オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
141.「女の手管」序曲 D.チマローザ作曲  
             B.マステッリ編
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
スコア 
原編成と同じ
パート譜 
原編成と同じ
解説 
イタリアの作曲家ドメニコ・チマローザ(1749-1801)は貧しい家庭に生まれ、幼い頃に父親を事故で亡くしたが、持ち前の音楽的才能を生かしてオペラ作曲家として大成。65作以上のオペラを作曲したが、『秘密の結婚』と『女の手管』以外は現在ほとんど忘れ去られている。『女の手管』は1794年に初演された4幕の歌劇。

編曲者マステッリは、1878年10月13日地主の息子として、イタリア北東部のヴェネト州フィカローロに生まれた。家族で合奏を楽しむことから音楽の道に入り、1910年にボローニャ王立音楽アカデミーのクラリネット科を卒業、1912年には管楽器の教師に任命され、ピエモンテ州のサルッツォに移った。1914年、ルガーノで行われた市民オーケストラの副指揮者のオーディションに合格し、同地に赴いた。同時にスイスのルガーノ地区カノッビオの吹奏楽団の指揮者となり、さらに同地のマンドリン合奏団も指導した。1920代には、レオポルド・カセラの下で、ルガーノ・カーサルのオーケストラでクラリネット奏者として活躍、サンモリッツの冬の季節には、移動オーケストラで演奏した。1930年代には、オトマール・ヌシオ指揮のモンテセネリ放送管弦楽団の一員となり、クラリネットの活動を行っている。
 1927年のルガーノ・フットボールクラブの公式応援歌や、イタリアがドイツと同盟し、危機にあったスイスを武装中立路線で守りぬいた外務大臣ジュゼッペ・モッタに捧げたレクイエムミサが「聖母への祈り」として法王から認められるなど、彼は様々な音楽ジャンルで作曲活動をおこなった。ピエトロ・マスカーニ(1863-1945)、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)、ヴィルヘルム・バックハウス(1884-1969)、ヘルマン・シェルヘン(1891-1966)、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867-1957)など国際的地位の作曲家・指揮者らと交友があった。1962年10月9日、5
人の子供たちとその家族に囲まれてルガーノで死亡し、故郷フィカローロのロヴィーゴに葬られた。
 マステッリ編曲『女の手管』序曲は、1927年コモ市での科学者ボルタ生誕100年記念博覧会に行われた作曲コンクールの第二部門に入賞し、同年3月にボッタッキアリが主宰するボロ-ニアのイル・コンチェルト誌から出版された。スコアは1927年発行のイル・コンチェルト誌を用いた。

142. 「スペイン風セレナータ」 F.アモローソ作曲 

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成+マンドロンチェロ+ベース
解説 作者は、1878年7月25日、イタリア・サレルノの近くで生まれた作曲家、吹奏楽指揮者。音楽学校卒業後軍楽隊に入り、右の写真が掲載された1910年前後は歩兵第24連隊軍楽隊長の地位にあった。作品は多岐にわたり、情熱のあふれた美しいロマンスなど、ピアノのための一連の作品は当時一般から非常に愛好されたという。吹奏楽の作品はより一層高く評価され、各地で上演された。ナポリ、ジェノヴァ、ミラノ、ローマなどで開かれたコンクールに度々入賞した。歌劇"Il Maledetto"も作曲している。

 マンドリン音楽では1913年ジェノヴァ市が主催した第二回作曲コンクールで入賞し、アルテ・マンドリニスティカ誌から出版された堂々たる序曲「祖国への愛」が知られている。また、イル・プレットロ誌主催のコンクールにマンドリンとギターやマンドリンとピアノのための極めて美しい作品を提出し入賞している。非常に多作家であったが、豊かで天賦の才能によって常に豊かな新鮮な霊感に満ちたものを作曲した。1926年、ミラノのイル・プレットロ誌から出版されたマンドリンとギターのための「ナポリ風セレナータ」は遺作とみなされている。    

 彼は不幸にも不治の病に侵され、約2年間ナポリで痛ましい生活をしたが、同地で亡くなった。40歳に満たなかったと言われている。イル・プレットロ誌のアレッサンドロ・ヴィッツアリ主筆は、戦時中の混乱で彼の死を知ることができなかったことを詫びつつ、同誌1919年12月号に彼の最後の絶望の手紙を掲載し、その死を悼んだ。

 親愛なるヴィッツァリ様、

  私の健康状態はそれほど良くはありませんが、休職を申し出ることを余儀なくされ、ナポリへ出発するのを待っています。 じっと待っていることが、私自身の不幸に平穏をもたらすことが出来ず、私の気持ちを滅入らせ、情けない気分に陥っています。ナポリの気候が、何らかの形で病状を好転させてくれることを願っています。そうでなければ、私の終わりがどうなるか分からないのです。アモローソ
スペイン風セレナータ」は、ボローニアのイル・コンチェルト誌主催の作曲コンクールに第3位入賞し、1914年、同誌からスコアが出版された。

143.「春のオーバード」 P.ラコンベ作曲 F.メニケッティ編 

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成+マンドロンチェロ+ベース
解説 1837年、フランス・ラングドック地方のカルカソンヌの裕福な商人の家に生まれ、1927年に没した作曲家。カルカンヌの音楽学校で声楽、和声、フーガ、対位法を学んだ。管弦楽曲のほかに室内楽曲、ピアノ曲、歌曲がある。崇拝しているジョルジュ・ビゼーから管弦楽曲を書くように勧められ、1876年に『交響的序曲』(Op.22)、1878年には『田園組曲』(Op.31)、1890年には『春のオーバード』(Op.37)で成功を収めた。同年代の作曲家ポール・ラコムと混同されることが多く、いくつかのラコムの楽譜がラコンブの名で出版された。
 編曲者メニケッティは1894年12月26日コルシカ島のヴィアレッジョ(Viareggio)に生まれ、1969年8月27日に逝去したフランスの作曲家、指揮者。フランソワ・デトーガ(François Detoga)のペンネームも用いた。

 アコーディオンを製造、修理する父親から音楽の手ほどきを受け、海軍に入り音楽の勉強をしたいと、フランス本土南部地中海に面した軍港の町トゥーロン(Toulon)に渡り、海軍で働きながら、トゥーロン音楽学校のボノ(Bonnand)教授の弟子として軍楽隊入隊試験に合格、一等水兵として軍艦に乗艦、「波の歌」、「古いトロール船」等を作曲、乗組員の士気を鼓舞した。

 1914年から1918年の第一次世界大戦後、軍楽隊副司令となり、赴任した各地の連隊で軍楽隊のために、それぞれの土地の楽器を用いてエキゾチックな多くの作品を発表・録音している。第二次世界大戦中、ドイツ国境に近い要衝メス(Metz)の第80連隊所属のとき捕虜となるが、収容中でも彼の創作は続けられたという。
 戦後除隊、民間人となり、長年の友人だったマリオ・マチョッキの事業を継続するために、彼は積極的にプレクトラム音楽に関わるようになり、1948年7月マンドリンオーケストラのためのLe Mediator(ル・メディアトール)誌を創刊。マンドリン音楽の普及に献身した。また彼は、ル・メディアトール合奏団を指導・指揮しマリア・シヴィッターロ等の優れたミュージシャンと一緒ーディングしている。Aubade(オーバード)は、夜明けに別れる恋人たちの詩、または歌のこと。朝の歌とも訳され、夕べの愛の歌・セレナータと対比される。スコアはル・メディアトール誌8号に掲載された。


144.「蛍の舞曲」間奏曲 A.アマデイ作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター、マンドロンチェロ、マンドローネ
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説 作者は1866年12月9日イタリア・ロレートに生まれ、1935年6月16日トリーノで逝去した作曲家で管弦楽指揮者。マンドリン合奏曲の創作は既に1897年ごろから始めているが、1906年ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに「プレクトラム賛歌」が受賞。1908年同誌主催の第二回作曲コンクールに提出された「海の組曲」は一位に入賞(このとき、二位はなく、マネンテの「メリアの平原にて」が三位)、以来マンドリン音楽の至宝として親しまれている。マンドリン音楽への作曲、編曲だけでも90曲以上があげられるのは、マンドリン音楽への愛着が並々でなかった証拠といえよう。彼の貢献はマンドリン音楽の独創性を把握して、マンドリン本来の表現能カに対して何等の特殊技巧を施すことなく自然な表現をおこない、イタリア人の明朗なロマンティシズムを味わい深い旋律に託し、各楽器結合の妙味、音色に対する優れた感覚、対比旋律の巧みな配置、これらが渾然と総合されてマンドリン音楽独自の世界を創造したことにある。
 「マンドリニストの友」と敬愛されたアマデイは多くの優れた小品を残している。本曲もその一つで、1929年12月、ミラノのマンドリニスタ・イタリアーノ誌から出版されたガボット調の間奏曲。マンドリニスタ・イタリアーノ誌を発行するA.Monzino社がサンレモのC.Beltramo博士からイタリア、フランス、ベルギーでの出版権を獲得したもの。マンドリンのピッキングを巧みに扱い、中程でハ長調の大きく波打つ旋律がマンドロンチェロと交錯してガボット調と美しく対比する。出版されたのはアマデイの晩年であるが、作品番号からみると、中期の作品である。  スコアは、1929年のマンドリン誌マンドリニスタ・イタリアーノが出版したものによった。パート譜はスコアからオザキ譜庫が写譜したものである。なお、80小節目からトライアングル、最後にはティンパニが入るが、マンドローネ譜に記してあるので留意されたい。

145.「アラビアの行列」 W.バルヴァス作曲 
原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、キタローネ、ティパニー
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成+マンドロンチェロ
解説 作者バルヴァスは1891年3月25日アレッサンドリア(ギリシャ)に生まれ、1964年3月8日ルガーノ(イタリア北部ルガーノ湖畔)で没した作曲家で指揮者、オルガニストでもあった。
 岡村光玉さんが作者の未亡人を尋ねて聞き取りをしたところ、マンドリンの曲もたくさん書いたとのことだが、1924年イル・プレットロ誌主催の作曲コンクールで銀賞を得た「アラビアの行列」だけが知られている。彼はギリシャ人で、エジプトについて非常に興味があったらしく、部屋にはエジプト産の種々な飾りものがあり、「アラビアの行列」を献呈したエジプト王室のファロォー皇子から送られて来たお礼状が額に入れて飾ってあったとのことである。作品には一幕ものの喜歌劇「MICINA」、マンドラコントラルト、マンドラテノーレと唄の為の「Natale」(1943)、ヴァイオリンとピアノのための「Serenade plaintive」(1922)等が岡村氏の調査により判明している。
 アレッサンドロ・ヴッツァリ(Alessandoro Vizzari)が主宰するイル・プレットロ誌は、マンドリン曲の紹介、諸作家の論評、斯界の報道、新人の紹介などを積極的におこない、マンドリン音楽の推進発展に大きな貢献をした。特にマンドリン・ギター曲の作曲コンクールを度々開催し、現代のマンドリン界でも愛奏される作品を多数発掘、多くの優れた作曲者を紹介したが、その多くはイタリア風の旋律が特徴であった。しかし、この頃になり合奏も他人数で演奏しても効果のある作品が求められるようになり、「アラビアの行列」はそれ故による受賞でもあった。
 この曲の1924年作曲コンクール応募時のモットー(作曲の動機・副題)はAssuan(アスワン)で、現在アスワン・ハイダムのある地方の地名である。エジプト南部のアスワンから南スーダンへのナイル川には何か所かの急流があり、交易は陸路に頼らざるを得ず、アスワンは船から積み替え、ラクダにのせて隊商を組むキャラバン交易の起点であり終点であった。
 遠くから隊商の行列が近付き、やがて遠ざかっていく様子を描いており、アラビア風の旋律と楽器の巧妙な扱い方により、極めて異色な作品として従来のマンドリン表現に一種の生彩を加えた。作品は単純ではあるが、オーケストラとしては効果的である。
 エジプト王室のファロォー(Faroukh)王子に献呈されている。スコアは1924年発行のイル・プレットロ誌を用いた。