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王将グループ総合カタログ
WindyカタログNo:40

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漆器カタログ
日本の美第27集
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  あおい カタログ 
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「紀州のぬりもの」第19集
紀州漆器の総合カタログ
つどいNo:17
カタログ
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  紀州漆器のお祭り

海南市黒江の川端通りで 歩行者天国にして「紀州漆器祭り」が行われ、
漆器問屋、製造業者、約40社が テント張り の 店を出して
「大漆器市」を開催 盆や椀 花瓶、正月用の重箱、屠蘇器、 さまざまな漆器を展示はんばいしました。
2日間で 県内外から約6万人もの人々が海南市を訪れ会場は大いに賑わいました。
漆器伝統産業会館では 漆器蒔絵体験、紀州漆芸作家の作品展、

活躍されています
漆器青年部の皆さん
うるし塗りの カヌーを作ってみました。


この他 特設ステージで
◆吹奏楽の演奏、
◆太鼓演舞、◆女性コーラス合唱団の合唱、
◆踊り、◆演舞、 ◆歌謡ショー、
◆黒江公民館の作品発表 ◆その他の公社、会社関係ののイベント、

紀州漆器祭り風景 昔なつかしチンドンヤ屋と一緒に
我が家の後継者たち

 2016年田辺市に於いて、平安時代以降漆器のお膳に八拾椀でご馳走を振舞「椀飯」事が
最高の御持て成しとされていました。現在では「椀飯振舞」は、
気前よく振舞うという意味の語(大盤振る舞い)に変わりました。


右から4人目は私、5人目は田辺市長真砂様
 その時代「椀飯」に「梅干し」が添えられていたそうです。
そこで、平安時代にタイムスリップして料理家、山田秀季様をお招きして、
日本の梅干し展in紀州「貴族、椀飯振舞する」という
企画が模様されました

主催 田辺梅観光フエア実行委員会様、田辺商工会

漆器のご縁で招待させて貰いました。
紀州漆器の根来塗の
猫足本膳と八拾椀


 紀州漆器について
 漆器は主として、海南市の黒江地区で生産され、その原料である木材が熊野、吉野を控えて入手が容易であり、
地形的に見ても海辺の南向きの温暖な土地、そして 漆の乾燥に適当な 湿度を持った大気等が原因と、思われます。

 昔から 紀州漆器、黒江塗、とも云われ、天正十三年秀吉の兵火に遭って四散した根来寺の僧徒から伝承したとも伝えられています。
しかし定かでは有りません。 当時僧徒の内、漆工芸に巧みな者が趣味と実益の為に盛んに塗り物を造り世人は此れを根来塗と云って珍重していた。
根来塗は漆下地を施し黒漆で中塗をして朱漆で上塗を施工している。此れを赤根来と云い、黒塗のものを黒根来と云っている。

 天正13年一山の滅亡と共に四散した僧徒の内漆芸に巧みな者が各地に居住して住民に漆器の製法を伝えたと云うので当然黒江にも隠れ住んで
此れを伝えたと云われているが、この説には多くの疑問がある。 一つは 塗手法の相違である、黒江塗の発生当時は簡粗な渋地椀や春慶程度のもので、
根来塗と類似の手法の堅地の製法は文政九年(1826)小川屋長平衛が大阪から職人を雇用して始めたとも云われている。
 もう一の理由として 北には秀吉が水攻めにした太田城があった。
根来寺、太田城を攻略した秀吉はこれらの残党を追及する事は当然でその勢力下で黒江は決して安住の地ではなかったろう、と思われる。

 漆器の始祖と称されている惟喬親王(コレタカシンノウ)は、文徳天皇の第1子であったが 故あって近江の国に身を隠棲された不遇の皇子である、
親王は愛知川を遡り静寂の地を求められて小椋庄筒井に住居し民業として 
柿や木綿の栽培を奨励され又写経のため経巻の真軸を作ろうとして「ろくろ挽物」を考案して 里人に教えた寛平9年筒井八幡宮に相祠された。 
この事は藤原実秀の4代孫小椋蔵人助実元の応徳2年の記録に残されていると云うが ろくろの考案に付いては疑問がある。
 中国では漢代すでにろくろ木地は作られていたと云い、吾国でも聖武天皇が国家平安を祈願して全国に国分寺を建立し
木版印刷の陀羅尼を入れて寄進された百万搭はろくろ挽きであり又 
 奈良県唐古の弥生式遺跡から出た木器の中に明らかにろくろを使用したと思われる高杯があり ろくろ挽きは仏教渡来以前にさかのぼると思われる。

 江州小椋庄筒井は現在の滋賀県神崎郡永源寺町蛭谷で 
八日市から愛知川に沿ってさかのぼった所で戸数数十戸足らずの小部落で全戸小椋姓を名乗っている。
往年は筒井千軒と言われる程 繁盛の地であつたと云われ 親王の随臣 藤原実秀の子孫が 小椋姓を名乗り 
代々 筒井神社の祭主となり 部落の主権者となった。親王薨去後も木地を製造する杣人達が次第に多くなり 
朝廷から与えられた親王専領地だけでは狭くなり、承平五年朱雀天皇の綸旨を得て ろくろ職頭として全国に出る機運を作った。
筒井神社 筒井神社本殿 ろくろを回している図

 

   
   惟喬親王像(大きな像です、そばの人と比べて下さい)  


 近江国愛知郡小椋庄筒井轆轤師職頭之事弥四品小野宮製作被職相勤之処神妙之由候也 
 専為器質之統領諸国令山入之者西者櫓櫂之立程東者駒蹄之通程被免許訖者、
 天気所候也仍執達如件
 承平五年十一月九日
   器 杢助           左大承    在判

  更に元龜三年には 正親町天皇から綸旨を賜りその基礎を固めた。
 近江国筒井職頭之事諸国轆轤師杓子師塗師引物師等其職相勤之族末代無相違可進退旨定訖故以
代々器質之為基本兼亦諸後可免許全公役可相勤 之由仍天気執達如件、
  元龜三年十月十一日    左大弁  在判
   小野宮社務

  天正十一年織田信長より諸役免除を受け次の免許状を得ている。
 日本国中轆轤師事従先規如有来諸役令免除之条商売不可有候儀者也仍如件
    天正十一年六月  日
    近江国筒井公文所  丹羽五郎左衛門長秀  在判

  次いで秀吉より
  従当畑商売之事於惣国中如在来不可有別儀若違乱之族在之者可注進可申付候也如件
     天正十五年十一月十五日
     近江国筒井公文所   増田右衛門  花押

 当時木地師の徒弟が一人前になると烏帽子着の古式があり筒井八幡宮の神前で木地師として一生一代の晴れの門出をした。
 それによって祖神の許しを受け同時に皇室から許可された木地師として
全国どこの山々へ行っても伐採差し支えなしと云う資格を与えられた。
 その身分証明書として一台のろくろと綸旨の写し木地業の由来、免許状、往来手形等を下付され
筒井八幡宮の氏子として小椋姓を許された。

 これは猥りに業者の増加を防ぎ又 上納金の入所の管理も出来たようである。
木地師は行く先々其の地方の総代を経て免許の願い出をし許可を得て従事する事に成っているが、
それには前期の綸旨の写しや印鑑札が相当ものをいったので有ろう。

之が 目に入らぬか !!
免許状鑑札

関所往来手形各種


 元来木地師は定まった場所に定住せず 原木を追って山から山へ入り転々と居所を移して行く、こうして荒型を造って生産地へ送っていた。
木地師達は山の七合目以上は自由に伐採する事が出来ると云う伝承を持っていた。
七合目以上と云うと山麓の人達も殆ど利用していないから抗議する者も無かったのであろう。
 しかしながら木地師は多くは山中に住み一般民衆とは接触する事は少なく、
それに惟喬親王の一族であると言う自負心も高く為に色々誤解もされて来た様である。 

筒井八幡宮には紀州黒江に関連した文書が多数所蔵されているが、次ぎの名前が出て来る。
 村岡屋八兵衛、近江屋三郎衛門、播磨屋市郎兵衛、若狭屋清右衛門、千丸屋利兵衛、伊勢屋嘉右衛門、吉野屋治兵衛、升屋源吉、
木地屋松右衛門、御坊坂甚助、泉屋傳次郎、小川屋與市、鳥井屋平十郎、富士屋徳右衛門、淡路屋善四郎、内原屋忠右衛門、
山崎屋伊助、日野屋善兵衛、舟尾善蔵、

 これらの文書によれば黒江には近江出身者即ち筒井からの移住者が相当有る事が実証される。    


昔の町並みの図
 根来塗で 代表される紀州漆器は、 昔は黒江の町の人々は、 ほとんど漆器を家業としていて、
戦前は約1500軒位の人々が漆器業に携わっていました。それぞれ分業になっていて。
 渕木屋、板屋、木地屋、絵の具屋、下地屋、 うるし屋、春慶屋、堅地屋、塗師や、絵屋、 沈金屋、
木箱屋、紙箱屋、取り売り屋、問屋、と  全部 分業で 大量生産に 適した 生産基地でした。

 現在でも その形態は 続いています。 上の写真は、現在の漆器会館 漆器が色々陳列しています。
何時でも 御覧になれます。
 私の家は ごく近くです、距離にして50m位 ここから私の庭が見えています、何なりと仰せ付け下さい


 

 黒江のお寺 浄国寺(通称ご坊さん)の本堂左側に今もお花や線香の絶えない大きな古い石碑があります。
義理と人情から人々の為に一命を捧げた重根屋伊七の墓である。

 享保3年、紀州大飢饉に見廻れ一家心中、餓死相次ぎ黒江の村は黒い幕におおわれた歳月が続きました。 
お椀を作る糊の原料続飯米の名義で、お米の融通を紀州のお殿さんに申し出ようと言う事になったのですが、
当時お殿様への直訴は御法度、さてともなれば、なかなか誰も尻込みする者ばかり、義侠心深い重根屋伊七は意を決し、
和歌山市の藻屑川の堤防普請にお殿様がお出ましとの情報を聞き、普請中の土俵の陰に隠れて藩主のお出ましを待っていました。
やがてお殿様がお通りになったので決然と身を躍らせ、事の由を直訴に及んだのですが、お殿様はその無礼を怒り、
忽ち伊七を獄に投じてしまいました。彼は牢死したとも或いは自害したとも伝えられています。
その後黒江の漆器職人等はその人徳を偲び「二膳ば」と言って100個を1口とするところを、破損、不良品の出た時の用意として
102個を作って居たのを、残して置きその代金で法要を営み故人の徳を称して来たのことです。