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オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
263.「黄金の雨」ワルツ  G.サルトーリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成;と同じ

解説 ジャコーモ・サルトーリは1860年3月8日トレントとヴェローナの中間にあるアラで生まれ、1946年3月25日トレントに逝いた作曲者、オルガニスト、吹奏楽隊長、指揮者。
 理髪師であった父の後を継ぐはずだったが、マンドリンを独習。18歳で最初の作品を書き、1881年3月にはアラの音楽協会に「バイオリン練習生」として登録された。アラから北へトレントとの中間にあるロヴェレートでBrogialdiの下でバイオリンをGiovanni Tossに作曲を学び音楽に没頭した。アラに住み続け、地元バンドの代理指揮者、教会のオルガニストとなり、この町の音楽家となった。1889年にエルビラと結婚し4人の息子をもうけた。第一次世界大戦の間、彼は南のヴェローナに疎開し、しばしばシンフォニーコンサートの第一バイオリン担当した。戦後、彼はアラには戻らず、トレントに移り、そこで音楽に身を捧げるようになった。トレントでは、1938年まで、ビジル・キルヒナーの代わりにマンドリンオーケストラ「クラブ・アルモニア」を指揮し、トレンティーノ・アルト・アディジェ州の町々や、イタリアの様々な都市で演奏した。彼はプレクトラム音楽の専門家となりマンドリンとギターのためにだけ作曲するようになった
 1894-1939にかけてトリノのイルマンドリーノ誌やミラノのマンドリニスタ・イタリアーノ誌、スイスのマンドリニズモ誌などから彼の作品が発表された。彼の作品のうち約7曲が作曲コンクールに入賞し、世界にその名を知られるようになった。いくつかの外国のマンドリンアンサンブルが彼の名を冠し、彼を「マンドリンのレハール」と称えた。

第二次世界大戦までに、彼の音楽は広くヨーロッパ全体に普及し、イタリアの伝統的なメロディ、エレジーやセレナータのメランコリーな詩情、そして陽気で活気のある舞曲は、「サルトーリ調」とも言うべきもので、今も愛奏されている。現在アラで開催されているマンドリンコンクールには、「マンドリン楽器によるジャコモ・サルトーリ国際コンクール」と彼の名前を冠している。アラ市は、市の劇場を「ジャコモ・サルトーリ劇場」を命名することによって、彼の功績を称えた。1990年、彼の作品はアラ市の市立図書館に寄贈された。

彼の作品は、約150曲残されているが、その大半はイル・マンドリーノ誌から出版されており、中でも「フローラ」「聖ルチオの鐘」「糸杉の林にて」等がよく知られている。彼の作品で注目すべきはワルツが41曲あり、「マンドリンのレハール」といわれる所以であろうか。

 “Pioggia d’oro,valzer”は、スイスLuchsingenのC.Notari社から月二回刊行されていた月刊誌マンドリニズモ誌に1930年掲載された作品。同誌からは、サルトーリの作品13曲が出版されている。題名”Pioggia d’oro” は5月から6月に咲く花で、満開の頃にこの花に出会うと「黄金の雨」という名前にふさわしく、金色の藤棚のように遠目からでもかなりの存在感を醸し出すという。和名はキバナフジあるいはキングサリと呼ばれる。

264.「海のセレナータ」   G.マネンテ作

原編成  第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア
第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
パート譜
第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
解説
 「海のセレナータ」は作品番号435で、1937年2月イル・プレットロ誌からパート譜が出版された。

マネンテは多くのピアノ曲を作曲し出版されているが、そのなかには同じ曲名の、よく知られたマンドリン曲や吹奏楽曲がある。ピアノ譜が先か、バンド譜・マンドリン合奏曲が先かは定かではないが、おそらくピアノでスケッチした後、合奏曲にしたものが多いと考えられる。

ピアノ曲と同じ題名のマンドリン曲では「おやすみなさいミミ」「ミモザ」「アルバムの一葉」「カイロの思い出」などがあげられる。また、同一曲名ではないが、ピアノ曲と曲想を同じくする"Contemplazione"と"Sogno lontano"、"Serenata sul Mare"と"Pensando a Napoli"などの作品がある。

「海のセレナータ」と曲想を同じくするピアノ曲「Pensando a Napoli」はボローニアのC.Venturi社の出版するピアノ誌”Soirees Musicales” 1906年6月30日号で出版された。

ピアノ曲「Pensando a Napoli」を添付しているので参考にされたい。

514.「プレクトラム四重奏曲」  N.カラーチェ作曲
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、リュート(マンドロンチェロ)
スコア 原編成と同じ
パート譜
原編成と同じ
解説 1861年にナポリで生まれ、1924年ニューヨークで逝去した。ナポリ音楽院で音楽教育を終え、カラーチェ家2代目アントニオの下で楽器製作を学び、弟ラファエルと協力し、楽器製作のカラーチェ社発展のために多くの業績を残した。同時に彼は作曲者、演奏者、歌手としても著名であった。

 父が亡くなったころ"Fratelli Nicola e Raffaele Calace"社と社名を変更、MANDOLIRAという特殊なマンドリンを作成し特許も取った。のちに、ニコラはアメリカに移住するが、その原因や時期について弟ラッファエロとの不仲説など不明のまま今日に至ったが、彼のアメリカ入国ビザが最近になって発見され、1905年12月31日イタリアを出国、1906年1月14日に米国に入国したことが判明した。

 彼の作品はナポリのR. Izzo社などから100曲余出版されていたことが判明していたが、近年イタリアで作品の多くが発見され、我が国にも紹介されている。我が国では今まで、『マンドリンギター研究』昭和4年4月、5月、6月号添付された「四重奏曲」だけが知られ、彼の代表作品として演奏されてきた。

 本曲については『マンドリンギター研究』に掲載された武井守成氏の「四部合奏曲小解」を紹介する。

 「ラッファエ-レ・カラーチェの兄で。弟よりも芸術的素質に恵まれて居たと云われた彼れニコラ・マリア・カラーチェは、如何なる理由によるか早く故国を離れ米国に隠遁しそして其処で黄泉の客となってしまった。数多くの作品を残したが、それはどれもマンドリン音楽の揺籃期に於ける小品として認められるに過ぎない。弟ラッファエーレが今日の盛名をなしたにつけても思い起こさるるものは兄ニコラである。

 此曲は彼の残した唯一の純プレクトラム四部合奏曲で、ナポリのイッツォから出版されたもの。昨年私達の第二十四回演奏会に初めて上演された、三楽章のきわめて簡単な小品である。然しながら今月添付の第一楽章は演奏技巧は単純であるが、効果を興へる事の極めて面倒なものである。簡単な技巧をしか要求する事なしに此位生かせ憎いものは、先ず珍しい方である。従って奏者は十分に此曲を玩味しなければならない。私は特に何等の指示をも之に興へやうとは思わない。それは演奏される方それぞれのオリジナリティーを発揮して戴き度いからである。

(一言御断りして置くが本楽章の第四十一小節に附せられたポーズは本楽章中最難解なものである。特に演奏される方の注意をうながして置く。)

(第二楽章)此のカンツォネッタは演奏技巧の上からも表現の上からも第一楽章よりは遥かに簡単であると云える。唯中間緩徐なテンポの部分への移り方、及びプリーモテンポへの復帰には相当の注意を必要とする。スタッカートを主体として居る為に、若し之が不注意に演奏されたならば殆ど聞くに堪えないものとなり終わるであろう。中間部ラルゴに於けるリュートパートの高音部記号で記された部分は実際にはオクターブ低く奏される事は申す迄もない。

(第三楽章)スケルツォ・フィナーレ。之については特に申し述べる必要はない。寧ろ奏者自身の表現を尊重することとしたい。」

517.プレクトラム四重奏曲「春に寄す」  G.ミラネージ作曲

原編成  第一・第二マンドリン、マンドラ・コントラルト、マンドロンチェロ
スコア  原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ マンドラ・テノール譜を作成(コントラルトの代用として)。

解説 作者は1891年3月26日、パヴィア近郊のバッタローネに生れ、1950年12月4日にミラノで没した。Alessandro Savoiaに音楽教育を受けた後、ミラノのG.Verdi音楽院にすすみ、著名なIldebrando PizzettiとGiulio Basに師事している。作品には、管楽五重奏曲、オーケストラの為の三楽章シンフォニエッタ(Fa-Mi)、「組曲」、二声と弦楽及びオルガンの為のミサ曲、弦楽四重奏曲、ヴァイオリンとピアノの為の幾つかの「ソナタ」等がある。
 各種の作曲コンクールに入賞し音楽界で活躍をはじめていた1922年、イル・プレットロ誌のコンクールでマンドリンソロ曲「サラバンドとフーガ」が入賞した後、次々と同誌コンクールに入賞し、以後のイル・プレットロ誌主催の作曲及び演奏コンクールには度々審査委員として招かれ、その名はイタリアマンドリン界に広く知れわたり、次第に重きをなすようになった。請われて、『ギター及びプレットロ楽器の為の和声学概論』を執筆し、出版費用確保のための購読希望者募集には百数十冊の応募があったが、イタリアの敗戦と混乱等により出版はかなわなかったという。マンドリン曲では、彼の力作「主題と変奏」の他、小品ながらいずれも近代的な、独特の作風をもった作品をイル・プレットロ誌に次々と発表、とりわけそのマンドリンソロ曲においては、従来のソロ曲に全く見られなかったユニークな、そして大胆な手法のものが多く、ミラネージを語る上での最も大きな特徴となっている。さらに、斬新な作風の2つのプレクトラム四重奏曲(Quartetto a P1ettro)「Quartetto in sol」「Al1a Primavera」を発表したが、特別に注文があった場合にのみイル・プレットロ誌から写譜提供されたもので余り知られていない。
 マンドリン四重奏曲『春に寄す』は、1923年11月、イタリアマンドリン協会により、全イタリア・マンドリン四重奏演奏コンクールがミラノで開催されるにつき、その課題曲のための作曲コンクールをイル・プレットロ誌がおこない、そのクァルテット・クラシコ部門で一位入賞したものである。
  第一楽章:Calmo e Tranquillo           第二楽章:Scherzo
   第三楽章:Arietta con variazioni      第四楽章:Rondo

  なお、この曲の応募から初めて本名Giuseppe Sirlen Milanesiで応募している。ペンネームSilren de1la Lancaは彼の故郷に近いアッダ川自然公園の中にあるランカの森からとっていると思われる。

515.四重奏曲「アヴェ・マリア」    E.リッチ作曲
516.五重奏曲「慈愛」 E.リッチ作曲(ムニエル編)

原編成 「アヴェ・マリア」第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
    「慈愛」第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
パート譜 原編成と同じ
スコア  原編成と同じ
解説 作者は1854831日ラベンナで生まれ、19011010日ローマで没したホルン奏者、軍楽隊指揮者、および作曲家。歩兵第94連隊軍楽長を務め、王国の軍事音楽の最後の監察官も務めた。
 ミラノの音楽学校でアルベルト・マッツカートの下で作曲を学び1877年に卒業。いくつかの重要な劇場のオーケストラでホルン奏者となった。
彼はヴェネツィアのマルチェロ音楽院で教えていたため、レッチェとピサ地区の軍楽隊監察官を務めた。

作品はオペラ、吹奏楽などが多いが、ベルレンギが主宰するフィレンツェのフォルリヴェージ社から約20曲のマンドリン曲が出版されている。特にムニエルの編曲による8楽章の「愛の詩」が知られている。

  「アヴェ・マリア」はプレットロ・ロマンティコ(マンドリン2本、マンドラ、ギターによる四重奏)に書かれているが、第一マンドリンとギターの二重奏で演奏しても充分の効果を得ることができる。おそらくギター譜は他の作品同様ムニエルによって書かれたのではないかと考えられる。

「慈愛」は、ムニエルとベルレンギが作者に協力して第二マンドリン(ムニエル)、マンドラ(ムニエル)、マンドロンチェロ(ベルレンギ)、ギター(ムニエル)のパート譜を作成しているのは興味深い。 ロマンに満ちた初期のイタリアマンドリン音楽を玩味し、楽しんでいただきたい。

 

518.ト調のプレクトラム四重奏曲  G.ミラネージ作曲

原編成  第一・第二マンドリン、マンドラ・コントラルト、マンドロンチェロ
スコア  原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ マンドラ・テノール譜を作成(コントラルトの代用として)。

解説 作者は1891年3月26日、パヴィア近郊のバッタローネに生れ、1950年12月4日にミラノで没した。Alessandro Savoiaに音楽教育を受けた後、ミラノのG.Verdi音楽院にすすみ、著名なIldebrando PizzettiとGiulio Basに師事している。作品には、管楽五重奏曲、オーケストラの為の三楽章シンフォニエッタ(Fa-Mi)、「組曲」、二声と弦楽及びオルガンの為のミサ曲、弦楽四重奏曲、ヴァイオリンとピアノの為の幾つかの「ソナタ」等がある。
 各種の作曲コンクールに入賞し音楽界で活躍をはじめていた1922年、イル・プレットロ誌のコンクールでマンドリンソロ曲「サラバンドとフーガ」が入賞した後、次々と同誌コンクールに入賞し、以後のイル・プレットロ誌主催の作曲及び演奏コンクールには度々審査委員として招かれ、その名はイタリアマンドリン界に広く知れわたり、次第に重きをなすようになった。請われて、『ギター及びプレットロ楽器の為の和声学概論』を執筆し、出版費用確保のための購読希望者募集には百数十冊の応募があったが、イタリアの敗戦と混乱等により出版はかなわなかったという。マンドリン曲では、彼の力作「主題と変奏」の他、小品ながらいずれも近代的な、独特の作風をもった作品をイル・プレットロ誌に次々と発表、とりわけそのマンドリンソロ曲においては、従来のソロ曲に全く見られなかったユニークな、そして大胆な手法のものが多く、ミラネージを語る上での最も大きな特徴となっている。さらに、斬新な作風の2つのプレクトラム四重奏曲(Quartetto a P1ettro)「Quartetto in sol」「Al1a Primavera」を発表したが、特別に注文があった場合にのみイル・プレットロ誌から写譜提供されたもので余り知られていない。
 『ト調のプレクトラム四重奏曲』は、1921年3月、イル・プレットロ誌により公募された作曲コンクールに、ペンネームSilren de1la Lancaで応募し、クァルテット・クラシコ部門で、ファルボの「四重奏曲」に次いで第二位を獲得したものである。
    第一楽章:Allegro      第二楽章:Canzonetta

    第三楽章:Scherzo         第四楽章:Rondo

なお、「ト調のプレクトラム四重奏曲」は、作者自身により弦楽四重奏曲に書き直されたスコアがあり、これを参照して、イル・プレットロ誌から手写譜出版されたスコアの不備や間違を補った。

265-270.大栗 裕作品 (川口雅行監修)
265 シンフォニエッタ第二番「ロマンティック 
268 シンフォニエッタ第四番「ラビュリントス
266 シンフォニエッタ第七番「コントラスト」
267 ミュージカルファンタジー「オンディーナと魔法使い」

269 「火口原湖
270 「隅田川

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