オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
108.「優雅な仮面」ミヌエット .コレッタ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、
     マンドロンチェロ、ギター、ベース

スコア 原編成と同じ
パート譜 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、
      マンドロンチェロ・ベース

解説 作者はナポリの音楽院を卒業し、数多くの音楽コンクールにも入選した著名なギタリストで画家。イタリア本土を望むシチリア島のメッシナに住んでいた。1921年よりスイスの斯楽誌マンドリニズモの編集責任者になっている。特にギターとマンドリンのため作品を数多く作曲した。簡明で洗練された和音とメロディによる舞曲、セレナータ、スケルツォ、マーチ等の小品が多い。作品はミラノのイル・プレットロ誌やマンドリニズモ誌等から出版されている。

マンドリン曲には、1920年のイル・プレットロ誌主催の作曲コンクール行進曲・舞曲の部で一位となった「マリニータ」をはじめ、「化粧をする貴婦人」「三人姉妹の美の女神」「麗しのギター」等がある。

 本曲「優雅な仮面」は1925年にイル・プレットロ誌で発表されたものであるが、1924年に同誌からギター独奏曲として先に出版されている。彼の作品には、このようにギター独奏曲として作曲され、後にマンドリン合奏曲として書き直したものが多い。 

107.「劇的序曲」  A.カッペルレッティ作曲
原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、     ギター、マンドローネ、ティンパニー
スコア 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、
    ギター、マンドローネ

パート譜 原編成と同じ
解説 本曲「劇的序楽」は、1913年、イル・プレットロ誌主催の作曲コンクールにファルボの「ニ短調序曲」、ラウダスの「ギリシャ狂詩曲」と共に一位を獲得した。オーケストラのために作曲したものをマンドリン合奏に書き直したという。 イル・プレットロ誌から手写譜で頒布され、後に印刷譜となり普及していった。初期の手写譜版には、「欲望の翼にのって」と題するモットー(作曲の意図や標語)が「劇的序楽」のタイトルに添えられている(左下図)。 彼のマンドリン合奏曲は、他に故郷コモのマンドリン合奏団「フローラ」の指揮者となって同合奏団に贈られた「マンドリン賛歌フローラ」や「ロマン的間奏曲」「ボレロ」等がある。
  スコア及びパート譜は、ミラノで刊されいたマンドリ誌「イル・プレットロ」が出版した印刷原譜に拠った。
  手写譜版から印刷譜にいたる間に楽譜の修正、追加、削除が行なわれている。手写譜版でも写譜する度に変更が加えられ、最終的な改訂が印刷譜でなされたと考えられる。スコアのティンパニーは不完全であるので、手写譜版ティンパニーパート譜をもとにオザキ譜庫で作成したものを使っていただきたい。
110.「古城の物語」交響的間奏曲 I.A.フィリオリーニ作曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、
   ギター、ベース

スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ

解説 作音はヴェルチェッリ(ミラノとトリノの間の町)に生まれ、1923年から1935年までヴィオッティ音楽院で作曲、弦楽器の教授をつとめた。早くからマンドリンに情熱を傾け、自分の名を冠した合奏団を組織し、マンドリン奏者としても指揮者としても活躍した。

1907年ボローニアのマンドリン研究誌「イル・コンチェルト」にムニエルが「コンサート楽器としてのマンドリン」と題する論文を発表した際、フィリオリー二はマンドリニストがそのレパートリーをヴァイオリン曲に求めざるを得ないこと、ヴァイオリンと比較してその楽器性能の優劣を述べた反論を公にし誌上を賑わせた。
 そんな彼だが、やはりマンドリンヘの愛着があったのか「演奏会用行進曲」等のマンドリン無伴奏曲や小品を多く残している。そして、1911年2月15日発行のイル・コンチェルト誌上に「卓越した巨匠カルロ・ムニエルを讃えて」ギター伴奏付のマンドリン独奏曲「ト調のコンチェルト」を捧げている(ムニエルは発行の直前2月10日に逝去)。

マンドリニストに愛奏される「古城の物語」は彼が構想を温めていた歌劇の間奏曲として、先ずマンドリンオーケストラのために作曲され1929年トリノのイル・マンドリー誌から公にされたものであった。歌劇「古城の物語」は1947年に初演されているが、彼が反ファシストであったため、上演の機会を持つことができなかったという。(フィリオリーニの略歴及び歌劇「古城の物語」初演の時期と経過は、石村隆行氏の調査によるもので、同氏の了解を得て掲載させていただいた。)

109.「仮面」 序曲 P.マスカーニ作曲 U.ボッタッキアリ編曲

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、
  マンドロンチェロ、マンドローネ、ベース、ティンパニー

スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ

解説 マスカーニは音楽に強い関心を持ち、14歳の時、地元のケルビーニ音楽学校で本格的に音楽を学ぶ。16歳の頃から交響曲、オペラ、カンタータなどを作曲し、その才能を認められる。1882年ミラノ音楽院に入り、ポンキエッリやサラディーノに作曲を師事し、また同室には5年先輩のプッチーニがいた。途中で学校を中退、ミラノのダル・ヴェルメ・劇場の管弦楽団に加わり、チェロを演奏するようになる。また、歌劇団に加わりイタリア各地を巡業し、指揮者・作曲家としてのキャリアを積んでいった。その後、チェリニョーラの音楽学校の教師となる。

1890年に楽譜出版社ソンゾーニョ(Musicale Sonzogno)の一幕歌劇コンクールに応募して当選した代表作「カヴァレリア・ルスティカーナ」によって、彼の名は一夜にして世界中に知れわたるようになった。

編曲者ボッタッキアリ(1879−1944)は、ペサロのロッシーニ音楽院で4年間学び、マスカーニの教えを受けた。ボッタッキアリの生地カステルライモンドの地方紙によると、マスカーニから特に目をかけられていたという。彼が師匠マスカーニの「仮面」序曲をマンドリンオーケストラに編曲したのも、そういった縁によるものだろうか。

111.「メリアの平原にて」 序曲.マネンテ作 

原編成 第1・第2マンドリン、マンドラ、ギター、 マンドロンチェロ

スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ。マンドローネ、ベースは中野二郎氏のスコアからオザキ譜庫管理委員会で作成
した。

解説 「メリアの平原にて」は、1908年ミラノのマンドリン音楽誌イル・プレットロが主催した第二回作曲コンクールに応募された作品で第三位に当選(二位は該当なし)し名誉賞状を授与されたもの。1910年に同誌から出版され、マンドリン界の至宝作品となった。プレクトラム楽器を大胆に取り扱った点に彼の非凡なる手腕を見ることが出来る。特に第二主題に於ける第一マンドリンの旋律と第ニマンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター等の交互に現われる和音の伴奏は最注目に値し、更に主題がマンドラに対照され終に第一マンドリン、マンドラが同蒔に対位旋律を繰返すことによって驚くべき効果を示している。この時の第一位受賞はアメデオ・アマデイの「海の組曲」であったが、革新的な豪放な作品としてこの「メリアの平原にて」は他作家の作品に見ることの出来ぬ気概と力を持っている。