で記された部分は実際にはオクターブ低く奏される事は申す迄もない。
(第三楽章)スケルツォ・フィナーレ。之については特に申し述べる必要はない。寧ろ奏者自身の表現を尊重することとしたい。」
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