オザキ譜庫マンドリン楽譜 本文へジャンプ
オザキ譜庫発売マンドリン合奏譜
101.「マンドリニストの生活」  J.B.コック作曲

原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター
スコア・パート譜 原編成と同+ベース
解説 ヨハン·B.コックは1889年に生まれ、1954年に没したオランダの演奏家であり作曲家。もともとプロのヴァイオリン奏者であったが、後にギター・マンドリンを専門とするようになった。長らくメンゲルベルク指揮のアムステルダム·コンセルトヘボウ管弦楽団でマンドリンとギターを演奏していた。1919年から第二次世界大戦まで刊行されたヒルフェルスムのリスペート社発行のDe Mandolinegids誌に参画、多くの作品を発表している。さらに、1926年から1930年にかけて、Barend van Zwieten社発行のマンドリン研究月刊誌Het Ned Mandolin Orkestの編集に携わり、斯楽を啓蒙した。1930年には、ラジオ・マンドリンオーケストラを結成、ヒルフェルスムの放送局から150回以上放送された。彼は、マンドリン合奏やマンドリンオーケストラのために多くの作品を提供し、200曲を越える彼の作品が、オランダだけではなく、アメリカや日本でも演奏されている。わが国では「魅惑島」や「マンドリンオーケストラのためソナチネ」など数曲が演奏されるだけであるが、沢山多くの作品がある。第二次世界大戦中、ギターとマンドリンのための教則本を書いている。本曲は、1925年De Mandolinegids誌から出版されたもので、いわゆるマンドリン讃歌と言うべき作品。

102.「郷愁」  P.シルヴェストリ作曲 
原編成 クァルティーノ、第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ(ベース)
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成と同じ
解説 作者はイタリアの作曲家。1871年モデナに生まれ、1960年に没した。14才から音楽を学び始め、ギターをセルミ教授について習い、その後次第にマンドリンに関心を持つようになった。ペサロの音楽院でピアノと和声、対位法を学び、卒業後はモデナのウンベルト一世吹奏楽団の指揮者に任命されるが、後にモデナ・マンドリン合奏団を創立する。1901年、ロディにおける国際マンドリン独奏コンクールの会長に推される。アルドラバンディ教授の後を受けてボローニャの「イル・コンチェルト」誌の主幹となり、イタリア・マンドリン界を啓蒙すると共に数多くのマンドリン曲を作曲した。和声に優れた作品が多く、1941年の作曲コンクールで受賞した「夏の庭」や「静けき夜」「夜の静寂」などが知られる。
この曲は、イル・プレットロ誌創刊25周年を祝って。親友であるイル・プレットロ誌主幹で斯界の指導的立場にあったアレッサンドロ・ヴィツァーリ氏に贈られたものである。この曲の作品番号も25であることは、偶然の産物か、意図的な産物か定かではない。 スコア及びパート譜は1931年のイル・プレットロ誌を用いた。
103.「東洋の神秘境にて」  D.ベッルーティ作曲 
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、マンドローネ
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成
解説 1893年8月31日にル(Lu)・モンフェッラート(Monferrato)に生まれ、1947年8月22日カザーレ(Casale)・モンフェッラートに死去したイタリアの作曲家でギタリスト。岡村光玉氏によるDino Berrutiの甥であるGianni Berruti氏からの聞き取り調査によると、Dino は独学で音楽学校にも行っていない。彼の父(Dinoの弟)も素人ながらDinoの影響を受け、ピアノ、ヴァイオリン、ギター、フルートをよくしたという。第一次欧州大戦前は電信員、戦後はCasaleの郵便職員を務めていた。

Berben社発行の『イタリアギタリスト辞典』には、1961年に自殺したと書かれているが、1947年8月22日にCasaleの“Santo Spirito”病院で死去した。彼は常に神経質な人で、二三年おきに発作のようなものがおきて苦しんでいた。第二次世界大戦後、その発作の治療のため簡単な手術を受けることになっていたが、彼はこの手術に極度の絶望感を覚え自ら生命を絶ったという。

1930年5月、ミラノのイル・プレットロ誌主催の作曲コンクールに彼の「モスコーの真昼」「黄昏語る時」の2曲が入選した。当時、沈滞下降をたどっていたマンドリン界はベッルーティの出現により、一時清新の風をあたえられた
104.序曲「幸運の星」  G.フレンド作曲
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
スコア 第一・第二マンドリン、マンドラ、ギター 
パート譜 
第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、ベース
解説 作者の経歴などは不明、パリで刊行されていたレステュディアンティナ(L’Estudiantina)誌に、この曲だけ出ているのみである。題名にもある通りコンクールのための序曲で、当時各地で盛んに開催された演奏、作曲コンクールのために作曲されたのではないかと推測される。レステュディアンティナ誌はマリオ・マチョッキの作品など多くの平易で親しみやすい作品を数多く出版してきたが、本曲も同様で、現代では評価されないかも知れない。しかし、いたずらに難曲を取り上げ、未熟で中途半端に終わってしまうよりも、こうした曲を確実に演奏して、徐々に演奏・合奏技術を向上させていくことも大切ではないだろうか。
105.「イタリア風の覚醒」  G.アネルリ作曲 
原編成 第一・第二マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、打楽器
スコア 原編成と同じ
パート譜 原編成+ベース
解説 作者は、1876年クレモナ近郊トリーゴロ(Trigolo)に生まれ、1926年に没したイタリアの作曲家。最初V.Petraliの弟子でオルガニストの父から音楽の手ほどきを受け、ミラノに移って和声、対位法、作曲法並びに楽器編成法をSaladinoおよびGalliについて学んだが、父の死によって学業を中断、故郷に帰りオルガニストおよび指揮者を継がねばならなかった。それでも独学を続け、プライベートの学生としてボローニアのディプロマをとり、1895年から1907年にかけてトリノ近郊カルマニョーラ(Carmagnola)のAccademia Filarmonicaの指揮者および同市の吹奏楽団の指揮者をつとめ、近くの町ブラ(Bra)ではヴァイオリンとピアノの教師をした。 『イタリアの覚醒』は、国家統領ベニト・ムッソリーニにより建設されつつあった新しいイタリアを祝福し、その未来を賛辞する音詩。第一次世界大戦で戦勝国となりながら、国力の衰えと政治的混乱のイタリアにあって、1922年ムッソリーニは配下の黒シャツ隊2万5000名と共に首都ローマに入城、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から組閣を命じる勅令を得、国家ファシスト党を中心とする第一次ムッソリーニ連立政権を樹立した。対立する勢力を弾圧しながら次第に独裁色を強め、1925年には国家統領となり、強国イタリアの建国が期待されていた最中に献呈されたものである。アネッリの遺作となった。