心斎橋





  さて、戎橋を北上すると心斎橋に至ります。
  まずは定点比較を行ってみます。

  …ううむ。  川は道路になり、かつての橋は単なる交差点になってしまっているように思え
ますが…

  しかし上空から見ると人工ながら水が流され「橋」としての面影をなんとか残そうとしている様が窺えます。実際、欄干などは当時の「橋」のものが使われているそうです。

(ちなみにこの地下には地下街が広がっています)


橋の変遷を伝える碑
  蛇足を承知で少し解説してみますと、ここにはかつて「長堀川」という運河があり、この「長堀川」を掘った一人である「岡田心斎」という人物により元和8年(1622)、心斎橋は架けられたといわれています。

  最初は木橋でしたが明治6年(1873)鉄橋に、そして明治42年(1909)絵葉書にある石橋へと移り変わっていきました。長堀川は昭和37年に埋め立てられ、平成9年、再開発に伴って現在の姿になったのでした。


(もう一枚。上の絵葉書の対岸から撮影したものと思われます。)


四つ橋交差点

  「四つ橋」をミナミに含めるのはちょっと無理がある(それを言うなら「心斎橋」もそうだけど)
のですが、「心斎橋」から「長堀川」沿いに西へ5分程歩いた場所に「四つ橋交差点」がありま
すので一緒に紹介してみましょう。



  絵葉書からもわかりますが、当時この交差点は市電が十字に行き交う大変に賑やかな交
差点で、明治末から大正期にかけては大阪最大の交通量を誇りました。
  線路の形状から「ダイヤモンドクロッシング」などとも呼ばれていたそうです。



  さて、現在の姿と比較してみます
  残念ながら、今ではなんの変哲もない交差点になっています。交差点の奥にある高架は
「阪神高速」です。交差点にある中央分離帯にはこの場所、「四つ橋」の名のいわれを説明す
る看板や石碑が建てられています。


  「四つ橋」の名のいわれを説明するにあたって、もう一枚の絵葉書を見ていただきましょう。


  手前の川が「長堀川」で、かつては市内を東西に流れていました。現在は道路の拡幅と共
に埋め立てられています。そして阪神高速の走っている場所には南北に「西横堀川」という川
(運河)がかつて流れていたのでした。
  つまり運河も十字に交差していたのです。その交差する川の四面に橋(北に『上繋(かみつ
なぎ)橋』、南に『下繋(しもつなぎ)橋』、西に『吉野屋橋』、東に『炭屋橋』)が井桁状に架かり、
ここから「四つ橋」の地名となったのでした。
  今は阪神高速の下にわずかに石碑が残るのみで当時の面影はどこにもありません。



  今回は初めての「大阪編」でした。しかし意外に大阪のことを何も知らないものだと痛感した
のでした。
  ううん、先が思いやられる…

  例によって数多くの資料にお世話になりました。
     「最新 大阪ものしり辞典」創元社編集部編
     「明治大正 大阪百景」野村廣太郎 画、宮本又次 文
     大阪府南警察署HP(http://www.police.pref.osaka.jp/sodan/ps/minami_ps.html)
     道頓堀商店会HP(http://www.dotonbori.or.jp/index.html)