大阪城

「大阪城趾絵葉書」:追手門
  「二の丸の追手にして、天明三年落雷焼失の後、嘉永元年再建のものなり」

  「追手門」は古称で現在は一般に「大手門」とされています。しかし、近隣には「追手門学院」などが存在し、まだまだ「追手門」という表記は元気です。

  大阪城は豊臣秀吉により築城されましたが、大阪大阪の陣で完全に破壊され、現在目に見える範囲で残る遺構は、すべて徳川時代のモデルとなっています。当然のことながらこの追手門も、徳川時代、寛永五年(1628)の創建となっています。
  実は天明三年(1783)、落雷により焼失とされていましたが、昭和31年の解体修理の際に、焼け残っていたものであることが判明したそうです。





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