オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
249.「ドディ」フォックス・トロット A.アマデイ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ+マンドロンチェロ、ベース
解説 
作者は1866年12月9日イタリア・ロレートに生まれ、1935年6月16日トリーノで逝去した作曲家で管弦楽指揮者。 マンドリン合奏曲の創作は既に1897年ごろから始めているが、1906年ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに「プレクトラム賛歌」が受賞。1908年同誌主催の第二回作曲コンクールに提出された「海の組曲」は一位に入賞(このとき、二位はなく、マネンテの「メリアの平原にて」が三位)、以来マンドリン音楽の至宝として親しまれている。マンドリン音楽への作曲、編曲だけでも九十曲以上があげられるのは、マンドリン音楽への愛着が並々でなかった証拠といえよう。彼の貢献はマンドリン音楽の独創性を把握して、マンドリン本来の表現能力に対して何等の特殊技巧を施すことなく自然な表現をおこない、イタリア人の明朗なロマンティシズムを味わい深い旋律に託し、各楽器結合の妙味、音色に対する優れた感覚、対比旋律の巧みな配置、これらが渾然と総合されてマンドリン音楽独自の世界を創造したことにある。アマデイには好個の小品が数多くあるが、その存在さえ忘れられている作品も多い。本曲は1926年3月のイル・プレットロ誌からスコアが出版され、1933年11月の同誌からパート譜が出版された。
 フォックストロットは、19世紀末アメリカでジャズの前身であるラグタイムと呼ばれる音楽が生まれ、これに合わせて生まれたダンスの一つがフォックストロットである。1913年 ハリー・フォックス(Harry Fox) が、自らがマネージャーをつとめていたダンスホールで、自らの名を冠したダンスを発表する。これ以前にも、ターキートロット(Turkey trot)などの動物の名を冠していたダンスが流行っていたが、この踊りは狐(fox)の動きとは関係がない。当時のフォックストロットは、今日のクイックステップやジルバに近い、スピーディーでアクションの激しいダンスだった。米国での流行が、さらに同時期の流行ダンスのチャールストン(Charleston)とも組み合わさることで、欧州や日本でも流行した。今日では演奏用語としては使われなくなり,社交ダンス用語としてのみ残されている

250.アンダルシアの唄  A.アマデイ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、マンドローネ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説
作者は1866年12月9日イタリア・ロレートに生まれ、1935年6月16日トリーノで逝去した作曲家で管弦楽指揮者。マンドリン合奏曲の創作は既に1897年ごろから始めているが、1906年ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに「プレクトラム賛歌」が受賞。1908年同誌主催の第二回作曲コンクールに提出された「海の組曲」は一位に入賞(このとき、二位はなく、マネンテの「メリアの平原にて」が三位)、以来マンドリン音楽の至宝として親しまれている。マンドリン音楽への作曲、編曲だけでも九十曲以上があげられるのは、マンドリン音楽への愛着が並々でなかった証拠といえよう。彼の貢献はマンドリン音楽の独創性を把握して、マンドリン本来の表現能力に対して何等の特殊技巧を施すことなく自然な表現をおこない、イタリア人の明朗なロマンティシズムを味わい深い旋律に託し、各楽器結合の妙味、音色に対する優れた感覚、対比旋律の巧みな配置、これらが渾然と総合されてマンドリン音楽独自の世界を創造したことにある。 
 アマデイには好個の小品が数多くあるが、その存在さえ忘れられている作品も多い。マンドリン奏者が自ら楽譜を求め、採り上げることなくして、斯楽の未来があるのか心配である。
 本曲は1927年4月のイル・プレットロ誌に掲載された作品で、作品番号397。彼が名誉会長であるエステューディアンティナ・ベルガマスコに献呈されている。スペインの舞曲であるボレロのリズムを基本としているが、アマデイの洗練された手法により、マンドリン合奏の表現を巧みに生かした軽快な作品となっている。 スコアおよびパート譜は、イル・プレットロ誌が1927年に出版したものによった。

251.「降誕祭の幻影」牧歌  G.ミラネージ作曲
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、マンドローネ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説
作者は1891年、パヴィア近郊のボッタローネに生れ、1950年にミラノで没した。Alessandro Savoiaに音楽教育を受けた後、ミラノで著名なIldebrando PizzettiとGiulio Basに師事している。作品には、オーケストラの為の「組曲」、二声と弦楽及びオルガンの為のミサ曲、弦楽四重奏曲、ヴァイオリンとピアノの為の幾つかの「ソナタ」、吹奏楽曲等がある。各種の作曲コンクールに入賞し音楽界で活躍をはじめていた1922年、イル・プレットロ誌のコンクールでマンドリンソロ曲「サラバンドとフーガ」が入賞した後、次々と同誌コンクールに入賞し、以後のイル・プレットロ誌主催の作曲及び演奏コンクールには度々審査委員として招かれ、その名はイタリアマンドリン界に広く知れわたり、次第に重きをなすようになった。請われて、『ギター及びプレットロ楽器の為の和声学概論』を執筆していたが、購読者が揃わず出版はかなわなかったという。

この間、彼の力作「主題と変奏」の他、小品ながらいずれも近代的な、独特の作風をもった作品をイル・プレットロ誌に次々と発表、とりわけそのマンドリンソロ曲においては、従来のソロ曲に全く見られなかったユニークな、そして大胆な手法のものが多く、ミラネージを語る上での最も大きな特徴となっている。さらに、斬新な作風の2つのマンドリン四重奏曲(Quartetto a P1ettro)「Quartetto in Sol」「Al1a Primavera」を発表したが、特別に注文があった場合にのみイル・プレットロ誌から写譜提供されたもので余り知られていない。ミラネージのペンネームSilren de1la Lancaは彼の故郷に近いアッダ川自然公園の中にあるランカの森からとっていると思われる。
 「降誕祭の幻影」は1934年、ミラノのイル・プレットロ誌にパート譜が掲載された四重奏のパストラーレ(牧歌)。中野二郎氏は『イタリアマンドリン百曲選第12集』で、この曲を「誕生日の幻影」と訳して紹介しておられるが、"Natalizie"はやはり降誕祭(クリスマス)と読み、この曲を理解したい。
 なお、マンドリン系楽器、特に第二マンドリン、マンドラに重音で演奏する部分が随所にあるが、繊細な部分を壊さないよう、場合によっては重音ではなく、分割して演奏されたい。スコアは、シエナのアルベルト・ボッチ氏が写譜・作成されたものを用い、マンドロンチェロ、ベースはそのスコアから写譜した。

252.「降誕祭」牧歌   A.アマデイ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ+マンドロンチェロ、ベース
解説 「マンドリニストの友」と敬愛されたアマデイは多くの優れた小品を残している。本曲もその一つで、1909年12月、ミラノのイル・プレットロ誌から出版されたマンドリン四重奏のための牧歌。イル・プレットロ誌による第二回作曲コンクール(1909年)に一般自由曲で第一位を獲得した。
 中野二郎氏はこの作品について「軽妙な筆致で牧歌的情緒を巧みに表現し、マンドリン合奏に新たな感興を呼び起こした佳曲。特にギターの美しい用法は、それまでの常套的な使い方から脱しきれない作者に大きな示唆を与えた。」と述べておられる。

 スコアおよびパート譜は、1909年のイル・プレットロ誌によった。マンドロンチェロおよびベース譜は松本譲氏が作成されたものを写譜した

253.「ホ調のボレロ」 A.アマデイ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ+マンドロンチェロ、ベース
解説 アマデイには好個の小品が数多くあるが、その存在さえ忘れられている作品も多い。マンドリン奏者が自ら楽譜を求め、採り上げることなくして、斯楽の未来があるのか心配である。
 本曲は1907年12月のイル・プレットロ誌に掲載された作品で、イタリアマンドリン連盟に献呈されている。この連盟は、おそらくイル・プレットロ誌主催のVizzari氏の呼びかけで結成されたものであろう。 スペイン舞曲形式であるがマンドリン合奏の表現を巧みに生かした作品である。1906から1908年までアマデイが主幹をつとめていたボローニアのヴィタ・マンドリニスティカ誌から出版(1908年10月)された”Bolero in La”(イ調のボレロ)と同様の意図をもったもので、両曲とも注目すべき作品である。

  スコアは、イル・プレットロ誌が1907年に出版したものによった。パート譜は1935年7月に出版されたイル・プレットロ誌によった。マンドロンチェロ、ベース譜はオザキ譜庫が作成した。Charleston)とも組み合わさることで、欧州や日本でも流行した。今日では演奏用語としては使われなくなり,社交ダンス用語としてのみ残されている。