霊性の学としての組織論



【32】霊性の学としての組織論

 前回扱った霊性はどちらかといえば個人の側から見たもの、祭儀・密儀集団に帰属する個人のうちに顕現するものでした。今回は、人間集団その ものがもつ霊性(あるいは、ナチスが挙行した祭典にその壮大な実験を見ることができる霊性の人為的な仮構)について考えることができるのでは ないかということを述べます。

 かつてドイツで、人間集団に法人格(権利義務関係の帰属が認められる法的な主体性)を認めることができるかどうかをめぐる論争が展開された ことがあります。代表的な学説を挙げれば、要は社会秩序の確立維持をめぐる法技術・制度論の問題であるとする「擬制説」、人間集団はあたかも 自然人のような意思能力と行動能力をもっている存在だとする「有機体説」、人間集団は社会的には自然人と同列のリアリティをもった存在である とする「実在説」など。(学生の頃に囓った知識です。遺漏、誤解があるかもしれません。)

 いまから振り返るとなぜそのような議論が真剣に闘わされのか不思議ですが、おそらくそこには、部分(自然人)の総和を超えた全体(組織)が もつ社会的なリアリティに神秘性を見て取る感受性の誕生とそれへの抵抗があったのだと思います。この、部分の総和を超過する全体の孕んでいる 「何か」こそ、人間集団がもつ霊性であると表現してもいいのではなかと私はいいたいのです。

 人為的に編制された人間集団(すなわち組織)を自然人とは別の法的主体として社会的に認知することが、単なる法制度の問題ではなく、かと いって有機体であれ実在であれその本質を云々することもなく、一つの社会的事実として受け入れられる状況は、おそらく現代と別の時代との違い を際だたせる特異なメルクマールの一つではないかと思います。たとえば、20世紀最大の「発明」とは巨大な人間組織のことなのではないか。

 私は「組織論」という学問分野は、とてつもない可能性を孕んだ、いまだ未開拓の分野ではないかと考えています。いまさら学際的といった古び た言葉で形容するのは気がひけますが、まさに「学際的」にアプローチされるべき、あるいは「学」を超えた実践の技という意味では「超学的」 な、いわば大人の学問(賢慮の学)としての可能性がそこには潜んでいるように思うのです。ここで若干、私事に触れます。

 いまからちょうど十年前、私は勤め先を休職して某大学院で経営組織論を勉強していました。私が所属した総勢6名の研究室では、アメリカ経営 学の戦後日本への導入に功績のあった教授のもと、しかしもっぱら認識論や正義論や法哲学についての議論が展開されていました。ゼミで購読した 原書はエスノメソドロジーをめぐる書物で、教授の関心は経営組織における「統治」の機能のあり方、私の最初の発表は『アンチ・オィデプス』 で、二回目はウィトゲンシュタインと法的推論をめぐる考察。(博士課程に在籍する私より若年の先輩がルーマン=ハーバーマス論争について報告 したときのこと、何気なく教授が漏らした「言語システムと社会システムはどちらが先なんでしょうね」という問いかけは、いまでも私の脳髄に未 解決の問題として残っています。)

 このような研究室の雰囲気と完璧に親和した私自身の問題意識を、まがりなりにも経営学の文脈での議論につなげるため、私は修士論文のテーマ としてC.I.バーナードの『経営者の役割』を選びました。ビジネスの第一線で活躍したアマチュア学者の手になる、いわゆる日本型経営礼賛論 にも沿ったかたちで日本でも人気の高かった経営書を題材として、柄谷行人氏の著書のタイトルをもじるならば「バーナード―その可能性の中心」 とでもいうべき論考に取り組みました。

 これから紹介しようとする覚書は、その修論を仕上げる前の助走として書いたものです。一応「仮構とリアルなもの」というタイトルをつけ、章 別に編制していますが、これは一種の備忘録あるいは読書記録の寄せ集めでしかありません。次回に全体の構成と要約を、次々回から本文を数回に わけて報告します。(次回の要約中、組織の「生命」とある部分を「霊性」におきかえて読んでいただければ、上に叙述した事柄と連動すると思い ます。)

修士論文の完成版はこちら。


【33】仮構とリアルなもの・要約

     A 基本的なアイデア

 経営者の職能は、組織の「内と外」を分泌する境界線上で、実践的な課題に応じて価値や規範を(その場限りにおいて)制作することにある。
 組織とはル−ルの体系であって、経営者はル−ルに従うとともにル−ルを制作する。この、ル−ルをめぐるパラドキシカルな過程こそが、組織に 「生命」を与える契機なのである。
 組織の中で遂行される諸言説の交換は、推論の過程を織り成す。そこで推論されるもののうち、最も重要なものは「目的」である。

     B 構成と要約

序 中心における空虚――仮構としての経営者 

 本稿はバ−ナ−ドの動的組織観と経営者職能探究の方法をその可能性において見ようとするものである。バ−ナ−ドの方法の可能性は、組織の 「自己」の(自然的)生成をめぐる認識上の問題を(人為的)制作の実践問題へと転換するところにある。そこで中心的な働きを示すのが、組織を それ自体生きた実在であると見る彼の「仮構」なのである。
 仮構はたんなる認識枠組であるにとどまらず、実践に対して開かれている。あるいは仮構は実践を産出しつつ実践によって組み替えられる(仮構 から実践へという動きのうちに感得されるのがバ−ナ−ドのいう「組織感」である)。それは認識者・実践者の能動性によってリアルなものとな る。芸術家が美を経験するためには美を制作しなければならないように、経営者も組織をリアルなものとして感得するためには組織をつくらなけれ ばならない。

1 一貫性と検閲――組織の自己決定性

 自己組織化の能力をもった組織、すなわち「生命」をもった組織という仮構がリアルなものとなる契機は、「目的」という仮構と「決定」という 実践をめぐるパラドキシカルな関係(目的は決定の場を組成するル−ルであると同時に、決定によって創造される)である。それは解決されるべき 問題なのではない。パラドックスこそが、組織の「自己」を創発させる「経験の能力」をもたらすのである。
 ところで、「自己」の一貫性、すなわちセルズニックのいう独自性(identity)が刻一刻と免疫学的に「自己−決定」される組織過程に おいて、経営者はいかなる職能を果たすのであろうか。バ−ナ−ドは「リ−ダ−シップではなくて協働こそが創造的過程である」という。彼にとっ て経営者とは、それ自身が組織によって産出される仮構に他ならない。経営者の職能は経営者をつくることだという逆説がバ−ナ−ドの所説から帰 結される。

2 組織の二本の軸――精密機械としての組織

 組織の(自然的)生成の過程に埋没した経営者を、組織の(人為的)制作の過程に位置づけなければならない。
 組織には二本の軸がある。フォ−マル組織の構築につながる論理的構造を表示する共時軸(仮構)とインフォ−マル組織の発見ないし制作につな がる非論理的有機的な過程が展開される通時軸(実践)の二軸である。生きた組織はこのような相補的な二軸の断層上に創発する。
 バ−ナ−ドの組織づくりの技法は、共時軸上に空間的に表示された「形相」としての組織を構築することを通じて、その残差である「質料」が流 動する通時軸を制作し、二軸の相互牽制の過程のうちに実在としての「生命」をもった組織を稼働させることである。経営者は二軸を媒介し、組織 を象徴すると同時に組織によって造形される仮構として(組織の外部と内部を決定する)境界線上に浮上する。
 組織づくりとは「自己」を生産する精密機械を制作することである。「自己」意識にとって時間(歴史)は切り離せない現象であり、組織の「自 己」をめぐる危機(分裂病、単極型鬱病等の精神病に類比される)は、必ず時間に関する異常を伴うことになる。そして、「生命」をもった組織過 程の主たる構成要素は諸言説の交通、すなわち推論なのであるから、「自己」をめぐる異常は誤謬推論によって産み出されるものである。

3 比喩のトリア−デ――修辞空間としての組織 

 バ−ナ−ドは「発話speech」を人間協働の普遍的形態であるという。言語を使用することは行為であり出来事であって、言語活動は組織過 程の核心をなしている。ここで重要なのはインフォ−マル組織において「association 」をもたらす言語活動である。それは「社会的なるもの」の制作へ向けた法的修辞活動(実践から仮構への動きのうちに見てとられるべきもの)である。
 「社会的なるもの」の組成へ向かう組織内の諸過程の堆積が、社会体系として実体化され虚構としてのル−ルが目に見えない権力装置として機能 しつつあるとき、経営者は組織過程に「他者」性をもたらし「社会的なるもの」の制作現場を不断に現出させなければならない。経営者は組織の 「司法過程」において「適切さの感覚」をもって対立・紛争を解消する新たな法を生産し、「生命」をもった組織を(弁証法的に)稼働させる。
 組織のメタ・レベルに位置する仮構としての経営者の職能は、組織に対して「他者」であり続けるという逆説的なものであり、彼の活動は「A⇒ 非A」と定式化できるアイロニ−の過程に彩られている。

結 多数多様体へ――アイロニ−としての経営者 

 「<規則に従う>ということは一つの実践である」(ウィトゲンシュタイン)――バ−ナ−ドの組織づくり技法が究極的に制作しようとする仮構 としての経営者とは、このような意識を組織にかかわる人々に喚起するアイロニカルな存在、すなわち「他者」である。そして、このような意識こ そ自由の意識なのである。経営者は組織のメンバ−の自由を制作しなければならない。自由こそが組織の存在理由だからである。


【34】仮構とリアルなもの・序(その1)

 バ−ナ−ドは組織を社会的創造物として、生きている状態にあるものとして見る(p.79)(1)。彼はこのことを、ゲシュタルト心理学に依 拠して、「人間が関与するかぎり、全体はむしろその部分の総計とは別のものである」という仮構、言い換えれば組織がそれ自体「実在 entity」であるという仮構をもって表現する(p.316-7)。ここでいう仮構とは、人間生活の場において限定された範囲で有用性の規準に照らして 適用される〈概念〉(2)であって、自明の理すなわち普遍性をもった真理として扱われる科学上の仮構である公理とは異なる。それは「非論理的 であるが高度に知的な精神過程」(p.316)によって感得されるべきものなのであって、形式論理的操作の対象となる空疎な虚構ではない。こ のような意味で、仮構すなわち〈概念〉は「リアル」なものである(p.170)。

 実在としての組織は生きている状態にあるかぎり部分の総和を超えており、そこに力を供出する人々に「言葉で説明できないような劇的、審美的 な感情」(p.xxxiv)を経験させる。バ−ナ−ドはそれを「組織感 the sense of organization」、 「共同体意識 communal sense」(p.170)あるいは「全体感 the sense of the whole」(p.235)と表現する。諸部分がその独自性を失わず全体との弁証法的対立を経て一つの実在のうちに融合しているとき、そこにはかつてレ ヴィ=ブリュルが未開人の原始心性を説明するために提唱した「融即律 principe de participation」(3)に似た原理が作用しているであろう。このような融合の最高段階において協働をめぐる自由意思と決定論の相克はパラドキ シカルな関係をとり結び、人々は神との合一を意味するキリスト教カトリックの儀式である聖体拝領が象徴する「精神的結合 communion」の状態へと移行するであろう(pp.295-6)。

 バ−ナ−ドの信仰告白ともいうべきこのような記述は組織を生きている状態において実在と見るリアルな仮構から論理的に導出される結論なので あって、決して神秘を語っているものではない。バ−ナ−ドが諸要因の錯綜体である協働現象を考察するために採用した方法は、混沌の中に形式的 抽象的な「体系 system」という〈概念〉を構築し可能なかぎり明晰に記述することを通じて体系のうちに捕捉されない残差の存在を示し、かかる残差と体系との相補的な 関係から実在としての組織という仮構を創発させようとするものであった。それは認識の方法であるとともに「組織づくりの技法 the arts of organizing」でもある。バ−ナ−ドの方法はあくまでも論理的意識的思考に裏付けられたものであって、神秘的要素の非論理的な受容に基づくもので はない。またそれは、多様性を単一の要素に還元し均質なタブロ−の上に量的差異として表示しようとする論理への非合理的な退行とは無縁であっ て、むしろ多様性を質的差異において「括握」(4)し多様性を産出するための実践的技法なのである。仮構がリアルなものとなるのは認識者・実 践者の能動性ゆえである(5)。

(1) C.I.Barnard,The Functions of the Executive(Cambrige,Mass:Harvard University Press,1968), 山本安次郎・田杉競・飯野春樹訳『経営者の役割』(ダイヤモンド社,昭和43年).以下本文中に頁数のみ示してあるのはいずれも同書からの引用である。
(2) ヘ−ゲルは〈概念〉を絶対者(精神)の客観的な存在構造を示す独自の用語として使用した。ヘ−ゲルは、有限者を超越するものあるいはその根底に(sub) 在る(stance)ものとして措定された絶対者を「悪無限」すなわち内容を規定できない空虚なものである(なぜなら絶対者を規定するとそれ は有限者にすぎぬものとなる)として否定し、有限者の生成変化を通じて自己の同一性を保持する「真無限」すなわち普遍性と特殊性の総合として の絶対者の思惟による認識の方法を追求した。これに対してカントは絶対者の理性による認識は不可能であるとし、また価値と理性の限界をめぐる カント的問題を扱った「前期」ウィトゲンシュタインも「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という命題で『論理哲学論考』をしめ くくっている。
 本稿に関連づけて言えば、バ−ナ−ドは全体・組織を「真無限」としてその動態においてあたかも一個の生命体のごとくに把握しようとした。そ こで呈示される〈概念〉は、価値と事実の分離の名のもと有限者たる複数の個別的組織を解剖学的に分析して抽出される空疎な概念とは異なり、極 めて実践的な契機を孕んだものなのである。バ−ナ−ドがヘ−ゲルと共有するものは国家あるいは組織において真の自由をいかに創造するかという 課題であった。両者に共通する方法は、客観的諸存在の通時的発展や共時的連関のうちに弁証法的過程を見い出すのではなく認識活動それ自体が弁 証法的過程を経て絶対者の把握に至る、そのような認識と実践を連結する弁証法であったと言えよう。しかし〈概念〉の仮構性が失念されたとき、 言い換えれば認識方法としての弁証法が客観的対象の存在様態として概念化されたとき、そこにカントあるいは「前期」ウィトゲンシュタインが設 定した問題が発生することになるのである。
(3) レヴィ=ブリュル『未開社会の思惟』山田吉彦訳(岩波文庫)第二章参照。「この心性にとっては一と多、同と異等の対立は、その一方を肯定する場合、他を否 定する必然を含まない。」(同書上巻 p.95)
(4) 「私は、〈知ること(knowing)〉とは、知られる事物の能動的な括握(comprehension)のことだと看なしている。」(マイケル・ポラニ −『個人的知識』長尾史郎訳(ハ−ベスト社,昭和60年),p.i)
(5) 「ゲシュタルト心理学によれば、対象の外見的特徴が認知されるのは、網膜や脳に刷り込まれた要素的な諸細目がたがいにおのずと均衡のとれた状態に達するこ とによる、と考えられている。しかし私はそれとは反対に、ゲシュタルトは、我々が知識を探求するときに経験を能動的に形成する活動の結果とし て成立する、と考えている。人間が知識を発見し、また発見した知識を真実であると認めるのは、すべて経験をこのように能動的に形成、あるいは 統合することによって可能となるのである。」(マイケル・ポラニ−『暗黙知の次元』佐藤敬三訳(紀国屋書店,昭和55年),p.18)


【35】仮構とリアルなもの・序(その2)

 土屋恵一郎は「法」を「人間の関係とコミュニケ−ションの場を、フィクショナルなものとして構成しようとする意思のことである」と定義する (1)。ここで定義するという営為自体がフィクショナルなものの構成への意思に裏打ちされていることに注目すべきである(2)。法的実践にお いて人々は異質な諸価値が綯い交ぜとなって生成する現実世界(そこは諸力が織り成す物語が〜から〜へと継起しあるいは切断される場である)に 発生する問題あるいは紛争をそれ自体として、局所的かつ個別具体的な問題・紛争そのものとして扱い人為的解決を図ろうとする。つまり究極の原 理から普遍かつ絶対無謬の解決を導くのではなく、当事者間の交渉と第三者への説得という修辞的活動を通じてその場かぎりの解決を工作 (bricolage)(3)するために現実を「フィクショナルなものとして構成しようとする」のである。そこで定義される概念は実体的な真 実性との連続性を断ち切った「紛争決定 dispositive」概念(4)であり、またそのような解決への道筋が論理的推論の形式(〜ならば〜である)で表現されるとしてもそれは因果を語るも のではあり得ない。

 ドゥオ−キンは、法体系には物理的事実や人々の行動に関する「ハ−ドな事実」によっては証明されない「物語的整合性 narative consistency」という事実が備わっており、「我々の法という継ぎ目のない織物のうちでは、いつでもすべての実践的な目的にとって、 正しい解答は 存在する」と主張している(5)。すなわち法体系はフィクショナルなものの構成への意思の発現である法的実践の痕跡が記録された物語であっ て、何が正しいかを自律的に決定する目に見えない原理(そこに内在するものにとって自明なしかしそれとして示すことのできない感覚)がその内 部に存在するというのである。

 物語的整合性はバ−ナ−ドのいう組織感に類似している。だが両者はその出自を微妙に異にしている。つまり前者がフィクショナルなものを構成 しようとする修辞的活動の過去現在にわたる集積のうちに示されるものであるのに対して、後者はそのような実践を可能にする実在としての組織と いう仮構から逆に構成されるものと見るべきなのである。フィクショナルなものすなわち思惟によって構築された仮構の世界と実践の世界という二 分法によって述べるならば、物語的整合性は実践から仮構へ、組織感は仮構から実践へという動きのうちにそれぞれ見てとられるべきである。二つ の世界が分離されるとき、干からびた概念が累々と築き上げる虚構の世界と、見えざる〈権力〉によって支配された禁忌と排除の共同体(そこでは 法体系は物語ではなくフ−コ−のいう「集蔵体 archives 」(6)でありアルケオロジ−による解析の対象である)が出現するであろう。バ−ナ−ドの仮構は単なる認識の道具にすぎないものではなく実践に対して開か れている。その動的性格のうちにフィクショナルなものが同時にリアルなものであるという逆説が成り立つのである。

(1) 土屋恵一郎『社会のレトリック』(新曜社,昭和60年),p.i.
(2) 「「法」のもとでは「国家」も「国民」もなんらかの民族といった特別な関係に根拠をもつのではない。その「定義」のうちにのみ根拠をもつのである。「法」 が定義をはじめると「国家」はフィクショナルな存在となってその定義のうちで構成される。しかしこの構成はむしろなんらかの実体をもつものと して幻想される国家像を、機関とその働きの「定義」のうちに解体するにひとしい。「国家」にとって「法」はつねにアイロニ−である。」(土屋 前掲書,p.ii)
(3) クロ−ド・レヴィ=ストロ−ス『野性の思考』大橋保夫訳(みすず書房,昭和51年)第一章参照
(4)(5) ロナルド・ドゥオ−キン「正しい解答はないのか」石前禎幸訳『現代思想』1986 vol.14-6,pp.214-35.
(6) ミシェル・フ−コ−『知の考古学』中村雄二郎訳(河出書房新社,昭和56年)参照


【36】仮構とリアルなもの・序(その3)

 「生命とは動的秩序を自らつくり出す能力である」(1)と清水博はいう。化学レ−ザ−の中で進行する過程(ミクロなレベルでの化学反応が集 まってマクロなシステム全体の秩序が形成されると、逆にミクロな化学反応がマクロな秩序によってコントロ−ルされることになる)すなわち「マ クロとミクロの間のフィ−ドバック・ル−プ」の存在が生命現象の核心をなす(2)。いわゆる「自己組織化」の能力が生きている状態の本質なの である。バ−ナ−ドの次の記述から、彼の仮構を単なる比喩としてではなくこのような生命現象の「定義」に基づくものであったと読解することが 可能だ。

「組織が体系であるとすれば、体系の一般的特徴は、また組織の特徴だということになる。われわれの目的からいえば、体系(システム)とは、各 部分がそこに含まれる他のすべての部分とある重要な方法で関連をもつがゆえに全体として扱われるべきものである、ということができよう。なに が重要かということは、特定の目的のために、あるいは特定の観点から、規定された秩序によって決定される。したがって、ある部分と、他の一つ あるいはすべての部分との関係にある変化が起こる場合には、その体系にも変化が起こり、一つの新しい体系となるか、または同じ体系の新しい状 態となる。」(pp.77-78)

 ここで「われわれの目的」というのは、変動する環境のなかで組織が存続するために必要な「組織に内的な諸過程の再調整」が達成される過程の 解明、すなわち「経営者機能 executive functions」の解明をいうのであろう(p.6)。「目的 purpose」という目に見えない仮構としてのル−ルによって調整された諸部分の特殊な結び付きと相互作用が自ら動的秩序をつくりだす(生命現象として の協働体系の)自己組織化の過程に、「決定 decision」という実践が介在する。一方で目的は「過去と未来をつなぐ橋梁」(p.209)であり「組織自体の行為[action]の独自の結果」 (p.200)である。それはバ−ナ−ドのいう「道徳的側面 moral aspect」における決定の対象でもある。目的は決定の場を組成するル−ルであると同時に決定によって創造されるものであり、体系の自己組織的動態のう ちに示されるメタフォリカルな「語りえない」存在であると同時に決定の過程において意識的実践的な活動の対象とされるのである。このような目 的と決定をめぐるパラドキシカルな関係を媒介するもの、言い換えると「マクロとミクロの間のフィ−ドバック・ル−プ」の触媒こそバ−ナ−ドが 探究しようとした「経営者 executive」である。

 しかしそのような意味での経営者は客観的存在ではない。組織・体系を生きている状態において見る仮構(単なる比喩としてでなく字義通りに受 け入れるべきもの)から導出される経営者という〈概念〉もまた仮構なのである。バ−ナ−ドは組織を最高経営者を中心点とした円または球と考え るのが妥当であるというが(p.112)、中心点は目に見えない。体系の環境適応過程(マネジメント・プロセス)(p.35)を通じてのみ認 識され、かつ組織・体系を生きている実在として感得する人々の実践によってリアルなものとなる仮構としての経営者を空間的に表示することは不 可能である。協働体系においては「無から、人々の目的を形成する精神が生ずるのである」(p.284)とバ−ナ−ドがいうとき、「無」とは空 虚な中心点を意味するものであってはならないのである。

 本稿はバ−ナ−ドの動的(有機的)組織観と経営者機能探究の方法をその可能性において見る。すなわちバ−ナ−ドの仮構を観照者的な認識の具 としてでなく組織づくりの技法として、創造性を懐胎した「生きたメタファ−」としてとらえようとするものである。経営者の役割が芸術家の仕事 にたとえられるならば、芸術家が美を経験するためには美を製作しなければならないように、経営者も組織をリアルなものとして感得するためには 組織をつくらなければならない。そのとき仮構から実践へというメタフォリカルな動きのうちに示される組織感は「語りえないもの」なのである。 しかし仮構が実践と乖離したとき、そこに虚偽意識としての組織感が空疎な虚構として現われるであろう。そのとき自らもまた仮構であった経営者 は空虚な中心点としてその骸を曝すことになる。

 バ−ナ−ドの仮構は両義的である。それは何ものかを隠蔽することによって成り立っている。隠蔽されたのは組織・体系の起源であるが、ここで 起源という観念が実は虚構にすぎないものなのである。先に法的実践としての修辞的活動の集積のうちに示される整合性が実践から仮構へという動 きの中で見られるべきものであると述べた。バ−ナ−ドの仮構のうちに実践への契機を見失わないために必要なのはそのような視点の導入であろ う。だがその前に為されるべき作業がある。それは仮構としての経営者を空虚な中心点から再生させることである。

(1)(2)清水博『生命をとらえなおす』(中公新書,昭和53年),p.134.


【37】仮構とリアルなもの・1(その1)

 建築家クリストファ−・アレクザンダ−は計画された都市(人工都市)と長い年月をかけて自然に出来上がった都市(自然都市)の抽象的構造の 違いを「ツリ−」と「セミラチス」という概念を使って次のように説明する(1)。──ツリ−(人工都市の構造)の法則は「セットが集まってツ リ−を形成するとき、この集まりに属する任意の二つの組合せをとれば、一方が他方に完全に含まれるか、全く無関係かのどちらかである」と定式 化され、セミラチス(自然都市の構造)の法則は「セットが集まってセミラチスを形成するとき、この集まりに属する二つの重なり合うセットをと れば、両方に共通なエレメントのセットもこの集まりに属している」と定式化される(セットの重なり合いが認められるかどうかが両者の相違点で ある)。多くの人が人工都市には何か本質的なものが欠けていると感じるのは、自然都市とのこのような構造上の差異に因る。

 ここで都市を組織あるいはシステム一般に置き換えて考察することが可能だ。アレクザンダ−自身が「市長室にかけられた組織図はツリ−であっ ても、実際の施政機構はセミラチス構造である」(2)と指摘している。つまり実際の組織は決して論理的に秩序付けられたツリ−構造によって運 営されているわけではない。だがこのような指摘そのものは陳腐である。われわれが注目すべきはツリ−がセミラチスの特殊な形態であって両者が 連続しているということだ。都市・組織は「自然」に生成するわけではなく「人工」的に制作されるのであって、そこから抽出される構造は図式化 することが可能なのである。ドゥル−ズ/ガタリは非中心的・非方向的多数多様体を「根茎 rhizome」と表現するが(3)、セミラチスと違ってこれを空間的に(無時間的に)表象することはできない(4)。

 バ−ナ−ドの「公式組織 formal organization」をセミラチスの法則(ツリ−構造を含む)に従う論理的組織過程に、「非公式組織 informal organization」をリゾ−ム状の非論理的組織過程になぞらえよう。そして「組織設計 organization design」(p.186)をこれら異質な過程を連結する営為であるとしよう。このように解するならば、経営者は公式組織を非公式組織に「脱構築」 (5)し同時に後者を前者の格子目のうちに捕捉する媒介者として定位されるであろう。しかしその位置を見定める前に二つの組織の重なりのうち に創発するものすなわち組織の「自己」について検討しておこう。

(1)(2)C・アレクザンダ−「都市はツリ−ではない」『テクストとしての都市』昭和59年別冊国文学第22号,pp.25-46.
(3) G.ドゥル−ズ/F.ガタリ『リゾ−ム』豊崎光一訳(エピステ−メ−臨時増刊,昭和52年)参照
(4) 柄谷行人『隠喩としての建築』(講談社,昭和58年),p.36は同様の見解を示している。なおR.ゼネット『無秩序の活用』今田高俊訳(中央公論社,昭 和50年)が提唱する「アナ−キ−な都市」はリゾ−ム状構造をもつものであろう。
(5) ジャック・デリダ『ポジション』高橋充昭訳(青土社,昭和56年)参照


【38】仮構とリアルなもの・1(その2)

 セルズニックはバ−ナ−ドの公式組織(意識的に整合された活動の体系)を「人間エネルギ−を動員し、これを定まった目標に向けていくための 技術的器械」(1)であるとし、「組織は価値を導入されたとき、すなわち、たんに道具としてばかりでなく、直接的な個人的欲求充足の源泉とし て、また集団の一貫性を象徴する媒体として重要視されるようになるとき制度となる」(2)という。ここで「価値」とは「特定の組織の中でそれ 自体、目的とみなされているもの」(3)をいい、そのような価値の持続性が「一貫性 integrity」である(4)。制度の一貫性を防衛すること、「価値と独自性とを維持すること」は最も重要なリ−ダ−シップ機能のひとつである (5)。また制度の研究に当たって有効な診断を下すためには、「組織性格」を「内的衝動および外的要求に対処してなされる自己保存的努力の所 産とみなければならない」が、ここでいう自己保存は「独自性 identity 」すなわち「制度の「自己」がもっている一貫性」に関するものなのである(6)。

 セルズニックのいう自己保存は生体における免疫に相当する。小林登によれば「免疫系とは自己と非自己を鑑別し、非自己に対しては抗体あるい は免疫細胞をもって特異的に反応して自らのインテグリティを保つ、生存にとって必須の役割を果たす生体システムである」(7)。ここで決定的 に重要なのは、「自己」を実体的先験的に措定するのではなく事後的に「インテグリティ」の保持を通じて出現するものと考えなければならないと いうことだ(この点はセルズニックの「制度」が歴史のうちに生成する結晶と規定されていることの意味に関連する(8))。この視点を徹底する とき、ヴァレラ/バズのように免疫系を「カスケ−ド的性格」を持ち「刻々、自己同一性を〈自己−決定〉してゆく細胞間相互作用のネットワ− ク」(9)とみなすことが可能となるだろう。

「しかし、いったい、生体は「自己」を知らずにどうして外的物質(異物)を検出出来るのだろうか。もし、生体が鑑別のための参照基準として自 己の構造を使わなければ、生体にとって、他のいかなる参照基準が存在するというのであろうか。ある一つのリンパ系の整合的な組織体が存在し、 その中では、自己成分が、常に互いに相互作用を行ないつつ免疫学的自己を定めるのみならず、同過程そのものの中において、免疫学的には意味関 連性を持つものと生体が感知しうるような刺激のスペクトラムをも同時に決定する、と前提する方が、生体は自己と非自己の鑑別を「学習」しなけ ればならないと提唱するより、ずっと簡単であり、かつ事の本質に迫っている。[ … ]リンパ系の構成要素間の相互作用のレパ−トリ−の中に特定されていないものは、リンパ系の活動の領域には入ってこないし、系にとっては、単に〈無−意 味〉であるにすぎない。したがって、リンパ系の作動における中心的な区別は「自己」と「非自己」ではなく、むしろ、何が免疫学的自己と相互作 用しうるか、何がし得ないか、すなわち、自己と「無意味」あるいは免疫学的「雑音」との間の区別である。」(10)

 バ−ナ−ドの読解において組織・体系を生体ととらえるべきであること、アナロジ−としてではなくむしろ生体概念の拡張としてそのように受け 止めるべきであることは既に述べた。セルズニックのいう組織から制度を創発させること(すなわち「道徳的創造性 moral creativenes 」の発揮)と制度の自己の一貫性を維持することが経営者責任の本質であるとバ−ナ−ドは主張する。このような経営者の職能は上述した免疫学的自己決定過程 においてどのように位置付けられるのだろうか。ここで「自己」と「決定」の関係をどのように理解するかが問題となる。

(1) P.セルズニック『組織とリ−ダ−シップ』北野利信訳(ダイヤモンド社,昭和50年),p.9 . (2) p.56. (3) p.89. (4) p.166.(5) p.85. (6) pp.196-7.
(7) 小林登「発育とその選択的プロセス」『ヒュ−マンサイエンス』第三巻(中山書房,昭和年),p.179.
(8) 「組織はそれが自然発生的な社会共同体である程度に応じて、一つの歴史をもつ。そしてここにいう歴史とは、内外の圧力に対する識別可能な反復的反応様式を 集合的にさしている。これらの反応が一定の型に結晶するとき、一つの社会構造が出現する。その社会構造が完全に発達するにつれて、組織はたん なる道具でなくなり、集団の一貫性とその志望を表現する一つの制度として、それ自体価値をもつようになる。」(セルズニック前掲 書,p.24)
(9)(10) F.J.ヴァレラ/N.M.バズ「自己と無意味」小泉俊三訳『現代思想』1984 vol.12-14,pp.166-88.


【39】仮構とリアルなもの・1(その3)

 自己が決定するのでも自己を決定するのでもない。自己を先験的に措定することも事後的に規定することもできない。いずれにせよ自己を実体的 にとらえ形式的論理的に説明しようとする観照者的視点からは、自己が自己に言及するときに生じる決定不能性のパラドックスが導かれる(1) 。それは自己組織系が持つ謎めいたル−プ(自らを描きながらその描きつつある手によって逆に描かれているエッシャ−の『描いている手と手』に 具象化された、あの鑑賞者にめまいを覚えさせるパラドキシカルなル−プ)(2) 、あるいは「自治」の政治技法であるデモクラシ−が統治者と被統治者の一致・平等と政治的統合の達成(一般意思の形成)という論理的に両立しない理念を同 時に実現しようとするものであることと同型である。

 だがこのようなパラドックスは神秘的なものではない(後述するように、神秘的なのは自己の存在ではなく、〈他者〉との意思疎通が無根拠に成 立するという事実である)。それは体系内部の過程を「情報」という仮象によって説明し、体系自体をもその内部において流通する情報として扱う 独我論者(すなわちある体系を外部から事実として眺める観照者)の視点が見させる疑似問題にすぎない。パラドックスは説明され解決されるべき ではなく、ただ経験されるべきものである。そして経験こそが仮構をリアルなものに変換する契機なのである。ホフスタッタ−がいうように「自己 言及」と「自己増殖」との間にはアナロジ−が成り立つのである(3) 。

 自己を決定する「主体」とは何か──このような問いに答えてはならない。仮にこのアポリアの解が得られたとしても、それは自己組織系すなわ ち自律系(4) に対して外在的にかかわろうとする観照者・操作者の意識の反照規定にすぎまい。それは組織設計者としての経営者が組織に内在しポジティブに(組織の)自己 を工作し修繕するのに対して、組織の外部からネガティブに(組織の)自己を規律し保守する「管理者」でしかない。それは既述の意味での免疫機 関ではなく、非自己を産出し排除する隠微な権力装置つまり「純潔性 integrity」を強制する検閲者に他ならない。アントナン・アルト−は「事物の気まぐれと多様性とを認めぬ全体の統一」である一神教を指してアナ− キ−と呼ぶが(5) 、検閲者は組織を構成するル−ルとル−ルによって統治される組織過程とを同次元の「情報」として処理し純潔性という虚構を組織に刻印するアナ−キストなの である。彼には組織の自己を感知することはできない。「事物の集まりが全体としてもつ意味を我々が理解するためには、それらをながめるのでは なく、その中に潜入[dwell in ] しなければならない」のである(6) 。

(1) 自己言及性のパラドックスは、カント−ルの集合論のパラドックスを分析したバ−トランド・ラッセルによって定式化されている。(竹内外史『集合とは何か』 (講談社)等参照)
(2) 「生命が自己を規定し、自律性を獲得するのは、分子の領域におけるこのような過程[エッシャ−によって描かれた過程]を通じてである。自己と非自己を隔て る境界を画定することによって、細胞は分子の海に浮上する。だが境界の画定は分子反応を通じて行なわれる。そしてこの分子反応は境界そのもの によって可能なのだ。つまり化学的変換と物理的境界との相互規定において、細胞は均質な背景から出現する。」(F.J.ヴァレラ「創造の環」 浅田彰・斎藤嘉文訳『現代思想』1984 vol.12-14,p.156)
(3) ダグラス・R・ホフスタッタ−『ゲ−デル,エッシャ−,バッハ』野崎昭弘・はやしはじめ・柳瀬尚紀訳(白揚社,昭和60年),p.526.
(4) 「“自律性を科学的に基礎づける理論”これが自己組織化の理論の役割である。」(ポ−ル・デュムシェル/ジャン=ピエ−ル・デュピュイ「自己組織化」丹生 谷貴志訳『現代思想』1984 vol.12-14,p.91 )
(5) アントナン・アルト−『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナ−キスト』多田智満子訳(白水社,昭和 年),p.66.
(6) マイケル・ポラニ−『暗黙知の次元』,p.35.


【40】仮構とリアルなもの・1(その4)

 いかなる状況においても純粋に自己たろうとするとき、組織は自己免疫疾患すなわち「死に至る病」にとりつかれる。それは自律倫理という「命 令者と被命令者とが同一であるという奇妙な倫理」が「倫理の自殺」でしかないこと(1) と軌を一にする。合理主義的懐疑論と個人の無際限の自律的自己決定能力への確信とに由来するリベラリズムがデモクラシ−と結びつくとき、自律倫理は近代社 会の編制原理となる。そして個人の絶対的自律性を主張する反ファシズム的言説が、自己懐疑ゆえのニヒリズムに陥り結果的に敵対すべき陣営と通 底することとなり、あるいは端的に有機的国家観に連動するモラリズムを帰結しファシズムの素地を用意する(またはニヒリズムに裏打ちされた機 械的管理国家という反ユ−トピアを夢想する)に至るというアイロニカルな事態をもたらすのである。前田敬作が指摘するように「近代のモラリズ ムとニヒリズムは盾の両面にほかならない」(2) のである。このような弁証法的過程はケネス・バ−クのいう純粋・本質のパラドックス(「純粋なる個性」が「無個性」と同義であり、物に内在する何かを示す 語である「本質 substance 」の語源が外部に存在するものを指示しているという逆説)(3) に導かれるものといえるだろう。

 極端な懐疑主義と道徳的完全主義の結合あるいは「無制限な自己決定を主張することによる自己破壊」からまぬがれるための人間協働のモデルと して、マイケル・ポラニ−はある原理によって結合された「探究者たちの社会 a society of exolorers 」を示す(4) 。

「私はその原理を、相互的制御の原理(The Principle of Mutual Control )とよびたい。それはいまの場合、科学者がたがいにたえず監視しあうとという単純な事実よりなる。各々の科学者は、他のすべての科学者からの批判にさらさ れ、かつ、彼らから受ける賞賛により鼓舞される。これが科学界での見解が形成される仕方であり、それは科学界での諸基準を設定し、職業上の機 会の配分を調整する。たがいに直接に権威を行使しあえるのは、近い関係にある領域で研究する科学者同志だけであることは、明らかである。しか し科学者は、電場や磁場のような一種の人間的な場を形成しており、隣人関係が、鎖状に結びつけられている。それは科学の全範囲にまでおよぶで あろう。」(5)

 バ−ナ−ドの「observational feeling 」による意思疎通が成り立つのはこのような社会においてであろう。だがバ−ナ−ド自身が言うようにそれは「神秘的」なものを含んでいるわけではない (p.90)。探究者の社会という場を形成するル−ルを(それを「パラダイム」と呼ぶかどうかはともかく)共同主観性によって説明することは 誤りだ。探究者は「科学がかかわりをもつところのあるかくれた実在」という仮構を「信じることによってのみ、問題を考えることができ、また、 探究を行うことができる」(6) のであり、探究者たちの社会では人間もまた「思考の中にある」(7) 仮構に他ならないからである。

 ここでいう仮構が実践へという動きの中で感得されるべきものであること、実践への契機を喪失するとそれは(神秘的ではあるが空疎な)虚構に すぎないものであることは既に述べた。バ−ナ−ドの仮構──生きている実在としての組織──について言えば、実践とはそのような組織をつくる ことである。生きた組織は、科学的推測が探究者の「発見をもとめる想像から生まれる」ように(8) 、仮構をリアルなものと感得する経営者の〈盲目的〉実践によって「発見」されるのである。バ−ナ−ドの仮構は自らの起源についての問い(たとえば共同主観 性の生成過程の解明)を欠いているが、このような疑似問題を回避する点にこそ彼の仮構の生命があるのである(9) 。

 経営者は組織感すなわち全体感を失ってはならないが、それは組織を全体として「管理」する検閲者の立場を含意するわけではない。経営者の責 任はマイケル・ポラニ−がいう探究者のそれに相当するであろう。

「もっとも革命的な精神の持主でさえ、彼の天職が文学や芸術であるか、道徳的、社会的改革であるかにかかわりなく、自分の天職としては小さな 領域に限定された責任を選ぶべきである。彼は、その小さな領域を改革するためには、その前提として、その領域の周囲にある世界に依拠するので ある。思想の全体や社会の全体をかえようとする完全主義は、破壊のプログラムであり、それはせいぜい、虚飾の世界に帰するのみである。」 (10)

(1)(2)前田敬作「表現主義の問題性」『ユリイカ』1984.vol.16-6,p.108.
(3) ケネス・バ−ク『動機の文法』森常治訳(晶文社,昭和57年),pp.47-63.
(4) マイケル・ポラニ−『暗黙知の次元』,p.122.(5) p.108.(6) p.111.(7) p.122.
(8) p.116.(10)p.124.
(9) ここで起源への問いとは、ある実在がいかなる機序により(自然に)生成するのかという問題のことをいう。たとえば「形のない集合体」(p.115) である非公式な「association 」がいかにして生成するかをバ−ナ−ドが解明しようと試みているにしても、それは観照者的視座からではなくあくまでいかにつくるかという実践者の立場から そうしているものと見るべきである。生成の問題を制作の問題へと繰り込むことがバ−ナ−ドの〈方法〉だ。


【41】仮構とリアルなもの・1(その5)

 バ−ナ−ドが仮構する組織・体系を統治するフィ−ドバック過程は、「逸脱解消的 deviation counter acting」相互因果関係によって「形態維持」を図るネガティブなものではなく、ポジティブな「形態生成」すなわち「逸脱増殖的 deviation amplifying 」相互因果関係の過程である(1) 。それは自己散逸的(self-dissipative) なオ−ト・ポイエティック・システムである。バ−ナ−ドが自由意思と決定論あるいは社会全体と個人の逆説的な結合(communion )を構想するとき(pp.295-6)、そこにおいて真に創造的なのは経営者ではなく協働そのものなのである。

「目的のある協働は構造的性格のある限度内においてのみ可能であり、それは協働に貢献するすべての人々より得られる諸力から生ずるのである。 協働の成果はリ−ダ−シップの成果ではなくて、全体としての組織の成果である。しかし信念を作り出すことがなければ、すなわち、人間努力の生 きた体系がエネルギ−および満足をたえず相互に交換しつづけうる触媒がなければ、これらの構造は存続することができない、否一般に成立すらし ない。生命力が欠乏し、協働が永続できないのである。リ−ダ−シップではなくて協働こそが創造的過程である。リ−ダ−シップは協働諸力に不可 欠な起爆剤である。」(p.259)

 このような記述に接するとき、果たして経営者とは一体誰なのかという疑問が生じるであろう。実はバ−ナ−ドにとって経営者とは組織によって 産出される仮構に他ならない。経営者は組織を制作することを通じて、自身が組織という仮構によって制作されるのである。「エイハブ船長は白鯨 を追いつづけている間、白鯨に追われた」(2) ──ケネス・バ−クの洞察は経営者という仮構の本質を衝いている。経営者の職能は経営者をつくることだという逆説がバ−ナ−ドの所説から帰結される。

 「相互的制御の原理」が働く組織の〈自己−決定〉過程においては、経営者の職能も信念の制作という「小さな領域」に限定される。しかも彼が 組織に注入しようとする信念(時として「目的」と呼称されるル−ルあるいは組織の「自己」)が受容されるかどうかは事前には分からない。科学 においては「ある言明の妥当性を主張することは、たんに、それがすべての人によって受けいれられなければならない、と宣言することである」 (3) 。これと同じように経営者の職能は説得という修辞的実践性を本質とする。しかも彼が職能を全うしたとしてもそれは〈盲目的〉にそうしたにすぎず、いかなる 事後的説明をもってしてもその過程を合理的に再現することはできないのである。経営者は、組織という仮構をリアルに内感しつつ組織過程に「潜 入」する〈他者〉である。

 このような論点は、先に述べた「実践から仮構へ」の動きのうちにとらえられる法的実践という視点に関係する。そしてバ−ナ−ドの仮構を補完 するのがかかる視点であることは既に指摘した通りである。だが修辞的実践としての経営者機能を検討する前に、空虚な中心点から救出した経営者 を組織・体系のうちに然るべく位置付けておかなければならない。

(1) マゴロウ・マルヤマ「セカンド・サイバネティクス」佐藤敬三訳『現代思想』1984.vol.12-14,pp.198-214. なお「サイバネティクス cybernetics」という語はギリシャ語の「舵手」を意味する「キュベルネテス kubernetes 」(「governor 統治者・調速器」の語源)から作られている(ノ−バ−ト・ウィ−ナ−『人間機械論』鎮目恭夫・池原止戈夫訳(みすず書房,昭和54年),p.8.)。
(2) ケネス・バ−ク『動機の文法』,p.421.
(3) マイケル・ポラニ−『暗黙知の次元』,p.116.


【42】仮構とリアルなもの・2(その1)

 経営者は組織の「外部」と「内部」を決定する境界線上にいる。その位置は経営者が「主体」的に選びとったものではなく、リ−ダ−シップを必 要とする組織過程が彼に課す位置である。境界はイマジナリ−な存在であって、協働現象をとりまく多義多様な混沌に裂目を入れ外部・内部の断層 上に差異を産出し、差異の形式のうちに「情報」という仮象を流通させる。(差異の形式である情報が実体化され固有の意味を持つものと観念され たとき、保守されるべき「自己」という無限の否定のうちに浮上する虚構が組織の内部を支配するであろう)。経営者は組織についてメタ・レベル でかかわる境界線上の伝導師である。彼は価値と事実が織り成す組織の方程式の虚数解なのである(1) 。また経営者は組織の論理的過程と非論理的過程とを媒介し、マクロな秩序とミクロな活動を連結する触媒でもあった。触媒は、あたかもカルダノの公式(三次 方程式の代数的解法)において実数根を求める計算途上で出現し最終的には消去される虚数のごとき存在である(2) 。

 このような仮構的存在である経営者の職能は組織を支配することではない。バ−ナ−ドが例えるように、それは「頭脳を含めた神経系統の、身体 の他の部分に対する機能のようなもの」であって、身体を支配するのではなく「むしろ反対に、神経系統が身体に依存しているのである」 (p.217) 。メタ・レベルに位置する経営者と下位の組織との関係は、マイケル・ポラニ−のいう「活用(制御) harness」(3) によって理解されよう。

「機械は全体として二つの異なる原理による制御のもとで働いていることがわかる。高次の原理は機械を設計する原理であり、これは低次の原理、 つまり機械を成り立たせている物理的かつ化学的プロセスのうちに存在する原理を活用している。普通、実験を行なうときにもこうした二層構造を 作り上げるのだが、機械の組み立てと実験装置の準備とのあいだには相違がある。実験者の場合は自然に制限を加えて、その制限のもとでの自然の 運動を観察しようとする。他方、機械の組み立てでは自然に制限を加えて、その働きを活用するのである。ともかく、ここでは物理学からの用語を 借用して、こうした自然に対する二つの有用な制限をさして、物理学と化学の法則に境界条件を与えると言っていいだろう。」(4)

 有機体も機械と同じで「二つの異なる原理にしたがって働くシステム」(5) である。

「だからこのシステムを二重の制御に服するシステムと呼んでもいい。さらに、形態発生、すなわち生物の構造が発生するプロセスを、非生命的な 自然の法則に対して境界として作用する機械の製作になぞらえることができる。なぜならば非生命的な無生物界の法則は、機械のために役立つのと 同じように、発生した有機体にも役立つからである。」(6)

 ポラニ−の見解は機械(人工的制作物)対有機体(自然生成物)という不毛な二項対立から脱する視点を与えてくれる。組織を生命体と見るバ− ナ−ドの仮構を単なる比喩としてでなく組織づくりの技法を切り拓く端緒としてとらえるためには、このような視点を踏まえた上で改めて組織を 「機械」と見る、態度の変更が必要である。そのとき「経営者」とは組織に制限を加える観察者ではなく、境界条件を設定し組織の過程に充満する 諸力を「活用」する設計原理の擬人法的表現であることが明瞭になるだろう。

 (1) 長岡克行「二重拘束と三値論理」『現代思想』1984 vol.12-6,pp.217-8. によれば、スペンサ−‐ブラウンは「この陳述は虚偽である」という陳述がもつ自己言及のパラドックスと同様のパラドックスが方程式理論に含まれていること を次の例で示し、併せてその解決法を提案している。
 方程式Xexp[2] + 1=0 を考えると、Xexo[2] =−1からX=−1 /Xが得られる。ここでX=1 とすると上式からX=−1となり、これはパラドキシカルである(X=−1としても同様)。この場合のパラドックスは「虚数」の導入によって解決される。す なわち方程式Xexp[2] + 1=0 の解はX=±iである。
 このように自己言及のパラドックスは命題を真(正数)・偽(負数)・無意味(0)のいずれかの範疇に分類するだけでなく、イマジナリ−な命 題を導入することで解決される。
(2) 遠山啓『数学入門(上)』(岩波新書,昭和34年),pp.213-6.
(3) マイケル・ポラニ−「生命の非還元的な構造」土屋恵一郎訳『現代思想』1986 vol.14-3,p.57,.訳注(1).「ここで「活用」と記したのは、これまで「制御」とされることの多かった harnessの訳語である。この含意は、相手(ことに下位原理)に枠づけを与え制御しながら利用するということで、制御の代わりに活用や利用であっても よい。このどれを用いても、枠づけ、コントロ−ル、利用、活性化などの原語がもつニュアンスが伝えきれない。」
(4) 同上 pp.46-7. (5)(6) p.48.


【43】仮構とリアルなもの・2(その2)

 バ−ナ−ドは(一般に社会と総称される非公式組織の上あるいはその中にある)公式組織のネットワ−クを検討し、そこに支配的な組織と従属的 な組織という区分の成り立つことを指摘した後で次のように言っている。

「ここで、「上位的」[superior]ならびに「下位的」[subordinate] という語は慣用的用法によるものである。すなわち、「上位的」とは「いっそう包括的」ということであり、「下位的」とは「より低い順序あるいはより局限さ れた順位」という意味である。現在用いている用語は、構造的見地、すなわち、組織された社会の全複合体の諸部分を静止的に表現し、一般性の順 序に従って分類する見地からは妥当である。動態的見地、あるいは有機的見地からすれば、「上位」組織は、「下位」組織に依存し、下位組織に よって規制されるのであり、より厳密にいえば、両者は相互依存的な状態にあるのである。」(p.96)

 ここで述べられているのは公式組織のネットワ−クが(それを生きている体系と見る見地から言えば)ポラニ−のいう「二重の制御に服するシス テム」であるということだが、この指摘は単一の複合公式組織そのものにも妥当する。すなわち非公式組織というリゾ−ム状の錯綜体の上あるいは その中に(複合)公式組織という仮構が成立し、これを「構造的見地」から見ればツリ−であるが、「動態的・有機的見地」から見ればセミラチス (相互に重なりあう下位セットからなる構造)である。そして非公式組織を含めた協働体系が成功し生きているとき、すなわち「貢献者 contributors 」の協働努力を最適に結合し長期にわたって存続しているとき、組織は経営者を一方の層とする二層構造を成している。

 だがこのような説明は倒錯している。バ−ナ−ドの方法がもつ可能性は、認識がその対象である実在を制作することにつながる点に存するからで ある。バ−ナ−ドは先ず協働現象という混沌をシステムと見ることから始める(ここで「〜と見る」とは決して対象の属性を客観的に特定し観照す ることではなく、それ自体「経験であり行為である」(1) )。そしてその上あるいはその中に可能なかぎり論理的に形式化された公式組織という仮構を樹立しようとする。言い換えれば無定形なシステムから「構造」と いう仮構を抽出する。しかし組織を生きている実在と見るとき、公式組織はツリ−状の厳密な構造からより一般的なセミラチスへと変容する。ここ で想起されるべきことは、ツリ−であれセミラチスであれ組織の論理的な過程は空間的に図示することが可能であり、その限りで組織の自己は実体 化されざるを得ないということである。自己を実体化したとき見えてくるのが「自己言及のパラドックス」という疑似問題であることは既に述べ た。そのとき公式組織という仮構は空疎な虚構でしかあるまい。

 ところで組織の生命ともいうべき「経験」が成り立つのは実はこのようなパラドックス故なのである。しかもパラドックスが論理的意識的に公式 組織という仮構を構築する過程において導出されたことは極めて重要である。ここで経験とは組織の自己をめぐるものであって、論理的には決定不 能な自己が免疫学的に<自己−決定>される過程を構成するパラドキシカルなル−プに(協働努力の供出者が)引き込まれることをいう。そのよう な経験が成り立つ場こそ非公式組織である。つまりバ−ナ−ドにとって非公式組織とは協働現象に対する論理的考察の結果見い出される帰結なので ある。あるいは組織を社会的創造物・生きものと見る仮構に基づく実践的な投企によって非公式組織は制作されるのである。

(1) 「ウィトゲンシュタイン起源の<…と見る>は経験であり行為である。」(ポ−ル・リク−ル『生きた隠喩』久米博訳(岩波書店,昭和59年),p.272 )


【44】仮構とリアルなもの・2(その3)

 生きた組織には二本の軸がある。その一つは公式組織の構築につながる論理的構造を表示する「共時」軸、もう一つは非公式組織の発見ないし制 作につながる非論理的有機的な過程が展開する「通時」軸である(1) 。通時軸上の出来事が共時軸上に表象され思惟による反省と再構成の対象となる。そして共時軸上の形式的構造が通時軸へ投げかえされるとき出来事は固有の意 味を内包する。しかしこのような説明もまた倒錯している。組織を実在として認識し、かかる認識活動を通じて組織を実在させる(「仮構から実践 へ」と至る)過程では、後に否定ないし弁証法的に総合されるためにであれ仮構が先ず定立されるのは共時軸上においてである。そして通時軸は共 時軸の論理的な構築の徹底の結果認識されあるいは制作され、逆に共時軸上の仮構(それはまだ組織を実在と見ていない)をリアルなものとする力 を生産供給するようになるのである(2)。

 生きた組織はこのような相補的な二軸の断層上に浮き上がる。バ−ナ−ドが「全体社会は公式組織によって構造化され、公式組織は非公式組織に よって活気づけられ、条件づけられるのである」(p.120) というとき、今述べた二軸すなわち形式としての公式組織と内容としての非公式組織は、いずれかが他方に先行する主従関係をとり結ぶのではない。両者は弁証 法的な相互関係を通じて組織という実在を創発し、リアルなものとなった仮構のうちに自己を表現するのである。

 この二軸が持つ特質を表す言葉を対比させ列記すると次の通りである。Aの項には一般的抽象的なもの、Bの項には特に人間集団に関するものを 掲げた。
 《共時軸》
A 顕在性・空間性・連続性(遺伝,発生)・一貫性・必然性・決定論(ト−トロジ−)
B 等質性・内包性・情緒(感性)共同体・統合原理としての儀礼・共同幻想(3)
 《通時軸》
A 潜在性・時間性・非連続性(進化,創発)・適応・偶然性・自由意思(推論)
B 差異性・排除性・利益(規範)共同体・
  分類原理としての<権力>あるいは<イデオロギ−>・対幻想(4)

 ここで注意を要するのはB項である。そこに掲げた特質はいずれも他方の軸との対立・緊張の上に成り立ち得るものなのであって、例えば共時軸 上の論理的あるいは形式的な構造を徹底して追求することそれ自体では人間集団に「等質性」をもたらすことはあり得ない。

 再言すればバ−ナ−ドの組織づくりの技法は、共時軸上に(ピラミッドであれ円・球であれ)空間的に表示された「形相」としての組織・体系を 構築することを通じてその残差である「質量」が流動する通時軸を摘出(制作)し、二軸の相互牽制の過程のうちに実在としての組織を稼働させる ことである。そのとき形相すなわち仮構としての組織はイマジナリ−な境界によって区分された内部(そこにおいて組織の自己が刻々と産出され る)をもつリアルなものとなるのである。そして二軸を媒介する経営者が組織を象徴し同時に組織によって造形される仮構として境界線上に浮上す るであろう。あるいはリアルな仮構となった組織においては固有の「時間」が内部に流れているのだと言えるかも知れない。時間の流れの中で過去 はそのつど再構成され定義され(組織の「記憶」)、組織に「経験の能力 the capacity of experience 」(p.38)を付与する。流体としての組織に「独自性 identity」(すなわちセルズニックのいう「制度」の自己がもつ一貫性)を与える時間はそ れ自体組織化され「歴史」と称されるであろう。

(1) ソシュ−ルは言語を観察する二つの視点として「共時態 synchronie 」と「通時態 diachronie 」、あるいはこれに対応するものとして「同時性の軸 axe de simultaneite」と「継起性の軸 axe de successivite」を提唱している。「価値を扱う科学にとっては、この識別は実践的必然」である。ソシュ−ル『一般言語学講義』小林英夫訳参照。
(2) ここに働くのが純粋・本質のパラドックスである。つまり何事かを純粋に追求しあるいは本質を究めようとする営為が逆に何事かとは全く逆のあるいはその外部 に存する別のものをもたらす(A⇒非A:Aは非Aを組織化する)アイロニカルな過程がここに働いている。「政策に従っている行為ないし一連の 行為の結果が、結局において、達成しようとしていた、あるいは回避しようとしていた結果と反対のものを生む原因となることが非常に多いだろ う」(p.318) というバ−ナ−ドの指摘は、人間の実践に不可避的につきまとうこのようなパラドックスに触れたものである。
(3)(4)「共同幻想というのは[ … ]人間が個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している。」(吉本隆明『共同幻想論』(河出書房新社,昭 和43年),p.7) 国家・神話・法・習俗などがその例である。なお吉本によれば「個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした」観念世界は「自己幻想」と呼称さ れる(同)。また「対幻想」とは家族を構成する一対の男女の性的な結合を典型とする<他者>との関係から導かれるものと想定されている(同上 書「対幻想論」の章参照)。「人間の<対>幻想に固有な時間性が自覚されるようになったとき、すくなくともかれらは<世代>という概念を手に 入れた。親と子の相姦がタブ−化されたのはそれからである。」(同上書,p.187)


【45】仮構とリアルなもの・2(その4)

 組織づくりとは精密機械を制作することである。それは外在的な時間を測量する時計ではなく、内部に固有の時間が流れる(というより時間を生 産する)機械である。そして木村敏がいうように、時間は「自己」の存在と切り離せない現象である(1) 。

「時間は単純にわれわれに対して外部から与えられているようなものではない。それは、私自身がそこに立ち会っているいまが以前と以後の両方向 に拡がっているということであり、私自身がいまここにあるという現実から切り離すことのできない、こと的なありかたをもった現象である。」 (2)

 木村はハイデッガ−の『現象学の根本的問題』に準拠して次のように述べる。

「われわれが「いま」と言うとき、それはつねに「いまはもう…でない」および「いまはまだ…でない」の両方向に向って開かれている。このこと は、時間において数えられる運動や変化が「…から…へ」という拡がりの性格をもっていることと同じことである。「…から…へ」の移行を成立さ せる場所としてのいまは、それ自体のうちに移行的性格を含んでいる。いまそれ自身が拡がりの性格をもっている。[ …] このようないまは[時間そのものであり] 、なにかあるものではない。それはむしろ、そのつどの私自身のことである。」(3)

 これらは言うまでもなく人間の自己意識と時間の関係についての議論であるが、実在としての組織あるいは資本主義的経済体系その他システム一般についても 論理的同型性をもって妥当するものと言えるであろう。例えば柄谷行人はマルクスのいう相対的剰余価値が労働生産性の増大によって生じることを 指摘した後でこう言っている。

「労働の生産性の上昇は、分業や協業の強化によろうと、機械の改良によろうと、労動力の価値を潜在的にさげる。これはつぎのようにいいかえて もよい。資本家は、すでにより安くつくられているにもかかわらず、生産物を既存の価値体系のなかにおくりこむ。つまり、潜在的には労動力の価 値も、生産物の価値も相対的に下げられているのだが、このことはただちには顕在化しないのである。だから、現存する体系とポテンシャルな体系 が、ここに存在する。したがって、われわれは産業資本もまた、二つの相異なるシステムの中間から剰余価値を得ることを見出すのである。  われわれは、商人資本がいわば空間的な二つの価値体系の──しかもそこに属する人間にとっては不可視な──差額によって生じることを明らか にしたが、産業資本はその意味で、労働の生産性をあげることで、時間的に相異なる価値体系をつくり出すことにもとづいているといってもよ い。」(4)

 自らが制作した「時間的に相異なる価値体系」を連結する場所、言い換えれば「…から…へ」の移行を成立させる場所に、あのバ−ナ−ドの仮構 がリアルなものとなる契機すなわち部分の総和を超える全体(剰余価値)が産出される。それは生きている状態にある組織または体系一般が有する 「独自性 identity 」であり、端的に「自己」であると言ってよい(5) 。それはそこに内在する者によって日常的には「目的 purpose」として意識されるが、象徴・指標・イコンといった記号をぬきにしてその内容を明確に語り尽くすことはできない。また外部から組織・体系に かかわる者にとっては(実はその瞬間に彼もまたそこに内在していることになるのだが)、組織・体系の「自己」はその中で展開される過程を通じ て示されるル−ルである。しかしル−ルを外部から(合理的に)理解することは不可能だ。なぜならル−ルは組織・体系に内在する者にとってすら 「語り得ない」ものなのだから。測量師Kにとって<城>がそうであったように、組織・体系は可視であるとともに不可視である。

(1)(2)木村敏『時間と自己』(中公新書,昭和57年),p.64. 木村によれば「もの」とは「見るというはたらきの対象」をいう(同 書,p.5)。「われわれは眼でものを見る。木から落ちるリンゴやその落下は、眼で見られるものである。しかしわれわれは「落ちる」というこ とを眼で見ることはできない。[ …] 眼には見えないけれども、われわれはそれを確実に経験している。それは客観的な知覚対象とはならないけれども、われわれはそれを的確に経験する一種の感性 をもっている。この感性は、いっさいの言語の比喩的用法を可能にする基本的な感性であって、古来「共通感覚」の名で呼ばれてきたものであ る。」(同書,p.11 )「ことはものとの共生関係においてのみ現実の世界に存在することができる。ものとこととのあいだに厳密な様態の差異を見定めるということは、ものとこと とを事実的に区別してしまうということとは全然違う。」(同書,p.41 )
 なお「もの」と「こと」の区別は、本稿でいう二軸と次の点で符合する。すなわち一方は理論の構築に(theoryの語源であるギリシャ語 θεωριαは「見ること」を意味する)、他方は経験の持続につながる方向性をそれぞれ示す二項の関係を問題としていること、そして両者が 「共生関係」にあることがリアルなものの本質であること、さらにこの対構造が具体・抽象のあらゆる段階における事象のうちに入れ子式に組み入 れられていることの三点である。
(3) 木村同上書,pp.51-2.
(4) 柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(講談社,昭和53年),p.65.
(5) 「自己の自己性は二つの互いに異なった私のあいだの同一としてのみ成立しうるのである。自己の自己性は、いわば差異の同一、同一の差異としてしか現われて こない。」(木村前掲書,p.77)


【46】仮構とリアルなもの・2(その5)

 時間と自己とのこのような緊密な関係から、自己という存在をめぐる危機は必ず時間に関する特徴的な異常を伴うこととなる。木村敏は代表的な 精神病である分裂病について次のように述べている。

「分裂病の患者は、つねに未来を先取りし、現在よりも一歩先を読もうとしている。彼らは現実の所与の世界によりも、より多く兆候の世界に生き ているといってよい。[ …] 分裂病のこの未来先取的なありかたを、私自身は従来から「アンテ・フェストゥム[前夜祭 ]的」と呼んできた。」(1)

「分裂病性の事態においては、現存在はそのつど自己自身へと到来するかわりに、自己の他者性へと到来するのであり、自己を実現するかわりに自 己の他者性を実現しているのだと言ってよい。[ …] この場合、他者性は徹底的に未知性という標識をおびてくる。[ …] 分裂病者のアンテ・フェストゥム意識の中で出現してくる他者性は、それが既知の他者経験にとって絶対的に未知なるものであるという意味で、自己性にとって 徹頭徹尾否定的・破壊的な作用しか及ぼさない。それは非自己であるだけにはとどまらず、反自己性の原理ですらある。」(2)

 また、分裂病とならぶ二大精神病の一つである単極型鬱病に特徴的な時間構造は「ポスト・フェストゥム[祭りのあと]的」(ルカ−チの用語) と形容される(3) 。分裂病者の意識における未来・過去・現在がいずれもアンテ・フェストゥム的未知性に深く侵蝕されているのとは異なり、鬱病者のポスト・フェストゥム意識 においては「未知なる未来」という観念はなく、過去も現在完了としてしか語れないものである(4) 。そして鬱病者の自己にとって他者がいかなるものとして出現するかについては次の通りである。

「[分裂病者は]自分に出会ってくる他者の中に未知なる未来性を見てとっている。というよりはむしろ、彼はそのつどの他者との出会いの場とし てのあいだを、つねに未知性、未来性の相のもとに経験している、という方が正しいだろう。[ …] 鬱病者にとって親和的な対人関係は[ …] 、一回性、未知性の要素をできるかぎり排除した世間的、慣習的な役割関係である。彼は他者のうちに未来的なもの、個性的なものを求めない。彼の自己はこれ まで世間的他者からの期待に副って作り上げられてきた役割同一性の中で自足していて、これからの自己のありかたも、この同一性の延長線上でし か考えない。だから他者についても、自己のこれまでの役割同一性の継続を認知してくれるような人物しか期待しないのである。彼の対人関係は、 他者の中に既知性と既存性を見てとっているかぎりにおいて、その安全が確保されているといってよいだろう。そしてこのような構造は、われわれ がさきに取り出したポスト・フェストゥム意識の構造そのものにほかならない。」(5)

 さらに木村は癲癇・躁鬱病・非定型精神病を第三の狂気(「常時は健康で正常な人でも、なんらかの事情によって意識が解体した場合には、ひと しく経験しうるような普遍的な非理性」)(6) と呼び、その本質的な特徴を「イントラ・フェストゥム」(祭りのさなか)と形容する。「現在への密着ないしは永遠の現在の現前」(7) がイントラ・フェストゥム的意識の時間構造の特徴である。

「イントラ・フェストゥム的な第三の狂気が、アンテ・フェストゥム的狂気とポスト・フェストゥム的狂気に対立するものでないことは、現在とい う時間契機が未来や過去(ないし既存)に対して占める位置を考えてみるだけでも明白だろう。未来や過去と同列に並置されうる、いまひとつの時 間帯としての現在のごときものは、抽象概念として考えられた現在にすぎない。真の現在は、未来と過去を自己自身の中から生み出す源泉点とし て、未来や過去よりも根源的な、独自の存在を保っている。現在とは、いわば垂直の次元、深さの次元である。このようにして、イントラ・フェス トゥム的な事態は、アンテ・フェストゥム的およびポスト・フェストゥム的な両方の事態と、それに垂直な量的規定として関わっている。」(8)

(1) 木村敏『時間と自己』,pp.86-7. (2) pp.91-2.(3) p.108.(4) pp.109-10.(5) pp.121-3. (6) p.158.(7)(8)p.159.


【47】仮構とリアルなもの・2(その6)

 ここで移行的性格を含んだ「いま」が時間そのものであり刻々と決定される「自己」に他ならなかったことを想起するならば、組織の二本の軸と 関係づけて次のように言えるであろう。すなわち組織の自己は共時と通時の両軸の相互作用から両軸の交点に対して垂直方向に創発し、そこから組 織の自律的運動が始まる。だが自己(時間)は本来「…から…へ」というメタフォリカルな性格を有している(1) のであるから、それ自体として意識されることはない。自己とは精密機械としての組織の内部に「時間的に相異なる価値体系」を(つまり差異を)不断に生産し 続ける「装置」なのである。言い換えれば自己は自己を生み続ける過程のうちに感受されるしかない。そうであるとすればイントラ・フェストゥム 的意識による「永遠の現在の現前」としての自己は本来形容矛盾であって、それは二軸上に展開される組織過程から遊離し超越的なものへと向う 「純潔性 integrity」そのものという倒錯的な自己の存在様態である。そこではバ−ナ−ドのいわゆる公式組織の三要素の一つである「共通目的 commmon purpose」は「過去と未来をつなぐ橋梁」(p.209) というメタフォリカルな性質を喪失している。また経営者も組織過程に充満する力の「活用」者ではなく、カリスマ的支配者か狡猾な祭司でしかないであろう。

 アンテ・フェストゥム的意識による「未知性」としての自己は、共時軸上に構造化された自己がたちどころに解体され通時軸上の過程へ非可逆的 に投棄されるときに現われる倒錯態である。ただこの場合の倒錯性は、差異の不断の生産過程に現象するのを本質とする自己の純粋な(しかしアイ ロニカルな)現れであるといえよう。それは組織の空間的な外部である「環境」や時間的な外部である「相異なる価値体系」をでなく閉じられた自 己の内部時空間を細胞分裂さながらに差異化し、そこに不可視の「外部」つまり未知性・他者性を現出させようとする試みが見させるものである。 組織の自己がこのような倒錯性を帯びているとき、「伝達 communication」はその成立の根拠を奪われ、経営者は法であれイデオロギ−であれ何らかの価値体系を外挿しいわゆる「合法的」支配者として 「機械的」な管理・検閲に撤するしかないであろう。またバ−ナ−ドが挙げる組織の存続要件に関連付けて言えば、「有効性 effectiveness」は(組織の目的がそれに対して適切かどうか判定されるべき)(p.83)組織の「外部」がアンテ・フェストゥム的未知性に覆 われていることからそもそも評価の基準が成立せず、「能率性 efficiency 」は(両者の間での相互交換が問題となる)(p.83)「組織と個人」という提喩的二項が相互の連携を欠くことから問題とすらなり得ない。

 ポスト・フェストゥム的時間構造のもと累積され積分化された自己は、通時軸上の経験・出来事が一方的に共時軸へ収斂・捕捉されその錯綜性が 解消されたときに現われる。それは組織の外部に内部構造を投影し時間を引き伸ばされた数直線上に刻印し、差異を不断に同質化する(2) 。組織の自己がこのような病理現象を呈しているとき、その内部過程を構成する諸行為の機能の換喩的接続は(事後的にカテゴリ−化された)「役割」間の論理 的・提喩的なハイアラ−キ−によって総合され(3) 、「貢献意欲 willingness to serve」は儀式的な様式性のうちに封じ込まれるであろう。また「有効性」は外部が逆に組織目的によって定義されることからその評価自体が内部の裁量事 項となり、「能率性」は個人がバ−ナ−ドのいう「組織人格 organization personality 」のうちに「個人人格 individual personality」を溶解させているところではやはり問題とならない。そして経営者は「伝統的」支配制に覊束された無為なる愚王か、あるいは組織に 「危機」を注入しその象徴的・最終的解決者として自らを演出する英邁なる君主に例えられるであろう。

(1) 「隠喩は運動の用語で定義される。語の<転用>は…から…への一種の移動として記述される。」(ポ−ル・リク−ル『生きた隠喩』,p.12 )
(2) ケネス・バ−クは未来を現在に還元する「宗教的未来主義」(「現在汝のうちにあるものを見よ。さすれば汝はおのが未来を見出さん」)と現在を未来に還元す る「世俗的未来主義」(「なにが将来の約束をもたらすかを見よ。さすれば今なにをすべきかを見出さん」)という対概念を提唱しているが(『動 機の文法』,p.348)、ポスト・フェストゥム的な現在と未来の合体は後者の例であろう。
(3) 「自分の歩みを遡るということ、一歩一歩後退する営みは、実は前へ進む営みとまったく同じ性質を備えている[ …] 。それは前提となっている仮定の暴き出し、というよりも、あたらしい結論もしくは原理の発見にも似た建設的積み重ねとして経験されるのだ。つまり、こうし た順序に忠実にしたがって書かれる本は「論理的に優先的なるもの」を目指すわけだが、結果的には、「論理的に優先的なるもの」は「時間的に末 尾にくるもの」と同一であるような形式を具えることになろう。」(ケネス・バ−ク『動機の文法』,p.353)


【48】仮構とリアルなもの・2(その7)

 ドゥル−ズ/ガタリは「資本主義と分裂症」と副題の添えられた著書『アンチ・オイディプス』(1) で、「表現(表象)・構造・劇場・演出者(解釈者)」といった一連の比喩形象に替えて「生産・機械・工場・技師」という用語を使用している。この用語法 は、例えば「欲望 desir 」を本能その他のフィクショナルな概念によって説明するのでなく「唯物論的[質料論的] materialiste 」に分析する視点を導く(2) 。

「精神分析の偉大な発見は、欲望する生産を発見したことである。つまり、無意識の種々の生産の働きを。しかし、オイディプスが入ってくるとと もに、この発見は早くも新たな観念論によって蔽い隠されたのだ。すなわち、工場としての無意識に代わって、古代劇場が、無意識の生産の諸単位 に代わって、表象が、生産する無意識に代わって、もはや(神話や悲劇や夢が…といった形態で)自分を表現することしかできない無意識が登場し てきたのである。」(2)

 ここで「オイディプス」とは「内なる植民地」(3) であり、「精神分析が無意識を去勢し、去勢を無意識の中に注入する操作」が「オイディプス化」と定義されている(4) 。そしてドゥル−ズ/ガタリはオイディプス化に至る精神分析の五つの「誤謬推理 paralogisme 」を論理詞(“かつ”“あるいは”“ならば”“同値である”“でない”)に関連づけて論じている。このことは組織の自己をめぐる病理現象の発生機序を考察 する上で示唆的である。

 組織はリアルな仮構から実践へというメタフォリカルな移動の中に自己を「生産」するのであるが、その過程の主たる構成要素は言説なのであ る。それは、本稿で修辞的実践性を本質とするものと捉えた法的言説が「説得」(他者に何かを伝え何らかの作用を及ぼし、あるいは何らかの行為 へと動機付けること)を目指すものであるのに対して、「説明」(既に確立された準拠枠に言及し、あるいは準拠枠を設定して合理的に何事かを位 置付けること)の範疇に組み入れることが可能であろう。だが単純化を恐れずに言うならば、説得は通時軸から共時軸へという方向性を持った言説 であり説明はその逆の方向性を持った言説である。そして精密機械としての組織を制作する技法が、共時軸上に仮構を構築することを通じて通時軸 を現象させ両者の相互作用の上に実在としての組織を創発させるものであったことを想起するならば、説得・説明という言説の二類型はあいまって 組織内の言説空間を成立させているものと言わなければならない。(このように解してこそ経営者職能の遂行には必ず「司法過程 judicial process 」が伴うというバ−ナ−ドの指摘(p.280) が意味を持ってくるのである。)であるならば、組織における諸言説はいずれも多かれ少なかれ「推論」の形式を取らざるを得ないであろう。そして推論の過程 に誤謬性が見出されるとき、そこにドゥル−ズ/ガタリのいうオイディプス化の契機が示されているわけである。

 バ−ナ−ドの仮構を組織づくりの技法と見るためには、有機体・機械という二項対立をすり抜けなければならない。ドゥル−ズ/ガタリも言うよ うに「真の相異は、機械と生物の間にあるのではい。[ …] そうではなくて、機械の二つの状態[ …] の間にあるのである」(5) 。そして組織を機械と見るにしても、それは「決して隠喩的に機械であるというのではない」(6) 。しかし感得できるが合理的に説明し得ない組織の自己についてメタ・レベルでの言説が組織過程で交通するとき、そこに誤謬性を帯びた推論形式が伴うことは 避けられない。例えばドゥル−ズ/ガタリは、「原始土地機械」においては「字体」と「音声」の相互作用が「強力な強度的な胚種を抑圧するとい う大仕事を遂行している」(7) が、「専制君主機械」では字体は音声に折り重なり「無言の沈黙の音声」である「超越的対象を連鎖の外に飛躍せしめることとなった」(8) という。そしてそこに成立する抽象観念を「原国家 L'Urstaat」(「あらゆる《国家》がそれたらんと願い欲している永遠のモデル」)(9) と呼んでいる。本稿の用語に置き換えれば次のごとくである。共時と通時の二軸は相互作用を通じて組織の自己を移動のうちに現象させる。だが仮構の構築 (「人為的制作」)にかかわる共時軸が仮構をリアルなものにする力の供給(「自然的生成」)にかかわる通時軸に折り重なったとき、そこにあた かも自然物のように「純潔性」の保守を本能としてプログラム化された虚構としての組織の自己が出現する。

 バ−ナ−ドの方法の可能性は、一方で神秘的な精神的結合に至る組織状況を構想しながらも「制作」の現場に経営者機能を限定するところにある (10)。その意味で組織づくりの過程における誤謬推論の結果「原組織」を帰結する(あるいは「原組織」という抽象観念に捕捉される)危険は 宿命的と言ってよいものである。だが「自己言及のパラドックス」が解決されるべき問題ではなくむしろそこから組織の自己をめぐる経験が始まる 端緒であったように、誤謬推論もまた回避されるべき問題ではなくそれこそ組織過程が過程として継続していく端緒なのである。実在としての組織 は刻々と自己を生産する機械であるが、その内部で展開される過程は(広義の)修辞的諸言説の交通と自己組織化なのである。

(1) ジル・ドゥル−ズ/フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』市倉宏祐訳(河出書房新者,昭和61年).ミシェル・フ−コ−は本書英訳版序文で次のよ うに述べている。「私は、『アンチ・オイディプス』を、倫理の書と呼びたい。[ …] 人はいかにしてファシストにならずにすませるか、それも(とりわけ)自分自身を革命の闘士と信じている場合に。われわれは、自分の言動から、自分の心情や 快楽から、いかにしてファシズムをとりのぞくか?[ …] ドゥル−ズとガタリは、彼らなりに、肉体のなかにあるどんなにささいなファシズムの痕跡をも見逃さずこれを徹底して究明する。[ …] 『アンチ・オイディプス』を<非ファシスト的生活の手引き>と語る人がいてもおかしくあるまい。」(大橋洋一訳,『現代思想』 1984.vol.12-11,p.38 )
(2) 同上書,p.38. (3) p.208.(4) p.78. (5) pp.340-1. なおここで「機械の二つの状態」とは、構造論的統一の中で捉えられた「モル的組織体」および微細な多様性の方向で見出される「分子的諸要素」を言う。 (6) p.13. (7) p.246.(8) p.249.(9) p.263.
(10)長谷川尭『都市廻廊』(中公文庫, 昭和60年)が紹介する19世紀英国の「中世主義者」ジョン・ラスキンの建築思想は示唆に富んでいる。「一個の建築にせよさらには巨大な都市の計画にせ よ、設計者たちは、単に視覚的な意味だけにかぎらず、その対象の物理的・経済的条件や、社会的位置、政治的情勢などをひとまずマッスとして全 体的に把握し、それを的確なプロポ−ションとして、計量し企画する、つまり計画し、やがて実現へと行動するのだ。ラスキンはこのような上から 外からせめて行くデザインの手法を、ルネッサンス以来の文明の手法として、粉砕しようとして身がまえている。」(p.40)
「ラスキンの側からみれば、もし仮りに建築の究極がマッスの配分やプロポ−ションの決定にあるとすれば、すべての建築はその規範に合致すると 同時に、その完結性のなかで死ぬ、つまり規範に合致したものとして過去のなかに凝固し、同時に生々と現前することを止めるように思えるのだ。 ラスキンは全体でなく部分に目をむけ、その細部の現在をたどることによって、その「過程」そのものを生きるのだ。」(p.330 )
「ラスキンの有名なアフォリスムは「装飾は建築の主要部分である」というものだが、このことはつまり装飾は細部において生命力を発揮しないか ぎり、その存在価値を根底において失うであろう、という警告でもあった。単に建築の全体性を修飾するだけの装飾であるならば、それはすでに装 飾として形骸化している。」(pp.382-3) 「いかなる建築も一個の煉瓦や石を最終的なエレメントとしながら、それらのエレメントがささやかに蓄えている力を有機的に結集することによっ て、総合的な全体を一種の奇跡として実現する面白さを、ラスキンはどこまでも重視する。」(p.384 )


【49】仮構とリアルなもの・3(その1)

 バ−ナ−ドは「発話 speech」を「人間協働のうちで、最も普遍的な形態であり、しかもおそらく最も複雑なもの」(p.46)であると 言う。また発話は「それを聞くことができるばかりでなく、全体情況のなかで反応や変化を生む」一つの「event 」である(p.47)。

「「なにをやっているのか」と叱れば、行為が生じ、そこで物的、生物的、社会的な歴史が変わってくる。その事象[event] の起源、過程、または結果のいずれにおいてであれ、その事象からどの要因も抽象されず、またどの要因もその事象から離れることはできない。それは一つの全 体系である。それは多くの未知のもの、したがってわれわれの用いる名称では理解できないものを含んでいる。[ …] しかし、それにもかかわらず、事象は生じ、人々の行為がそれによって影響されることは現にみられるとおりである。」(p.47)

 発話は協働的活動の典型であるとバ−ナ−ドは言うが、その特質はそれ自体が「全体系」であることよりも、それが「多くの未知のもの」の働き によって「event 」として協働体系のうちに生起することにある。つまり言語を使用することは本来局所的な活動にすぎずしかもそれが何らかの意味を社会的にもち得るかどうか は発話者の主観的な意図を超えているにもかかわらず、彼は「部分を通じて全体に影響を与える」(p.49)操作によって自らの行為を出来事と して全体状況のうちに位置付けることができるのである。(それがいかにして可能なのかはバ−ナ−ドの問うところではない。)バ−ナ−ドにとっ て言語を使用することはあくまでも行為であり出来事である。彼の言語観は、「言語は分析の手段としてよりも主として反応的に行為をさせる手段 として有効で有用である」(p.208) 、あるいは「話すということ[to talk] はたいてい推理すること[to reason]であり、推理することは話すことである」(p.304) という言葉に端的に示されている。

 言語活動は組織過程の核心をなしている。先ず、組織の二軸の交点に対して垂直方向に創発する組織の自己(自己の刻々の推移のうちに示される のが「共通目的」である)と共時の軸(その構築が組織内「伝達」の成立条件である)との相互牽制を支えるのがバ−ナ−ドの言う「専門化 specialization 」なのであるが、ここで「専門化は、本質的には伝達の必要のために生じ、またそのために維持されている」(p.91)のであり、「伝達の方法は、口頭や書 面による言葉が中心である」(p.89)。また組織の自己と通時の軸(その充実が「貢献意欲」にとって必須である)との相互牽制は「誘因の方 法 the method of incentives」と「説得の方法 the method of persuasion 」(p.141) によって達成されるが、これらは個人の「動機 motives」形成・維持・変更にかかわる広義の修辞的言語活動の範疇に含めることができるだろう。さらに共時と通時の二軸の相互牽制の過程は「権威 authority 」の確立に待たねばならないものであり、バ−ナ−ドが「伝達を権威あるものとして[組織の貢献者ないし構成員が]受容すること」(p.163) と主観的側面(通時軸から共時軸へと作用する側面)における権威を定義し、客観的側面(共時軸から通時軸へ及ぶ「調整 coordination 」作用にかかわる側面)における権威を、「上位権威の仮構を支持するに十分であるとともに、無関心圏を実現せしめ」、その維持が「組織における伝達体系の 運用いかんに依存する」(pp.174-5)ものと定義するとき、そこで重要な機能を果たしているのが言語活動なのである。そして組織の動力 源ともいうべき「決定」と経営者の創造的職能(すなわち「公式組織の基底にあって最もすみやかに不誠実を感得する非公式組織に、「確信」を与 える同化作用」(pp.281-2))が主として言語を介して遂行されることは言うまでもない。

 しかしバ−ナ−ドにとって最も重要なのは非公式組織における「association 」をもたらす言語活動である。なぜなら「満足を与えるような人間的結合[personal associations] は、なにかを話し合うことを必要とする」のであり、また社会的満足のためには具体的な行為対象が必要であるが「ともになにかをおこなう最も単純な形式は、 もちろん会話である」からだ(p.118) 。

「個人の本質的欲求は社会的結合であり、この欲求が個人間における局地的活動、すなわち直接的相互作用を求めることとなる。社会的結合がなけ れば人間性は失われる」(p.119)

 バ−ナ−ドの組織づくりの技法の要は仮構をリアルなものとする契機である非公式組織の制作に求めることができるが、ここで非公式組織とは 人々の「直接的相互作用」(その中心をなすのが言語活動である)の反復が「体系的となり組織化され」たものである(p.122-3) 。それは<社会的なるもの>の制作であると言ってよい。言語活動の痕跡である言説の連鎖が体系的となり組織化されたとき、そこに<社会的なるもの>が成立 する。しかしそれは「分化していない同質の原形質」(p.105) 類似の「形のない集合体」(p.115) であり「方向の定まっていない体系」(p.79)であって、「権威」の網の目に捕捉されて始めて実在としての組織を活気づけ条件づける(p.120) 契機となるのである。<社会的なるもの>の制作とは、結局のところ言説の交通と自己組織化の過程を稼働させることである。そのとき組織設計者 としての経営者は<他者>として、<社会的なるもの>の成立を基礎付ける仮構として位置付けられるであろう。


【50】仮構とリアルなもの・3(その2)

 サ−ルは「言語使用[discourse] とは規則にしたがって行為を遂行すること」であると言う(1) 。言語を使用することは行為であり出来事であるというバ−ナ−ドの言語観を究明するために、サ−ルの議論をいま少し見てみよう(2) 。

1.人は何らかの文を発話するとき少なくとも次の三種の互いに異なる行為を遂行している(これらは「言語行為 speech act 」と総称される)。
 a.語(形態素 morpheme、文など)を発話すること=発話行為(utterance act )
 b.指示(refer )と述定(predication )=命題行為(propositional act )
 c.陳述、質疑、命令、約束などを行うこと=発語内行為(illocutionary act )
 例えば、'Sam smokes habitually' と'Sam,smoke habitually!' とは指示と述定において同一であるが発語内行為としては異なっている。なおここで発話行為と命題行為は発語内行為という目的に対する手段ではない。
 次に、発語内行為が聞き手の行動、思考、信念などに及ぼす帰結または効果を意味する「発語媒介行為 perlocutionary act 」という概念が追加される。

2.大半の種類の発語内行為が規則に支配されているという意味において、発語内行為を遂行するためには(なんらかの形で実現された)規則が存 在しなければならない。規則は次のように区分される。
 a.エティケットに関する規則がその規則とは独立に成立している個人間の関係を統制するという例にみられるように、既存の行動形態をそれに 先行して、またそれとは独立にそれを統制する「統制的規則 regulative rule」。「Xをせよ」または「YならばXをせよ」という命令文の形式をとるか、あるいは命令文として言い換えられることを特徴としている。
 b.チェスの規則がチェスの競技を統制するのみではなく、いわば、そのようなゲ−ムを行う可能性そのものを創造するように、成立の如何その ものがその規則に論理的に依存する活動を構成(し、また統制)する「構成的規則 constitutive rule」。一部に命令文の形式をもつものもあるが、「XをYとみなす」または「脈絡CにおいてはXをYとみなす」という形式をもつことが多い。一般に構 成的規則は、規則が存在しないときには与えることが不可能な社会的行動の特定化の基礎を提供する。

3.一つの言語の意味論的構造は根底に存在する一連の構成的規則の慣習的な実現としてみなすことが可能であり、言語行為とは、そのような一群 の規則に従って表現を発することによって遂行されることを特徴とする行為である。
 人間行動を適切に説明するために、行為者自身が規則を述べることができなかったり、あるいは、そのような規則に従って行動しているというこ とに関して自覚していなかったりするような場合においてすら、その行為が一つの規則に従ってなされたと想定しなければならない。規則に支配さ れている行動をたんなる規則的な行動から区別する徴表は、われわれがそのパタ−ンからの逸脱をなんらかの意味において円滑を欠き、欠陥的なも のであるとみなすということ、過去におけるたんなる規則性とは異なり、規則というものは、新たな事例に対しても自動的に妥当している(行為者 がいまだかつて見たことがない事例に直面しながらも、なにをなすべきかを知っている)ということである。

4.世界は「生まの事実 brute facts」だけからなるものではなく「制度的事実 institutional fact」から構成される。制度的事実とは、たしかに事実ではあるが、生まの事実とは異なり、その存在が人間的制度の存在を前提とするというものである (ある種の行動形態がスミス氏とジョ−ンズ嬢の結婚を構成することになるのは、結婚という制度が存在するゆえ可能となるのである)。
 「制度」は、構成的規則の体系である。あらゆる制度的事実の根底には、「脈絡CにおいてはXをYとみなす」という形式をもつ規則(の体系) が存在している。ところで、われわれが採用する仮設は、ある一つの言語を使用することは、構成的規則に従って行為を遂行することであるという ものである。これゆえにわれわれは、さらに、ある一人の人がある種の言語行為、たとえば、約束を遂行したという事実はまさに制度的事実である という仮設もまた採用することになる。したがって、そのような事実を分析しようと試みるとき、われわれは、それを生まの事実に関して行ってい るのではない。

 サ−ルの議論が示しているのは、言語の使用を行為であり出来事であると捉える視点が必然的に、一つの言語体系を組成するル−ル(サ−ルの言 う構成的規則)の存在を含意するということである。ル−ルは発話者自身にはそれとして示し得ないものであるかもしれない。しかしそれは、物理 的な発話行為および形式的な命題行為と社会的な発話媒介行為とを仲介する発語内行為が、なにごとかを意味し得るためには不可欠な要素である。 ここで一つの言語体系の組成とは局所的な社会の構築と同型であると考えてよいだろう。バ−ナ−ドにとって組織を制作することはそのような意味 での言語体系の組成すなわちル−ルをつくることである。

(1) J.R.サ−ル『言語行為』坂本百大・土屋俊訳(勁草書房,昭和61年),p.38. なおサ−ルの「言語行為 speech act 」という考え方は、話すことは何かをすることだというオ−スチィンの所説に負っている。(J.L.オ−スチィン『言語と行為』坂本百大訳(大修館書店,昭 和53年)参照)
(2) J.R.サ−ル『言語行為』第二章


【51】仮構とリアルなもの・3(その3)

 しかしル−ルが存在しないとき言語の使用による意思疎通は不可能なのだろうか。換言すれば一つの言語体系を共有する局所的な社会(言語共同 体)を離れて、あるいは異なる共同体の間では、言説の交換は成立しないのであろうか。そうであるとすればそもそも共同体はいかにして生成した のだろうか。──このような、ル−ルによって組成される言語体系と実践としての言語活動をめぐる(ソシュ−ルのラングとパロ−ルの区分に通ず る)パラドキシカルな循環は、既に触れた自己組織化のパラドックスと同型である。そしてそれは外在的な観照者の視点が見させるものであるにす ぎなかった。そのような視点が共同体の起源という擬時問題を帰結し、その解として種々の「説話」(例えば社会契約)を生み出す元になるのであ る。バ−ナ−ドの方法をかかる視点から捉えてはならない。繰り返し述べたように(自然的)生成をめぐる認識上の問題を(人為的)制作の実践問 題へと転換するところに彼の方法の可能性があるのである。

 ここで<社会的なるもの>という概念の意義を再考する必要がある。というのは、バ−ナ−ドが制作の対象とする究極の組織は 「communion 」という語で象徴される融合状態に達した共同体なのであるが、<社会的なるもの>とは本来差異性を基調とする(組織の通時軸上の)人間集団の在り方を言う ものであって、等質性を基調とする(組織の共時軸上の)人間集団の在り方とは異なるからである。そしてそこを統治するル−ルの在り方も根本的 に異なるからである。サ−ルは、たとえ行為者がル−ルを明示できなくともその行為がル−ルに従ってなされたものと想定できる徴表を二点指摘し ている。それは法の社会的機能である「逸脱排除」と「紛争解決」に対応していると言えよう。しかしサ−ルがそこで想定しているル−ルはそれに 従って行為をする者の自覚を必要としないのであって、<社会的なるもの>の制作に向けた修辞的行為のうちに自覚的に仮構される法の在り方とは 異質である。法は人間集団および人間の相互行為を律するに際して<他者>性を根底に据えている。<社会的なるもの>の制作とは<他者>間の (それを正当に根拠付ける理由体系を欠いた)結びつきの諸過程を連結することである。それは実践から仮構へという動きのうちに(その場かぎり の)ル−ルを制作する諸行為の連鎖をそのものとして捕捉しようとする営為である。

 バ−ナ−ドが経営過程の遂行には「適合性・適切性の感覚」が必要である(p.257) と指摘するとき、これを字義通り読むかぎり経営者が既に存在している社会体系(<社会的なるもの>ではない)に対していかにかかわるかという観点からの記 述である。だがバ−ナ−ドの方法は仮構から実践へと向かう動きのうちに見るべきものであった。すなわち彼が指摘しているのは、未だ存在してい ない社会体系によって充填された仮構としての組織をリアルなものと感得する能力こそ経営者がその職能を果たす上で必要なものであるということ だ。経営者は組織の構成員・貢献者に確信を与えなければならない。しかしこのことは決して既定の「道徳」すなわち「codes of conduct」(p.280) を組織に注入することを意味しない。また、計画された未来へ向けて組織を指導することでもない。経営者はあたかも外国人に言葉を「教える」立場に立ってい る。言葉を教えるとはル−ル(文法)を理解させることではなく(教える立場にある者にとってもル−ルそのものはそれとして明示できない)、言 葉を使えるようにさせることだ。柄谷行人が言うように「教える」立場は「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場で あって、権力関係を含意しない(1) 。

「このことを理解するためには、「売る」立場を類推的に考えてみればよい。マルクスがいったように、商品はもし売れなければ(交換されなけれ ば)、価値ではないし、したがって使用価値ですらもない。そして、商品が売れるかどうかは、「命がけの飛躍」である。商品の価値は、前もって 内在するのではなく、交換された結果として与えられる。前もって内在する価値が交換によって実現されるのではまったくない。 言葉についても 同じことがいえる。「教える」側からみれば、私が言葉で何かを「意味している」ということ自体、他者がそう認めなければ成立しない。私自身の なかに「意味している」という内的過程などない。しかも私が何かを意味しているとしたら、他者がそう認める何かであるほかなく、それに対して 私は原理的に否定できない。私的な意味(規則)は存在しえないのである。」(2)

 メタ・レベルに位置する仮構としての経営者の職能は、組織に対して<他者>であり続けるという逆説的なものである。<社会的なるもの>の組 成へ向かう組織内の諸過程の堆積が社会体系として実体化され虚構としてのル−ルが目に見えない権力装置として機能しつつあるとき、経営者は組 織過程に<他者>性をもたらし<社会的なるもの>の制作現場を不断に現出させなければならない。彼は組織をつくりつつ破壊するトリックスタ− として振る舞わなければならないのである。組織が存続する上で必要なのはこのような経営者の存在である。

(1)(2)柄谷行人『探究 I』(講談社,昭和61年),pp.6-7. 柄谷は、「ウィトゲンシュタインは、言葉に関して「教える」という視点から考察しようとした」(同書p.5 )と言う。柄谷によれば一般的に哲学は「内省」すなわち自己対話(モノロ−グ)にはじまっている。それは共通の規則が前提された「語る−聞く」立場に立っ ており、同一の言語ゲ−ムの「内部」に閉じこめられている。彼はそれを<他者>の存在しない<独我論>であると論難し、ウィトゲンシュタイン の読解を通じて「教える−学ぶ」という非対称的な関係こそがコミュニケ−ションの基礎的事態であるとして、態度の変更すなわち異質な言語ゲ− ムに属する他者とのコミュニケ−ションの導入を図ろうとしてるのである。(同書pp.8-9)


【52】仮構とリアルなもの・3(その4)

 バ−ナ−ドは経営者がその職能を遂行する場合、必ず司法過程が伴うと指摘している。彼によれば、経営者の視点からみた司法過程とは、道徳準 則(ル−ル)に対する「帰向感 the sense of conformance 」を確保するため、目的の変更・再定義あるいはその特殊化を道徳的に正当化する過程である(p.280) 。ここで「道徳的に morally」とは「手続的に」と同義であると考えてよいであろう。

 バ−ナ−ドが言わんとしているのはこうだ。生きた実在としての組織はその内部における対立・紛争を契機として稼働するのであって(その軌跡 のうちに示されるのがル−ルの存在を表象する「目的」である)、経営者の職能はそのような内部過程を制作しかつ維持することである。しかし経 営者は対立・紛争の「解決者」ではない。正確に言えば、経営者は既に確立した法(実体法)の解釈によって「正しい」結論を演繹的に推論 (deduction)するのではない。あるいは何が「正しい」結論を帰結する法であるかを帰納的に推論(induction )するのでもない。彼は対立・紛争を解決するのではなく、それを解消させる新たな法を生産( production あるいは abduction)するのである。そして経営者に求められる適切さの感覚とはそのような新たな法を生産する手続に対するものである。経営者の責任は実体 的にではなく手続的に正当化されることを通じて達成されるのである。

 ジョン・ロ−ルズは実体的正義に対する手続的正義を「純粋手続的正義」(結果の正しさについての独立した基準がなく、手続だけが存在する場 合)・「完全手続的正義」(何が正しいかを決定する基準が手続外に存在し、この基準に合致する結果をもたらす手続が存在する場合)・「不完全 手続的正義」(結果の正しさについての基準は手続外に存在するが、これを確実に実現する実行可能な手続が存在しない場合)に分類している (1) 。この分類は正しさの基準をいかに捉えるかに応じて相互に重なる場合もあるが、ここで注目すべきは手続による正当化の特質を最もよく示している「純粋手続 的正義」の概念であろう。法的修辞行為は説明あるいは論証をではなく<他者>の説得あるいは(未知なるものまたは未来へ向けての)推論を基調 とするものである。経営者は組織内の対立・紛争を「解決」するに当たって、実体的な正しさではなく手続的な正当性に立脚しなければならない。 そこでなされる決定の正しさは手続法としてのル−ルが決定する。経営者は司法過程を通じてこのような意味でのル−ルを制作し組織の構成員・貢 献者のル−ルへの帰向感を調達しなければならないのである。組織づくりにおいて、統合の要請との調和を図りつつ、社会体系のうちに捕捉された 個人に認められる制度化された自由ではない「生の自由」をいかに実現するか。バ−ナ−ドが直面していたのはこのような課題であった。そしてそ の解答は「純粋手続的正義」の無際限の連鎖が示す方向に見出されるべきものであったのだ。

 組織において有力な言説は匿名性を帯びていなければならない(2) 。それは人口に膾炙した「説話」(神話・伝説・民話)類似の形式をとることもあれば具体的に発話者を特定し得ることもある。だがいずれの場合であっても言 説が組織過程において特権的に流通するためには、あたかも組織自体がその言説の発話者であるかのように人々に受容される必要がある。組織のメ タ・レベルに位置する経営者は彼自身が組織過程によって仮構された<他者>なのであるから、いわば制度的に匿名性を帯びた言説を産出する装置 だ。より重要なのは組織の二本の軸の相互牽制によって切り開かれた空間における言説の交通過程であろう。そこは法廷のように実践から仮構へ向 かう法的言説のとびかう修辞空間である。そしてそこでは言説は発話者の主観的な意味付けを超過して自疆的に自己を組織化するであろう。そのと き、あたかも言説が自己の意味を推論するために移動していく過程を示す痕跡としてわれわれの前に現象するのが比喩であり言語の使用を律する論 理的な構造なのである。組織が存続するためにくぐらなければならない試練である誤謬推論が展開されるのはまさにここにおいてなのだ。

(1) ジョン・ロ−ルズ『正義論』矢島釣次・篠塚慎吾・渡辺茂訳(紀国屋書店,昭和54年),pp.65-9.
(2) 橋爪大三郎は「人々が個別の事態の困難に対処するに際して、共同利害(ないし社会規範)を告知する言表を、非人称による発話として実現するところに、法現 象の核心がある」と言っている(橋爪大三郎『仏教の言説戦略』(勁草書房,昭和61年),p.13.)。


【53】仮構とリアルなもの・3(その5)

 レヴィ=ストロ−スは科学的認識と神話的呪術的思考の相違について(その中間に美術がはいることを指摘しつつ)次のように述べている。

「周知のごとく、美術家は科学者と器用人の両面をもっている。職人的手段を用いて彼はある物体を作り上げるが、それは同時に認識の対象でもあ る。[ …] 科学者と器用人の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対 し、器用人は出来事を用いて構造を作る。」(1)

 ここで「科学者」を仮構としての組織構造の確立を背景として組織過程を管理する専門家に、「器用人」を<社会的なるもの>の制作への意思に 導かれる実践者に関連付けて考えることができよう。言うまでもなく「美術家」は経営者に該当する。レヴィ=ストロ−スは美的創造と神話を生み 出す創作行為との違いを、美術作品の場合は「一つの共通の構造を明らかにすることによってそれ[一ないし数個の事物と一ないし数個の出来事の 集合]に全体性を付与する」行為から始まるのに対して、神話は逆の方向に──つまり構造の発見ではなく、ある構造から出発して「構造をもちい て、出来事の集合の様相を呈する絶対的事物を作り出す(なぜなら神話はつねに物語であるから)」方向に向かう行為によって生み出される点に求 めている(2) 。また、科学と美術の違いについては縮減模型の例を挙げて次のように指摘している。すなわち美術作品の大多数は縮減模型なのであるが、その特性は、「縮減 模型では全体の認識が部分の認識に先立つ」こと、‘man made’であり「手づくり」であって、「対象物の単なる投影、受動的相同体ではな」く、それが「対象物についての真の実験」であることの二点である (3) 。レヴィ=ストロ−スによれば、「科学のやり方が換喩的であって、あるものを他のものによって、結果を原因によって置き換えるのに対し、美術のやり方は隠 喩的である」(4) 。

 ここで対比される換喩(metonymy)・隠喩(metaphor)という比喩の二つの型は、ヤ−コブソンが記号行動の二本の軸である 「連辞 syntagme 」(ある発話の中で結合される語の横の連鎖にかかわる)と「範列 paradigme」(語形変化表に通じ、語の縦の選択にかかわる)にそれぞれ対応させて使用したことに依っている(5) 。ヤ−コブソンによれば換喩的な言説を支えるのは隣接関係であり、隠喩的な言説を支えるのは類似関係である。ところで瀬戸賢一は、このヤ−コブソンによる 隣接性の用法が「倒錯的」であるとし、これを重層的な現実世界(仮想された世界を含む)の時間的・空間的な隣接関係に基づく転義と概念操作の 領域である意味世界での「類−種」の包含関係に基づく転義とに分割し、前者を換喩、後者を提喩(synecdoche)と定義している(6) 。瀬戸は、「提喩と換喩は、互いに異なった世界に属しているために、直接的な交渉を持つことができず、もし交渉を持つ可能性があるとすれば、 隠喩を経由した間接的なものにならざるを得ないのではないか」(7) とし、隠喩が意味世界と現実世界の境界上に存在し両世界の橋渡しをするものであることを指摘している。ここに「言語表現およびその基礎となる私たちの認識 を支える上でもっとも重要な役割を果たす三つ組(triad )を構成する」(8) 三種の比喩がその位置を明らかにされた。

 組織過程において、仮構から実践へという動きのうちに感得される「組織感」は、提喩としての組織(実在ではなく概念操作によって構成された 仮構)から隠喩としての経営者(あるいは組織を実在としてリアルに現象させる原理=目的)を触媒として換喩的な association へと至る言語活動の痕跡であり、実践から仮構へという動きのうちにとらえられる法的修辞活動の集積が示す「物語的整合性」は、契約による(換喩的)結合か ら代表による(提喩的)結合へと至る過程を媒介する司法作用(隠喩としての裁判)を正当化する観念である。この二つの過程において決定的に重 要な位置をしめるのが、「器用人」としての実践者に方向を与え「科学者」あるいはエンジニア(8) としての専門家に自在性を付与する「美術家」としての経営者なのである。

(1) クロ−ド・レヴィ=ストロ−ス『野性の思考』,p.29.なお「器用人 bricoleur」とは「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人」(同書,p.22)のことをいう。レヴィ=ストロ−スは「神話的思考と は、いわば一種の知的な器用仕事である」(同)と述べ、神話的思考と器用人を対応させている。
(2) 同上書,p.33 (3) p.29-31.(4) p.31.
(5) R.ヤ−コブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」,『一般言語学』川本茂雄監修,田村すず子ほか訳(みすず書房,昭和48 年),pp.21-44.
(6) 瀬戸賢一『レトリックの宇宙』(海鳴者,昭和61年)第五章。ちなみに、カッシ−ラ−は象徴機能には、あるものを他のもので置き換える「代替」機能と複数 のものを同一のものに関連付ける「代表」機能があるとしているが、これはほぼ換喩と提喩の機能の分類に相当するものであると言えるだろう (カッシ−ラ−『理念と形姿』(三修社,昭和53年))。
(7) 瀬戸賢一同上書,pp.55-6. (8) pp.48-9.
(8) レヴィ=ストロ−スは科学的認識と神話的呪術的思考を「エンジニア」と「器用人」との対比によって説明している(レヴィ=ストロ−ス前掲 書,pp.22-8.)。


【54】仮構とリアルなもの・3(その6)

 「価値についてどう論じたらよいのか。悪よりも善を、不正よりも正義を、独裁よりも民主制を、より良しと判断させる、理性的に承認できる方 法が存在するのか」(1) ──新しいレトリックの提唱者の一人であるペレルマンは、実践哲学を否定した実証主義の結論に満足できず、このような問いを自らに発し「価値判断の論理 学」を探究した。そして共同研究者との長い仕事の結果が導いた「啓示といってもよい、思いがけない結論」を次のように述べている。

「それは、価値判断特有の論理学は存在しない、しかし、現在は忘れられ軽蔑されているあの古い学問、すなわち説得説伏の術としてのレトリック に、われわれが求めるものがすでに展開されている、との発見だった。[ …] そしてわれわれが確認したことは、事の優劣、適否、理の有無に関する推論は、形式的に妥当な演繹でも、個別から普遍へ向かう帰納でもなく、ある主張への人 びとの同意を求めてなされるあらゆる種類の議論そのものだ、ということだった。」(2)

 ここでレトリックは「修辞」という訳語の辞書的な意味(すなわち語句の修飾、文彩といった文章表現の手法)ではなく、「およそ人間の営みにかかわるすべ ての事がらに有益・有効に対処しうる知の基盤としての弁論・修辞の術」(3) である。アリストテレスは「理論的活動 theoria」・「実践的活動 praxis 」・「制作的活動 poiesis」という人間の知的活動に対応する知の形態をそれぞれ「学問知 episteme 」・「実践知 phronesis」・「技術知 techne 」に区別しているが(4) 、ここで実践=政治とは「善く生きること」、「生を成就すること」であり(5) 、そこで重要な意味をもつ実践知=賢慮(prudence)がレトリックと緊密な関係をとり結ぶのである。藤原保信は、プラトンのいう唯一究極的な「善の イデア」を否定し善の多様性(すなわち善についての多様で流動的な意見の存在)を認めるアリストテレスの立場に立つならば、政治は「善につい ての異なった意見の交流のなかで選択され決定されるという形をとらざるをえない」と指摘している(6) 。

「もちろん、このことは善についての各人の異なった意見のうちにいかなる合理的な選択基準も存在せず、政治がたんなる利益集約的ないし利益調 整的過程に終わることを意味しない。むしろかかる選択を一定の合理的な基準に導くためにこそ、「善と悪に関してのことわりに即した真の行為可 能状態」としての実践知=賢慮が要求されるのである。そしてかかるフロネ−シスは、必然的な対象にかかわり論証が可能な学問知と異なって、 「ほぼ大体において真理であるような前提から出発し、おおよそにおいてのみ真理であるのを語り、そのような前提からそれよりも善きものがない だけの結論に到達するならば、それで満足しなければならない」ようなものであったがゆえに流動的であり、それ自身が異なった意見の相互交流の うちに絶えず克服され修正される性格をすらもつものであったのである。」(7)

 「異なった意見の相互交流」のうちに躍動する説得の術としてのレトリックは、実践知=賢慮が自ら変容していく過程を統治する。そこでは比喩 は単なる文彩にすぎないものではなく、言語表現を産出する母胎そのものであって、われわれの認識の枠組みをなすとともにこれを制作のための技 術知に連結する(あるいは科学と技術の無媒介的な結合を倫理の絆によって統治する)。レトリックあるいは比喩は一方で誤謬性を帯びた推論と不 可避的に連動するが、むしろそのことのゆえにそれは言説の力の源となるのである。言い換えればレトリック・比喩は人間の自由の存在様態なの だ。そして自由はハンナ・アレントが言うように「人びとが政治組織のなかで共同生活をしている理由」(8) なのである。

 修辞空間としての組織において経営者が果たすべき職能は極めてアイロニカルなものであった。彼は組織の設計者であると同時に組織によって産 出される仮構であり、組織の制作者であるとともに組織の破壊者でもあった。彼は組織の象徴あるいは起源でありながら<他者>性を帯びた存在で なければならない。また経営者は組織を統合しつつ組織のメンバ−の自由を(確保ではなく)制作しなければならない。このように、組織における 経営者の活動は「A⇒非A」と定式化できるアイロニ−の過程に彩られている。そしてケネス・バ−クが指摘するようにアイロニ−は第四の比喩で あり、弁証法的な性格を有しているのである(9) 。

(1) ペレルマン『説得の論理学』三輪正訳(理想社, 昭和55年),p.10.(2) pp.12-3.
(3) 廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』(岩波書店, 昭和59年),p.242.
(4) 藤原保信「政治理論と実践哲学の復権」『思想』1981年第6号(No.684) ,p.6 .
(5) pp.8-9. (6)(7)p.7.
(8) ハンナ・アレント『文化の危機 過去と未来の間にU』志水速雄訳(合同出版, 昭和45年),p.6.
(9) Kenneth Burke,A Grammar of Motives(University of California Press,1969 ),pp.503-17. なおここで言う弁証法は、自己との対話(内省)を優位に置くプラトンの哲学的問答術ではなく、<他者>との「交際に際しての振舞いの仕方」(ヘ−ゲル『哲 学史講義』)としてのいわゆる「ソクラテスのアイロニ−」を念頭において理解すべきであろう。


【55】仮構とリアルなもの・結(その1)

 国の根本規範を定律する憲法自体の究極的根拠を憲法以外の(憲法が規範として適用されない)「行為」すなわち憲法制定行為に求めるか、ある いは「主権」という、憲法体系の内部においてはその概念既定が不可能な(規範としての憲法を超越する)観念に求めるしかないこと──憲法はこ のようなパラドックスに直面している。デモクラシ−が、政治体においても個人においても自治=自己決定=自律倫理(最終的な拘束力をもたない 倫理)のパラドックスの上に成り立っているものであることと、論理的には同型である。

 セルズニックは、組織のリ−ダ−は多様な集団利益を全体の目標に転換する「憲法的問題」に責任を持つと指摘し、リ−ダ−の職能を創造的な 「政治」に求めている(1) 。ここで「憲法」とは、組織(セルズニックの用語では「制度」)の「独自性identity」の保持に関するル−ル、あるいは歴史的推移の過程を通じて維 持される「組織性格」の一貫性に関するル−ルを言うものと解すべきである。そしてその組織における根本規範としての正当性は、上述の通りそれ 自体のうちに求めることができない。だがこのようなル−ルの形式的無根拠性は、再三述べたように解決されるべき「問題」でも致命的な欠陥でも ない。それよりも重要なのはウィトゲンシュタインが考察した「規則に従うこと」をめぐるパラドックスの方である。

 クリプキによれば、『哲学探究』の理解は第1部201節に示された「懐疑的パラドックス」(「われわれのパラドックスは、ある規則がいかな る行動のしかたも決定できないであろうということ、なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから、ということで あった」)(2) とその「懐疑的解決」の理解にかかっている。クリプキは、ウィトゲンシュタインが示したパラドックスを次のように言い換える。

「懐疑論のパラドックスは、次のようになる。私が「68+57」のような問題に対し、ある特定の答えを出す場合、私は、その答えを正当化する ことは出来ない。」(3)

「即ち、何らかの語で何らかの事を意味している、といった事はあり得ないのである。語について我々が行なう新しい状況での適用は、全て、正当 化とか根拠があっての事ではなく、暗黒の中における飛躍なのである。如何なる現在の意図も、我々がしようとする如何なる事とも適合するよう に、解釈され得るのであり、したがってここには、適合も不適合も存在し得ない。」(4)

 クリプキは、このようなパラドックスに対する「正面からの解決」が不可能であることを詳細に論じたあとで、「ウィトゲンシュタインが彼自身 の懐疑的問題に与えた解答は、私の心についての事実、[…何らかの語で何らかの事を]意味しているという事[あるいは、何らかの行為で何らか の規則に従っているという事]を構成し、かつ、この意味[あるいは規則]に適合するためには私は何をなすべきかを前もって決定するところの事 実、そのような「法外な事実」などは存在しないのだ、という事を懐疑論者達と共に同意することをもってはじまる」(5) と言う。クリプキが述べるウィトゲンシュタインの懐疑的解決は、大要次のようなものである(6) 。

1.我々は、次の二種類の言明が話の中に導入される状況と、それが我々の生活の中で演ずる役割と有用性を見なくてはならない。
 a.彼はある与えられた規則に従っているという定言的言明
 b.「もし彼がしかじかの規則に従っているならば、彼はこの場合かくかくの行動をせねばならない」という仮言的言明

2.bのような条件文についての我々の使用を正当化する要素は、個人を共同体から分離して考察する限り、説明されない。もし我々が、個人は共 同体の中にいる、という事実を考慮に入れるならば、様子が変わり、先のaとbの言明が演ずる役割は明確になる。

3.共同体がある特定の条件文を受け入れる時は、共同体はそれを対偶の形に変えて受け入れるのである。即ち、ある人がその共同体が正しいと見 なす特定の反応をしないならば、その共同体は、彼はその規則に従ってはいない、と見るようになるのである。他面、ある人がその共同体が正しい と見なす十分に多くの特定の反応をするならば、その共同体は(aの形の言明で)彼を規則に従う人として認め、かくして共同体は彼を、彼の反応 を信頼する事の上に成り立つようなタイプの取引に参加させるのである。

4.これらの言明可能性条件から導かれる事は、あるアディションの問題に対してみんなが与える答えは定義によって、正しい答えである、という 事ではなく、むしろ、もしみんながある答えについて同意するならば、その答えは間違っている、と言う事は正当化されている、とは誰も思わない であろう、という陳腐なことなのである。

 ここで言われていることは、われわれの生活にとって懐疑的パラドックスは正面から解決されなければならない問題ではないということである。 そのようなパラドックスが論理的に成り立つとしても、事実としてわれわれの生活はうまくやっていけるということだ。しかしこの事実は驚くべき ことなのである。われわれはただ「彼は規則に従ってはいない」という否定的言明においてのみ「規則に従う行為」について正当に言及し得る (「彼は規則に従っている」と積極的に言明することは正当化できない)。そして、そのような言明がいかに正当化され得るのかを示す事実とは、 ある行為が共同体にとって排除されるというまさに外形的な事実に他ならないのである。比喩的に言えば「共同体の心についての事実」はない (4) 。

(1) セルズニック前掲書
(2) ウィトゲンシュタイン『哲学探究』藤本隆志訳(大修館書店)
(3) ソ−ル・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』黒崎宏訳(産業図書, 昭和58年),p.40.(4) p.108.(5) p.128.(6) pp.210-2,217-8. 参照
(4) なお、ここで言う規則を、例えば孔子の「礼」すなわち「人間のコミュニケ−ションと関係を規制する振舞の掟、つまりは、「場」の規範となり、或いは、行為 が「かたち」となって示される時の象徴効果の修辞学」(土屋恵一郎「シリアス社会の演劇」『現代思想』1984 vol.12-4,p.48. )と関連づけて理解することができるだろう。あるいは、「形より入れ」という芸事の要諦が、「規則に従う行為」を内容ではなく形において、しかも規則から の逸脱に焦点をあてて見ていることも示唆的である。


【56】仮構とリアルなもの・結(その2)

 われわれは共同体において、ある語(または行為)である事を意味している、それも何らかの規則に基づいてそうしていると思っている。しか し、そのことをウィトゲンシュタインの懐疑論者に対して正当化したり根拠付けて説明することはできない(なお、このことは規則がいかようにで も解釈し得るということとは別の問題である)。ただ、共同体の他の人々が行うであろう行動と一致する限りで、暫定的に(共同体から否定されな い限りにおいて)正当化されるだけである。ウィトゲンシュタインの懐疑的解決は、そのような「相互に規則とか概念の把握を認める我々のゲ− ム」(1) の条件(クリプキは、一致・生活形式・規準というウィトゲンシュタインの三つの基本概念と関連付けて論じている)が充足されている場合に成り立つのであ る。

 しかしこのような解決はむしろ「解消」(2) というべきであろう。なぜなら、相互に規則とか概念の把握を認めるゲ−ムが成り立つ場すなわち共同体においては、懐疑的パラドックスは無意味だからであ る。「わたくしは規則に盲目的に従っているのだ」(3) としても、あるいは規則に従っていることを正当化できないとしても、われわれはやっていけるのであり、それを可能にするのが共同体だからである。そうであ るとすれば、ウィトゲンシュタインの懐疑論者とは、共同体に属さず言語ゲ−ムに参加していない者すなわち<他者>にほかならない(4) 。

 <他者>の懐疑の徹底性は、われわれに、われわれが規則に従っているとき正当化なしに盲目的にそうしているのであること、規則はある行為が 規則に従っていないとして共同体から排除されることのうちに示されるものであることを見させる。ここで重要なのは、<他者>の懐疑が「規則に 従う行為」に関するものであり、共同体の規則そのものの正当化根拠には及んでいないことである。だが、「規則に従う行為」の正当化が不可能で あるとき(正確に言うと、共同体から排除されない限りにおいて暫定的に正当と認められるしかないとき)、規則をそれ自体として語ること、ある いはその正当性を根拠付けることは不可能であり、無意味であろう。

 憲法の正当性を憲法自体が自律的に決定できないとしても、そのことは決して解決されるべきパラドックスなのではない。このパラドックスこそ むしろ憲法の生命なのである。憲法が無矛盾体系として自己を閉じたとき、憲法は自らの死を迎えるのだ。

 「<規則に従う>ということは一つの実践である。そして、規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない。だから、ひ とは規則に<私的に>従うことができない」(5) ──仮構としての経営者、バ−ナ−ドの組織づくりの技法が究極的に制作しようとする経営者とは、このような意識を組織にかかわる人々に喚起するアイロニカ ルな存在(すなわち<他者>)である。そして、このような意識こそ自由の意識なのである。<私的に>規則に従うことができないというのは、既 成の<私>が存在しないということであり、また、したがってわれわれが<公的に>規則に従っているのだという積極的な言明を帰結しない。 <私>は<他者>との交渉によって、その場限りの仮構として工作されるものでしかない。そして、そのようなものであればこそ、それは有用性を 持った「価値」となるのである。多数多様な<私>は組織を必要としている。なぜなら、「自由」こそ組織の存在理由だからである。《仮構とリア ルなもの・了》

(1) クリプキ前掲書,p.187.
(2) 黒崎宏「クリプキの『探究』解釈とウィトゲンシュタインの世界」『現代思想』1985 vol.13-14,p.40.
(3) ウィトゲンシュタイン前掲書第1部219節
(4) ウィトゲンシュタイン自身の挙げる<他者>の例は「われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人」(ウィトゲンシュタイン前掲書第1部20節)である が、それ以外には子供、精神病者(柄谷行人『探究I』の指摘による)、あるいは思考する機械(AI)を挙げることができよう。AIの定義に関 するチュ−リングの模倣ゲ−ム(いわゆるチュ−リング・テスト)と、クリプキが言うところのウィトゲンシュタインの懐疑的解決との類似は示唆 的である。ところで、AIが人間の心の存在を懐疑したとき、人間は果たして「それでも心は存在する」という最後の言葉を吐かずに、AIを説得 することができるであろうか。
(5) ウィトゲンシュタイン前掲書第1部202節


【57】仮構とリアルなもの・補遺1

 共同性を成り立たせる過程は何か。共同体の起源は何か。その解を得ることが、われわれが共同体を再編制し、あるいは新たに制作する技術を会 得するための前提なのだろうか。

 バ−ナ−ドは、人間協働の究極の到達点を「合一 communion」という語で表現している(p.296)(1)。しかし、この共同性の最高形態へ至る過程については、ただそこに、「人間の生に内在す る深刻な逆説」とかれが呼ぶもの──すなわち、「協働を選択する場合にのみ完全に人格的発展が得られる」といった、自由と非自由との、人間個 性の発露(自由意思)と組織された体系の個人を超過する自律性(決定論)との、相克とパラドキシカルな通底──が、その統制不能の様体で存在 していることを指摘するだけである。共同体の成員が個性を損なうことなく、しかも「聖体拝領 communion」という語が示すように、共同体の起源ともいうべき「人々の究極目標[ends]を形成する精神」(p.284) を“受肉”することがいかにして可能か。バ−ナ−ドの主著はこのような問題提起と、しかしその解決には「信念」の表明を必要とするという指摘をもって終 わっている。

 だが問題は本当にそこにあるのだろうか。つまり、共同性の成立過程や起源の探究が「経営者は何をなさねばならないか、いかに、なにゆえ行動 するのかを叙述する」(2) ために残された(しかし決定的な)課題なのだろうか。また「信念」とは、私的になされるそのような探究がもたらす主観的構築物にすぎないものなのだろう か。

 ここで、バ−ナ−ドが主著の末尾に添えたプラトン『法律』(四編四章)からの引用が示唆することの意味を考えなければならない。なぜなら、 そこに「哲学と宗教の問題」とかれが規定した問題についての公共的な探究の可能性が示されているからである。すなわち、引用文が指摘している のは、人間の行為をめぐる自由意思(偶然)と決定論(神の支配)の対立をすりぬける第三の考え方なのである。「技術はあってもよいのだ、嵐の なかでは水先案内の技術に助けてもらったほうがたしかに有利に違いないだろう」──このプラトンの言説に託してバ−ナ−ドが示唆しているの は、(いわゆる哲人王による統治の要請に導かれる引用箇所前後の文脈にもかかわらず)おそらく次のようなことだ。

 自由意思と決定論の対立は、人間の行為を行為主体との照合において内在的に見るか外在的に見るかの違いこそあれ、いずれにせよ行為の本質を 問う態度において一致していル。しかしそのような本質論議とは別に、行為が特定の文脈において他の諸行為と連鎖し、何らかの意味すなわち有用 性を実現するための<文法>を探究することが可能である。(「水先案内の技術」とはそのような<文法>の使用法に関するものだ。)そして、こ のことはおよそすべての人間のわざについて妥当するであろう。

 たとえば、「協働の拡大と個人の発展は相互依存的な現実であり、それらの間の適切な割合すなわちバランスが人類の福祉を向上させる必要条件 である」(p.296) という命題は、そこでいわれる「割合」が言語によって充填されない限り空虚である。バ−ナ−ドがそのような割合をめぐる問題を「哲学と宗教の問題」と規定 したのは、割合を科学的に探究することの不可能性、いいかえれば割合を客観的に語る言語の不存在をいうためであって、割合をめぐる議論が成り 立ち得ないことをいうためではない。ここで、自由意思を認める立場からは、およそ正しい割合などは存在せず、議論は採択された結論に対する責 任の帰属を決する手段にすぎないものとされ、決定論の立場からは、正しい割合は(もし存在するとしても)先験的に決定されており、議論はその 発見・確認のための方法にすぎないとされよう。だが、バ−ナ−ドが示唆するのは、そこに第三の立場があるということだ。

 社会全体と個人との間の正しい「割合」、あるいはその判定基準を客観的に語る言語はありえない。しかしこのことは、主観的な諸言説が織りな す議論を経て導かれる結論が、(問題を真正の問題として承認しあい、かつ議論を成り立たせるル−ルをも議題として相互の了解によって定立しつ つ、議論そのものを作品として制作する人々の手になるものであるとき)、局所的な、限定された領域における問題解決にとって有用な、正しい (客観的に正しいといってもよい)「信念」であるとする主張を妨げるものではない。このような立場からは、議論という人間の営為は単なる手 段・方法にすぎないのではなく、それ自体としての意味をもち、結論に正しさを付与する過程であることになろう。そしてこのような議論を組成す る諸ル−ルとそれらの使用法の総体が、先に述べた<文法>である。

 バ−ナ−ドが示唆するこのような立場は、およそ人間行為の関与するあらゆる事象が<リアルなもの>として感得されるに至る過程を重視する視 点、いいかえれば<リアルなもの>の自然的(あるいは歴史的)生成をめぐる認識上の問題を、<仮構>の人為的制作をめぐる実践問題に転換する 視点を提唱するものである。かれが、経営者がその職能を遂行する場合、必ず「司法過程 judicial process 」が伴うと指摘するとき(p.280) 、そこでいわれる司法とは、組織において発生する問題あるいは紛争をそれ自体として、局所的で個別具体的な問題・紛争として扱い、人為的解決を図ろうとす る営為である。つまり、究極の原理から普遍かつ絶対無謬の解決を導くのではなく、当事者間での交渉と第三者への説得という修辞的活動を通じ て、その場その時に応じて妥当な解決を工作(bricolage )するために、現実を<仮構>として再構成しようとする過程が、バ−ナ−ドのいう司法過程なのである。

 共同性を成り立たせる過程は何か。それは司法過程である。共同体の起源は何か。それは<問題の共有>という事実──歴史的起源というよりは むしろ共同体制作の原理ともいうべき事実──である。人々は単なる見解の相違や価値観の相違によって共同体を分裂させることはない。何が問題 かをめぐって相互了解が存するかぎり、議論が成立するかぎりにおいて、共同体は原理的に存続しうるのである。そして、このことから次のような 逆説が導き出される。すなわち、共同体は、成員が認識枠組を共有し、あるいは共通の価値・信条体系を内面化するに至ったとき、その純粋性のゆ えに死ぬ。なぜなら、そこにはもはや議論の成り立つ基盤が存在しないからである。

 共同体が、その存続の原理である<問題の共有>という事実を担保するためには、ある<装置>が必要だ。それこそ、「経営者 executive」である。バ−ナ−ドのいう「経営職能 executive function 」とは、組織に<外部性>あるいは<他者性>をもたらす媒介として働くこと、原理的に成立した共同体を、差異性を基調とし、異質な人間の究極的な根拠を欠 いた諸連接からなる多数多様体、すなわち<社会的なもの>の制作現場たらしめる作用である。(たとえば、聖体拝領においては、神人という両義 的な存在であるキリストが儀式に外部性・超越性をもたらし、しかも、儀式参加者が相互に他者性を認めながら、受肉によるキリストとの合一に よって信仰を通じた共同性のうちに融合する。ここで、キリストという媒介を消去したとき現われるのは、神の世界という彼岸と世俗的現世との分 裂による信仰の虚構化と(<外部性>の消去)、同質性を外挿しようとする検閲装置すなわち権力(<他者性>の抹殺)でしかない。)しかし、こ のような職能を遂行すべき経営者は、それ自体組織によって産出される<仮構>に他ならない。すなわち、組織の司法過程における法的修辞活動を 通じて示される議論の<文法>こそが、<装置>としての経営者の存在様式なのである。

 共同性の成立過程や起源の探究は、探究の過程自体が共同性の成立過程であり、探究の過程を継続させるための<装置>自体が共同体の起源であ るという、パラドキシカルな回路の中で遂行される。だが、このようなパラドックスこそが共同体を<社会的なもの>の制作現場たらしめる契機な のである。探究が終わるとき、解が得られたとき、共同体は死をむかえ、解剖学的な管理の技術が自疆的に自己を体系化するであろう。バ−ナ−ド は、このようなアイロニカルな「社会における人間の物語」(p.296) の帰趨を見据えている。

(1) C.I.Barnard,The Functions of the Executive(Cambrige,Mass:Harvard University Press,1968).以下、本文中に頁数のみ示してあるのは、いずれも同書からの引用である。訳文は、ほぼ、山本安次郎・田杉競・飯野春樹訳『経営者 の役割』(ダイヤモンド社,1968)によった。
(2) 同上訳書「日本語版への序文」pp.33-4.


【58】仮構とリアルなもの・補遺2(その1)

1.Executive Function について

 組織と個人の共正をどう実現するか。私は、この課題を純理論的に考察してみたい。
 未曾有の繁栄を謳歌する一方で、豊かさを下支えし、これに深みと風格を与える経済倫理の欠如を露呈する日本。また、日本異質論に有力な論拠 を与える、企業組織における経済活動と市民生活の領域との隔絶、あるいは、「公」と「私」の関係を律する市民的モラルの欠如。
 これらの諸問題の根底に、組織とその構成員である個人との関係をめぐる思索の不徹底が横たわっている。
 それは、労務管理論という旧来の学問分野の深化によっても、歴史的なあるいは比較文明論的な分析の蓄積によっても、おそらくあがない切れな い思想的怠惰の結晶であろう。
 私たちはいま一度、組織とはそもそも何かを、そして組織と個人(構成員)との関係はいかにあるべきかを、ドラスティックに構想し直すための 知的努力を開始しなければならない。
 私が「純理論的に」と言う意味は、そのような知的営みへの手がかりを得るために、歴史的制約を抽象した原理的な考察を行いたいということ だ。
 その際、組織と個人の共生を実現するための条件──言い換えれば、単なる人間集団という枠組みを超えた一つの社会的実在としての組織と、こ れを構成する要素としての生身の個人とが、共に(con)生き生きと(vivid)活動できる条件──を整え、維持する機能を Executive Function としてとらえ、その内容を検討することにしたいと思う。
 Executive Function (以下、 EF と略記)という語は、 C.I. バーナードの主著『経営者の役割』(The Functions of the Executive.)に由来する。
 周知のように、バーナードは、組織過程へのシステム論的アプローチによって現代経営学の開拓者とされる経営学者であり、組織の道徳的側面へ の注目によってわが国で人気の高い企業経営の実務家である。
 以下、私の議論は、バーナードの主著の読解(訓詁的な読解ではなく、それが秘めている可能性を読み解くこと)に多くを負っているのである が、ただ一点だけ誤解のないように述べておきたいのは、私は EF をあくまで組織過程の中から生まれ、同時に組織過程を稼働させる目に見えない「何か」であると考えており、バーナードの主著の邦題にあるような「経営者」 の役割、あるいは「経営職能」としてとらえているのではないということだ。
 経営者とは、まさに組織の持つ EF そのものが生み出す一種の装置なのであって、その逆ではない。
 このテーゼが、組織と個人の関係を考える際の私の基本的な立場である。

2.外部性と他者性

 バーナードは組織を社会的実在として、生きている状態にあるものとして見る。彼はこのことをゲシュタルト心理学に依拠して、「人間が関与す るかぎり、全体はむしろその部分の総計とは別物である」と述べている。
 実在としての組織は、生きている状態にあるかぎり部分の総和を超えており、そこに力を供出する人々に「言葉では説明できないような劇的、審 美的な感情」を経験させる。
 バーナードはそれを「組織感」(the sense of organization)、「共同体意識」(communal sense)あるいは「全体感」(the sense of the whole)と表現している。そして、諸部分がその独自性を失わず、全体との弁証法的対立を経て一つの実在のうちに融合しているとき──かつて、レヴィ・ ブリュルが原始心性を説明するために提唱した「融即律」に似た原理が作用しているとき──、人々は神との合一を意味するキリスト教カトリック の儀式、つまり聖体拝領に象徴される「精神的結合」(communion)の状態にある、と彼は言う。
 ところで、このような組織観そのものは陳腐である。ホロンであれ、システムの自己組織性であれ、要素に還元されない全体の神秘性をめぐる言 説は、現在ではむしろありふれている。
 高名な反哲学者の言葉をもじって言うならば、組織の中に神秘を見るのではなく組織そのものに神秘を見ようとしている点に、バーナードの可能 性があると言えるだろう。
 私が彼の主著から読み取ったことは、組織に共同性(=神秘性)をもたらすのは「司法過程」(judicial process)に他ならず、決して経営者ではないという考え方である。つまり、組織の中に「経営者」という特権的かつ神秘的な存在を見るのではなく、組 織の神秘性(=共同性)それ自体の意味・価値・内実をめぐって展開される司法過程が成り立っていることそのものに、神秘性を見ているというこ とだ。
それでは、司法過程とは何か。以下、私なりの議論を展開してみたい。
組織の中で日々発生する問題や紛争を、一般化や抽象化といった変形を加えず、その局所性、個別具体性を損なうことなく取扱い、問題を共有しあ う人々の共同作業によって人為的な解決を図ろうとする営み──これが司法過程である。
 一般的に考えられているように、司法とは究極の法原則から普遍かつ絶対無謬の解決を導く作用ではない。また、客観的な真実の発見や正しい解 決策の考案という、本来人知や人間の能力を超えた作業を行うことでも、あるいは手続き的なルールに従うことでもって真実性や正当性を擬制する ことでもない。
 問題を共有しあう人々の間での交渉と説得を通じて、言い換えると法的な原則や議論のルールへの言及、解釈、さらには新たな原則やルールの提 案をも含む法的な修辞活動を通じて、その場その時に応じて妥当な解決策を「推論」することにこそ、司法過程の本質があるのだ。
 土屋恵一郎氏は、法を「人間の関係やコミュニケーションの場を、フィクショナルなものとして構成しようとする意思のことである」と定義され ている(『社会のレトリック』新曜社)。
 ここで、定義すること自体がフィクショナルなものの構成への意思に裏打ちされていることに注目すべきであろう。
 リアルなものの、たとえば組織がその構成員に与える「審美的な感情」や「全体感」、あるいは構成員の間で共有される「共同体意識」をフィク ショナルなものを構成する現場に召喚し、推論と弁論と説得の織りなすレトリカルな言語活動の中で再定義し、いわば共同作品としての議論と解決 策を「工作」(bricolage)すること。  このような司法過程を不断に継続させるための「文法」こそが、EF であると私は考えている。
 目的の共有でも理念の共有でもない。利害関係や歴史や価値観や情緒の共有でもない。問題の共有と司法過程での議論の共有が、組織に「部分の 総和を超えた」何かを付加するのである。
 そうであれば、結局 EF とは、絶えることなく組織に「問題」を供給し続け、リアルなものをフィクショナルなものの構成現場へとたたき込む機能であると言うことができるだろう。
 私は、このような機能を次の二つの軸によって考えている。
 第一の軸。一つの社会的実在として、構成員に固定したイメージと価値観、思考・行動様式を内面化させる組織に、外部の視点を導入し、外部の 価値、外部の思考・行動様式を注入するもの。私はこれを「外部性」の軸と呼ぶ。
 第二の軸。組織構成員の間での人間関係やコミュニケーションの硬直性を、異質な価値観、行動パターン、信条体系をもった他者の視点を導入す ることによって撹乱し、共同体としての凝集性に孔をうがち、組織を自在な社会的交通(=社交)の場へと状況化するもの。私はこの EF の第二の軸を「他者性」の軸と呼ぶ。
 外部性と他者性。これらは、同じことがらの両面を言っているように思われるかも知れない。しかし、両者は決定的に作用すべき局面を異にして いる。
 外部性は、集合としての組織そのものに関する観念的な関係をめぐるものであるのに対して、他者性は、集合の要素としての具体的な個人の間で の事実上の関係をめぐるものである。両者は、あたかも空間と時間のように、決して合交わることのない異質なものなのだ。
 EF とは、これら二つの軸をクロスさせること、つまり外部の視点と他者の視点を同時に組織の中へ導入するという不可能な業を達成させる機能である。組織と個人 の共生が実現されるとは、まさにこのような機能が達成されることに他ならない。
 それでは、どうすれば外部の視点と他者の視点を同時に導入することが可能なのか。
 このことを考えるために、EF の機能不全の状態、すなわち司法過程の閉塞がもたらす組織の病理現象について見てみることにしよう。なぜなら、そこからの脱出こそ、いわば「出エジプト」 こそ、EF の最大の課題だからである。


【59】仮構とリアルなもの・補遺2(その2)

3.組織の病理現象と誤謬推論

 一つの理念型から、議論を始めたい。
 外部の視点も他者の視点も組み入れられない組織。したがって、議論すべき問題を共有することもなく司法過程も稼働しない組織。このような病 理現象を呈している組織を、「共同体」と呼ぶことにしよう。
 共同体の構成員がその恍惚たる帰一感を汲み取るべき至高の価値は、共同体それ自身である。そこでは、あたかも終わりなき祝祭のさなかにある ように、共同体は外部性と他者性から遊離し聖なる自己のイメージに自縛され、司法過程は永遠の現在のうちに停止しているであろう。そこに出現 するのは、共同体から湧出する力を搾取する預言者的リーダーか、悪知恵に長けた司祭でしかない。
彼らの仮借ない支配が遍くいきわたり、聖なるもの(共同体)との合一が禁じられ独占されたとき、そしてこのことを隠ぺいするために、外部性を 消去したまま虚構の他者性が組織に導入されたとき、そこに組織の第二の病理現象が呈されることになる。
 そこでは、組織は聖なるものとの合一がもたらす祝祭的な眩うんから醒めた、日常的で慣習的な役割関係が支配する儀礼的な世界となって現れる だろう。そして、個人が内面に秘めている非合理的で抑制し難い欲望の奔流を整序し、役割同一性のうちに捕捉するために導入されるのが、管理さ れた他者としてのスケープゴートである。
 それは、伝統的支配制に覊束された無為なる愚王として──彼が果たすべき職能は供儀の供物としてその身体を共同体に差し出すことであり、そ の責任はスケープゴート適格性とでも言うべきものとなる──あるいは、聖なるもののコインの裏側としての汚れを刻印 された「選民」として、現れることになる。
 組織の第三の病理現象は、聖なるもの(共同体)との合一チャンネルの独占を隠ぺいするため、他者性を消去したまま虚構の外部性が共同体に導 入されたときに呈される。
 そこでは、組織は外部の荒々しい力による聖性破壊への予兆に染め上げられ、純潔無垢な共同体の価値を保全するため細胞分裂さながらに内部検 閲作業に明けくれる、緊張とさい疑心に満ちた世界となって現れるだろう。そこに出現するのは、ありもしない外部を仮構し、共同体に危機を注入 するとともにその解決者として自らを演出する権力者としてのリーダーである。
 以上が共同体として実体化された組織が呈する三つの病理現象である。現実の組織を診断すれば、その程度は別として、おそらくこれらを組合せ た成分表示でもってその結果を表現することができるだろう。
 それでは、処方箋はどう書けばいいのか。
 ここで指摘しておきたいのは、共同体においては司法過程が稼働しないということだ。あるいは虚構の他者や外部という「疑似問題」をめぐっ て、管理された司法過程が展開されているということである。そして司法過程の本質は、問題を共有しあう人々の共同作業によって妥当な解決策を 「推論」することであった。
 そうであれば、病理現象を呈している組織にあっては、推論の形式──連言 [∧] 、選言 [∨]、含意 [⇒] 、同値 [⇔] 及び否定 [¬] という五つの論理詞によって示されるもの──をめぐるなんらかの支障が、すなわち誤謬推論が生じていることであろう。
 そして、組織の「出エジプト」のための処方箋は、これらの誤謬推論を真正なそれへと是正することに他ならないはずだ。
 第一の誤謬推論は、個人と個人のいまここでの部分的かつ特殊的な結合 [∧] の中から、一般化された普遍的な関係、すなわち共同性を抽出することである。
 第二の誤謬推論は、このような共同性を実体的な価値として外在化させ、全体と部分の二者択一的緊張をはらんだ関係 [∨] のうちに受肉させることである。
 第三の誤謬推論は第一と第二の誤謬推論を基礎として、異質な諸個人に同質性を外挿し、これを同一のタブローの上に並置すること、そして「〜 から〜へ」と至る多数多様でメタフォリカルな諸個人の連鎖[⇒]を破壊し、「〜ならば〜である」という本来恣意的な因果関係のうちに編制して しまうことである。
 以上の誤謬推論の結果、すべてはトートロジカルな相互同質性をもって融合し、組織の司法過程は閉塞する。その時、組織は共同体として実体化 され、第一の病理現象を呈していることなるのだ。 第四の誤謬推論は、第三のそれが諸個人の連鎖の多数多様性を破壊することで生成させた因果 的世界の恣意性・無根拠性を隠ぺいし、これを基礎付けるため、超越的・象徴的な外部世界を仮構し、因果的世界に禁忌(抑圧)あるいは全員一致 の排除のルールを外挿することである。禁忌の対象とされあるいは排除されるもの、つまり虚構の他者(あるいは内部の敵)の存在をもって、外部 世界の存在証明とするまやかしの置き換え [⇔] を遂行することである。
 言うまでもないが、第四の誤謬推論が蔓延する時、組織は第二の病理現象を呈することになる。
 第五の誤謬推論は、第四のそれと類似した推論を、置き換えではなく否定 [¬] の操作を介して行うことである。すなわち、因果的世界の恣意性・無根拠性の基礎付けを、いまここにではなく否定という人為的な操作を介して虚構の過去に求 めること、因果的世界の自己完結性(integrity)を後から遡及させることである。
 組織の第三の病理現象において、外部からの危機(否定)という虚構を介して観念される「純潔無垢な共同体の価値」とは、まさに第五の誤謬推 論が導き出す仮構である。

4.実践としての推論──結びに代えて

 「純理論的に」とはいえ、いささか抽象的な議論に終始しすぎたかも知れない。また、本来であれば、外部性や他者性の軸を組織に導入するとはどういうこと か、組織の病理現象をもたらす誤謬推論の実例は何か、それぞれ具体例をあげて叙述すべきであったろう。
 だが本稿ではあえてそれをしなかった。あくまで仮説を提唱し、その検証作業は今後に委ねたいと考えたからだ。
 したがって、以下に述べることは、本稿の結びでも結論でもない。結びに代えて、言い残したことに触れておきたい。
 ハーバート・サイモンとともにバーナードの後継者である行政学者フィリップ・セルズニックは、「いかなる社会結合体の内部にも、国家の場合 に存するのと同じような憲法問題、すなわち、内部集団の断片的な利害と組織の全体としての目標との間に協調的なつりあいを保つ必要性が、根本 的に存在している」と指摘している(『組織とリーダーシップ』北野利信訳・ダイヤモンド社)。
 このような「憲法問題」こそ、組織と個人の共生をどう実現するかという EF の最大の課題であった。そして、逆説的な言い方だが、 EF の実質は、「憲法問題」の共有という組織原理の維持と、問題の解決をめぐる共同作業、つまり「推論」を行う司法過程の継続をいかに図るかに尽 きるものであった。いわば、自己言及的な言語活動(推論)の絶えざる継続こそが、組織と個人の共生を日々実現させる「実践」に他ならないとい うことだ。
 ところで、最高規範としての憲法の基礎付けに関しては、憲法制定権力(事実としての政治権力)と憲法によって根拠付けられた権力(制度化さ れた政治権力)とをめぐるパラドキシカルな関係、あるいは現代憲法の最高原理であるデモクラシーについても、統治者と被統治者という異なるク ラスにある観念の関係や自治(自律倫理)の論理的不可能性──神は神自身持ち上げることのできない石を造ることができるか──を指摘すること ができる。
 私が本稿で言う「問題」とは、まさにこのような論理的な不可能性をもった、したがって全面的・最終的な解決のあり得ない憲法問題のことであ る。司法過程の継続とは、憲法問題を共有しあい、絶えざる「推論」によってその場その時に応じて妥当な暫定的な解決策を共同制作するプロセス である。そして、司法過程においてこそ、たとえばデモクラシーの生命ともいうべき経験の能力を組織にもたらす「賢慮」が培われるのである。
 このような賢慮の体系こそ EF の実質であり、実践としての推論を歪める誤謬推論をただし、ロゴセラピストとしての「経営者」を育む組織の骨格となるのである。