続いて瀬田の唐橋です。



  定点比較をしてみます。
  古来より「唐橋を制する者は天下を制する」といわれ、軍事上の要地とされてきたこの橋で
すが、現在の橋は 昭和54年に架け替えられています。
  背後の山並みが同じなのがわかるでしょうか? 尚、交通量はかなり多いです。

  この橋には藤原秀郷にまつわる百足(むかで)退治の伝説があります。

  藤原秀郷は平安中期の武将で、平将門を討った武将としてその名を轟かしております。藤
原北家の家系では ありますが傍系です。昔は『八幡太郎義家(源義家)』か『俵藤太秀郷(藤
原秀郷)』が武家の双璧でした。奥州藤 原氏はこの藤原秀郷の子孫であったとされています
(ホントかどうかはわかりませんが)。

  さて、唐橋にまつわる伝説ですが、三井寺発行の資料をテキストにしますと次のようなもの
となっております。

  承平元年から五年(930〜935)までの頃、大津に住んでいた秀郷が草津へ向かう途中、
瀬田の橋を渡ろうとしたところ、橋の真ん中に角を生やした大きな蛇が居座っていました。道
行く人は皆、恐れて渡ることが出来ません。ところが秀郷は少しも動じることなく、その蛇をまた
いでさっさと通り過ぎたのです。
  すると秀郷の前に一人の老人が現れ、『わたしは竜神だが、あなたのような度胸のある人
は初めてだ。ひとつたのみをきいてくれぬか』と言います。そのたのみというのが、三上山(近く
にあります)に棲む大百足を退治することだったのです。
  この大百足は竜神の娘をさらいに来ようとしていたので、これを退治してくれというのです。
秀郷は快く引き受けると竜宮へ向かい、襲ってきた大百足を矢で射て、倒したといいます。
  そして秀郷は、竜神からお礼にと十の宝物をもらったそうです。実はそのひとつが三井寺の
「弁慶の引摺り鐘」なのです。
  なんと、そんな大切な鐘をボコボコにするとは… 弁慶って…

  ちなみにこのエピソードの時期については、将門の乱を鎮める前と後、両方の説がありま
す。しかし、将門が討たれたのは940年であり、その時に秀郷が着用していた鎧は、竜神から
もらった鎧であるという話も伝わっていますから、やはり、乱の前とするのが正しいのでしょう。
  後年、秀郷の武名が上がるに伴い、そこに神懸かり的な要素が加えられていったものと思
われます。


  で、瀬田の唐橋のたもとには「勢多橋龍宮秀郷社」というのがあります。縁起書によれば
1440年頃(室町中期)建てられたものだそうです。
  余談ですが、ここでは「月読命(つくよみのみこと)」の生まれ変わりであるという謎の老人に
出会い、ずいぶんと説教され、難渋しました(笑)。
  時々現れるんですよね。神社仏閣を訪ねると、こういう不思議なパワーの持ち主が(笑)。
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  もう一カ所ご紹介しましょう。
  「石山寺」です。ここは紅葉の名所で、訪問したときは大変に美しい景色でした。(人もいっ
ぱいだったけど)


  この、西国第十三番石山寺は聖武天皇の勅願により天平勝宝元年(749(奈良時代です
ね))に開基された非常に由緒あるお寺です。境内には硅灰石の奇岩があり、石山寺のいわ
れともなっています。又、紫式部が源氏物語を書いた場所とも伝えられています。(とにかく坂
の多いお寺でした)。

  さて、定点比較です。
  当然でしょうが、あんまり変わっていません。 木が生えているぐらいですね。




  今回は、絵葉書の風景と比較しても、ほとんど変化のない場所ばかりでした(建造物が対
象でしたから、当然と言えば当然ですが)。なんだか観光案内に終始したような気がするのは
気のせいかなあ(笑)。

  次回は劇的に変化した八景をご紹介しようと思います。笑っちゃうぐらい変わっています。
お楽しみに。