オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
161.「波に」セレナータ・バルカローラ C.グラチアーニ・ワルテル作曲
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドローネ
スコア 
原編成と同じ
パート譜 
原編成+マンドロンチェロ
解説 
作者は1851年8月1日ベルギーのブリュッセルに生れ、イタリアの国籍を取得した後、長らくイタリアのフィレンツェに定住し、1927年8月30日フィレンツェに逝いたイタリアの作曲家。一般には「ポンペイの最後の日」(1913年)などの映画音楽で成功を収めたが、こどものためのピアノ曲等たくさんのピアノ小曲が愛好された。合唱の実践的理論的方法論、ピアノ教則本の著もあり、彼のオペラ「シルバーノ」は1879年4月19日フィレンツェのパルラコルダ劇場で上演された。

 マンドリン音楽には早くから関係し、同じフィレンツェにそのころ住んでいたカルロ・ムニエルにも注目され、同市の由緒あるマルゲリータ皇后マンドリン合奏団の指揮者となった。1905年頃フィレンツェで「Al Mundo Musicale」誌を発刊、主幹となり自作の他にMunier、Becucci、Toselli(セレナータで著名)、Alassioその他の作家の優れた興味ある作品を発表した。その種類はマンドリンとギター、マントリンとピアノ、プレクトラム三重奏曲。四重奏曲、歌とピアノ、ヴァイオリン、フルート、ギター合奏等である。多数のオリジナル作品のほかに古典の名曲、歌劇の序曲、抜粋曲等の編曲とすこぶる多く、マンドリン音楽の興隆に多大の貢献をした。彼の作品で斯楽関係の出版は非常に広範囲にわたりイタリア各都市はじめフランス、スイス、べルギーなどヨーロッパ各国各地から出版された。彼の斯楽の代表作としては「ダンテとべアトリーチェ」が挙げられるが、彼の故国ベルギーからはマンドリンの教則本も刊行されている。そのほとんどが種々な楽器の組合わせによる合奏曲であり、旋律ば優美軽快て叙情に満ち本邦にマンドリンが移入された初期は彼の多くの曲が好んで上演された。

 Onde Marine(波に)は、イタリア・アヴィラの侯爵夫人ヴィットリア・トスカネッリに贈られた舟歌風のセレナータで、作品番号145番。独奏用と合奏用の二種があり、いずれもフィレンツェのヴェンチュリーニから出版された。「ギターの緩やかな波に乗って舟歌が奏でられ、これがスケルツォ風の快調に変わり、マンドリンとマンドラが美しく応答する。終わりは、そのままの調子で最初の舟歌が三拍子で現れては消えるように上昇する。イタリアの旋律美を満喫する佳曲といってよい。」(中野二郎編 『イタリアマンドリン百曲選③』より)

 原曲の第一マンドリンとピアノ伴奏譜の小節数が、最初のバルカローラの部分が他のパート譜に比べ8小節少ない。中野二郎氏が『イタリアマンドリン百曲選③』で、この部分(第16小節から第23小節)を第一マンドリンに対する第二マンドリンによる旋律応答に書き直しておられるので、第一マンドリン譜の下段に原曲のとおりを記し、上段に中野二郎氏の書き直された譜を記している。参考にされたい。

162. 「我が貧しきギター」悲しみのセレナータ P.シルヴェストリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース
パート譜 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、ベース
解説 
作者はイタリアの作曲家。1871年5月9日モデナに生まれ、1960年2月6日に没した。14才から音楽を学び始め、ギターをセルミ教授について習い、その後次第にマンドリンに関心を持つようになった。ペサロの音楽院でビアンキーニからピアノと和声、対位法を学び、卒業後はモデナのウンベルト一世吹奏楽団の指揮者に任命されるが、後にモデナ・マンドリン合奏団を創立する。

1901年、ロディにおける国際マンドリン独奏コンクールの会長に推される。1910年ごろには、アルドラバンディ教授の後を受けてボローニャのマンドリン音楽研究誌「イル・コンチェルト」の主幹となり、イタリア・マンドリン界を啓蒙すると共に数多くのマンドリン佳曲を発表した。和声に優れた作品が多く、1941年の作曲コンクールで受賞した「夏の庭」や、「ノスタルジー」「静けき夜」「夜の静寂」などが知られる。「我が貧しきギター」は作品番号37で、1937年ミラノのイル・プレットロ誌からパート譜が発表された。曲はギターの独奏で始まるが、マンドリン音楽への理想と情熱や永年の思い出がこれに複雑にまとわりついて、何度弾いても飽きない佳曲である。

163.「ベツレヘム」牧歌   F.アントニオッティ作曲 

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
パート譜 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
解説 イタリアのミラノで活躍したピアニスト、ギタリスト、吹奏楽指揮者、作曲家。ピアノ曲、音楽劇や吹奏楽曲、マンドリン曲を作曲。管楽器のための理論的・実用的教則本をミラノのAbamo Alliani音楽出版社から出している。またギターの教則本も出版している。

1892年には、ミラノのマンドリン合奏団(circolo milanese mandolinisti e chitarristi)指揮者となり、1900年には、スイスのティチーノ州(Ticino)にあるMusica Liberale di Balernaの指揮者をつとめ、1904-1938まで、ミラノ近郊の吹奏楽団ディ・チェルヌスコ・スル・ナヴィーリオ(Cernusco sul Naviglio)の団長をつとめたのをはじめ、各地の吹奏楽団の団長、指揮者をつとめた。1912-1918芸術監督とマンドリン音楽誌編集者となり、ミラノのマンドリニスタ・イタリアーノ(Mandolinista Italiano)誌からマンドリン合奏のために多くの作品を作曲・編曲している。

1886年には、ミラノのルッカ(F. Lucca)社からマズルカやポルカのピアノ曲、1900年にはマンドリンとピアノのための「愛の悲しみ」(Duolo d'amore,Melodia )をフィレンツェのヴェンチュリーニ(G. Venturini)社から出版。1901年からボローニアのイル・コンチェルト(Il Concerto)誌にマンドリン曲を発表、1915年からは、主にミラノのモンティーノ(A.Monzino)社が発刊するマンドリニスタ・イタリアーノ誌から数多くのマンドリン合奏小品を1938年同誌の廃刊まで発表している。1938年当時、まだ70歳以上で活発に活動していたと言われているので、生年は1865年ごろであろう。

“Betlemme, paastorale”は楽譜にも記されているように、アントニオッティの「Betlemme」という2幕3場の音楽劇のなかの詩的牧歌から作者自身によりマンドリン合奏に移されたもの。ベツレヘムはキリスト生誕の地。
 本曲は単純明快で演奏は容易であるが、トレモロ一辺倒ではなく、ピッキングを有効に用いて「pastorale」的雰囲気を表現したいものである。

164.「降誕祭の夜」   G.サルトーリ作曲 

編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
パート譜 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
解説 
ジャコーモ・サルトーリは1860年3月8日トレントとヴェローナの中間にあるアラで生まれ1946年3月25日トレントに逝いた作曲者、オルガニスト、吹奏楽隊長、指揮者。理髪師であった父の後を継ぐはずだったが、マンドリンを独習。18歳で最初の作品を書き、1881年3月にはアラの音楽協会に「バイオリン練習生」として登録された。アラから北へトレントとの中間にあるロヴェレートでBrogialdiの下でバイオリンをGiovanni Tossに作曲を学び音楽に没頭した。アラに住み続け、地元バンドの代理指揮者、教会のオルガニストとなり、この町の音楽家となった。

1889年にエルビラと結婚し4人の息子をもうけた。第一次世界大戦の間、彼は南のヴェローナに疎開し、しばしばシンフォニーコンサートの第一バイオリン担当した。戦後、彼はアラには戻らず、トレントに移り、そこで音楽に身を捧げるようになった。トレントでは、1938年まで、ビジル・キルヒナーの代わりにマンドリンオーケストラ「クラブ・アルモニア」を指揮し、トレンティーノ・アルト・アディジェ州の町々や、イタリアの様々な都市で演奏した。彼はプレクトラム音楽の専門家となりマンドリンとギターのためにだけ作曲するようになった。1894-1939にかけてトリノのイルマンドリーノ誌やミラノのマンドリニスタ・イタリアーノ誌から彼の作品が度々発表された。彼の作品のうち約7曲が作曲コンクールに入賞し、世界にその名を知られるようになり、いくつかの外国のマンドリンアンサンブルが彼の名を冠し、彼を「マンドリンのレハール」と称えた。第二次世界大戦までに、彼の音楽は広くヨーロッパ全体に普及し、イタリアの伝統的なメロディ、エレジーやセレナータのメランコリーな詩情、そして陽気で活気のある舞曲は、「サルトーリ調」とも言うべきもので、今も愛奏されている。現在アラで開催されているマンドリンコンクールには、「マンドリン楽器によるジャコモ・サルトーリ国際コンクール」と彼の名前を冠している。アラ市は、市の劇場を「ジャコモ・サルトーリ劇場」を命名することによって、彼の功績を称えた。1990年、彼の作品はアラ市の市立図書館に寄贈された。彼の作品は、約150曲残されているが、その大半はイル・マンドリーノ誌から出版されており、中でも「フローラ」「聖ルチオの鐘」「糸杉の林にて」等がよく知られている。
 “Notte di Natale(降誕祭の夜)”は、1924年、イル・マンドリーノ誌から出版された。パストラーレのメロディがクリスマスイヴの情景を醸し出している。単純明快で演奏は安易であるが、トレモロの呪縛から脱して、ピッキングを有効に用い「pastorale」的雰囲気を表現したいものである。

165.国際山岳自動車レース  M.ヴィカリ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、マンドローネ、ギター、ベース
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説 
Mario Vicari は、1879年12月27日スイス南部イタリアとの国境付近の町ルガーノに生まれ、1976年10月19日に長寿を全うした作曲家、指揮者、オルガニスト。11歳の時、同地のSan Calro教会のオルガンを演奏して神童と騒がれたという。その後、チューリッヒ音楽学校で作曲をKunst Wenigeに学び、合唱指揮とオルガンの勉強に励んだ。卒業後、故郷ルガーノに戻り、チューリッヒ音楽学校の支部の監督となった。そのかたわら、San Lorenzo大会堂のオルガン奏者として、また父と一緒に設立した合唱団Santa Cecilliaの指揮者として、さらにはC.NotariによりCarmelo Coletta主幹のもとにLuchsingenで出版されたマンドリン研究誌“Mandolinismo”の協力者として、後にColettaの後任となり多彩な活動をくりひろげた。彼の名声を確立したのは、なによりもその作曲活動であった。混声合唱とオーケストラのためのミサ曲や、男声合唱とオルガンならびにオーケストラのためのレクイエムなど著名な作品が彼の手になった。民衆音楽の領域では、この地域の方言詩人たちの歌詞を使った一連の混声合唱曲や童謡の作曲などスイス・イタリア語圏の独特な文化を高めた。さらにはピアノ曲はじめ、マンドリンや吹奏楽のためのいくつかの作品もつくっている。

彼は小編成のマンドリン合奏のための作品を“Mandolinismo”誌から発表しているが、この曲は1928年2月に同誌から発表された。多言語地域らしくイタリア語で“La Corsa internazionale del Klausen”とも表記されている。1922年から1934年にかけて「スイスのグレートマウンテン賞」のための自動車、オートバイのレースは、当時ヨーロッパの最も有名で重いマウンテンレースであった。その危険なコースには何万人もの観客が詰めかけたといわれている。演奏にはピアノ譜も参考にされたい。