バーナードにおける仮構とリアルなもの(1988.1)





Ⅰ 過程としての共同体
 [1] 記憶・模倣・解釈
 [2] 問題の共有
  【図】修辞空間としての共同体
Ⅱ司法過程の構造
 [1] 実践的推論
 [2] 外部性と他者性
Ⅲ 経営者という装置
 [1] 誤謬推論
 [2] 手段・象徴・媒介
 結



 序 

 共同性を成り立たせる過程は何か。共同体の起源は何か。その解を得ることが、われわれが共同体を再編制し、あるいは新たに制作する技術を会得す るための前提なのだろうか。
 バ-ナ-ドは、人間協働の究極の到達点を「合一 communion」という語で表現している(p.296)(1)。しかし、この共同性の最高形態へ至る過程については、ただそこに、「人間の生に内在す る深刻な逆説」とかれが呼ぶもの──すなわち、「協働を選択する場合にのみ完全に人格的発展が得られる」といった、自由と非自由との、人間個性の 発露(自由意思)と組織された体系の個人を超過する自律性(決定論)との、相克とパラドキシカルな通底──が、その統制不能の様体で存在している ことを指摘するだけである。共同体の成員が個性を損なうことなく、しかも「聖体拝領 communion」という語が示すように、共同体の起源ともいうべき「人々の究極目標[ends]を形成する精神」(p.284) を“受肉”することがいかにして可能か。バ-ナ-ドの主著はこのような問題提起と、しかしその解決には「信念」の表明を必要とするという指摘をもって終 わっている。
 だが問題は本当にそこにあるのだろうか。つまり、共同性の成立過程や起源の探究が「経営者は何をなさねばならないか、いかに、なにゆえ行動する のかを叙述する」(2) ために残された(しかし決定的な)課題なのだろうか。また「信念」とは、私的になされるそのような探究がもたらす主観的構築物にすぎないものなのだろう か。
 ここで、バ-ナ-ドが主著の末尾に添えたプラトン『法律』(四編四章)からの引用が示唆することの意味を考えなければならない。なぜなら、そこ に「哲学と宗教の問題」とかれが規定した問題についての公共的な探究の可能性が示されているからである。すなわち、引用文が指摘しているのは、人 間の行為をめぐる自由意思(偶然)と決定論(神の支配)の対立をすりぬける第三の考え方なのである。「技術はあってもよいのだ、嵐のなかでは水先 案内の技術に助けてもらったほうがたしかに有利に違いないだろう」──このプラトンの言説に託してバ-ナ-ドが示唆しているのは、(いわゆる哲人 王による統治の要請に導かれる引用箇所前後の文脈にもかかわらず)おそらく次のようなことだ。
 自由意思と決定論の対立は、人間の行為を行為主体との照合において内在的に見るか外在的に見るかの違いこそあれ、いずれにせよ行為の本質を問う 態度において一致している。しかしそのような本質論議とは別に、行為が特定の文脈において他の諸行為と連鎖し、何らかの意味すなわち有用性を実現 するための<文法>を探究することが可能である。(「水先案内の技術」とはそのような<文法>の使用法に関するものだ。)そして、このことはおよ そすべての人間のわざについて妥当するであろう。
 たとえば、「協働の拡大と個人の発展は相互依存的な現実であり、それらの間の適切な割合すなわちバランスが人類の福祉を向上させる必要条件であ る」(p.296) という命題は、そこでいわれる「割合」が言語によって充填されない限り空虚である。バ-ナ-ドがそのような割合をめぐる問題を「哲学と宗教の問題」と規定 したのは、割合を科学的に探究することの不可能性、いいかえれば割合を客観的に語る言語の不存在をいうためであって、割合をめぐる議論が成り立ち 得ないことをいうためではない。ここで、自由意思を認める立場からは、およそ正しい割合などは存在せず、議論は採択された結論に対する責任の帰属 を決する手段にすぎないものとされ、決定論の立場からは、正しい割合は(もし存在するとしても)先験的に決定されており、議論はその発見・確認の ための方法にすぎないとされよう。だが、バ-ナ-ドが示唆するのは、そこに第三の立場があるということだ。
 社会全体と個人との間の正しい「割合」、あるいはその判定基準を客観的に語る言語はありえない。しかしこのことは、主観的な諸言説が織りなす議 論を経て導かれる結論が、(問題を真正の問題として承認しあい、かつ議論を成り立たせるル-ルをも議題として相互の了解によって定立しつつ、議論 そのものを作品として制作する人々の手になるものであるとき)、局所的な、限定された領域における問題解決にとって有用な、正しい(客観的に正し いといってもよい)「信念」であるとする主張を妨げるものではない。このような立場からは、議論という人間の営為は単なる手段・方法にすぎないの ではなく、それ自体としての意味をもち、結論に正しさを付与する過程であることになろう。そしてこのような議論を組成する諸ル-ルとそれらの使用 法の総体が、先に述べた<文法>である。
 バ-ナ-ドが示唆するこのような立場は、およそ人間行為の関与するあらゆる事象が<リアルなもの>として感得されるに至る過程を重視する視点、 いいかえれば<リアルなもの>の自然的(あるいは歴史的)生成をめぐる認識上の問題を、<仮構>の人為的制作をめぐる実践問題に転換する視点を提 唱するものである。かれが、経営者がその職能を遂行する場合、必ず「司法過程 judicial process 」が伴うと指摘するとき(p.280) 、そこでいわれる司法とは、組織において発生する問題あるいは紛争をそれ自体として、局所的で個別具体的な問題・紛争として扱い、人為的解決を図ろうとす る営為である。つまり、究極の原理から普遍かつ絶対無謬の解決を導くのではなく、当事者間での交渉と第三者への説得という修辞的活動を通じて、そ の場その時に応じて妥当な解決を工作(bricolage)するために、現実を<仮構>として再構成しようとする過程が、バ-ナ-ドのいう司法過 程なのである。
 共同性を成り立たせる過程は何か。それは司法過程である。共同体の起源は何か。それは<問題の共有>という事実──歴史的起源というよりはむし ろ共同体制作の原理ともいうべき事実──である。人々は単なる見解の相違や価値観の相違によって共同体を分裂させることはない。何が問題かをめ ぐって相互了解が存するかぎり、議論が成立するかぎりにおいて、共同体は原理的に存続しうるのである。そして、このことから次のような逆説が導き 出される。すなわち、共同体は、成員が認識枠組を共有し、あるいは共通の価値・信条体系を内面化するに至ったとき、その純粋性のゆえに死ぬ。なぜ なら、そこにはもはや議論の成り立つ基盤が存在しないからである。                 
 共同体が、その存続の原理である<問題の共有>という事実を担保するためには、ある<装置>が必要だ。それこそ、「経営者 executive」である。バ-ナ-ドのいう「経営職能 executive function」とは、組織に<外部性>あるいは<他者性>をもたらす媒介として働くこと、原理的に成立した共同体を、差異性を基調とし、異質な人間の 究極的な根拠を欠いた諸連接からなる多数多様体、すなわち<社会的なもの>の制作現場たらしめる作用である。(たとえば、聖体拝領においては、神 人という両義的な存在であるキリストが儀式に外部性・超越性をもたらし、しかも、儀式参加者が相互に他者性を認めながら、受肉によるキリストとの 合一によって信仰を通じた共同性のうちに融合する。ここで、キリストという媒介を消去したとき現われるのは、神の世界という彼岸と世俗的現世との 分裂による信仰の虚構化と(<外部性>の消去)、同質性を外挿しようとする検閲装置すなわち権力(<他者性>の抹殺)でしかない。)しかし、この ような職能を遂行すべき経営者は、それ自体組織によって産出される<仮構>に他ならない。すなわち、組織の司法過程における法的修辞活動を通じて 示される議論の<文法>こそが、<装置>としての経営者の存在様式なのである。
 共同性の成立過程や起源の探究は、探究の過程自体が共同性の成立過程であり、探究の過程を継続させるための<装置>自体が共同体の起源であると いう、パラドキシカルな回路の中で遂行される。だが、このようなパラドックスこそが共同体を<社会的なもの>の制作現場たらしめる契機なのであ る。探究が終わるとき、解が得られたとき、共同体は死をむかえ、解剖学的な管理の技術が自疆的に自己を体系化するであろう。バ-ナ-ドは、このよ うなアイロニカルな「社会における人間の物語」(p.296) の帰趨を見据えている。

(1) C.I.Barnard,The Functions of the Executive(Cambrige,Mass:Harvard University Press,1968).以下、本文中に頁数のみ示してあるのは、いずれも同書からの引用である。訳文は、ほぼ、山本安次郎・田杉競・飯野春樹訳『経営者 の役割』(ダイヤモンド社,1968)によった。
(2) 同上訳書「日本語版への序文」pp.33-4.


Ⅰ 過程としての共同体

 [1] 記憶・模倣・解釈

 バーナードによって「意識的に整合された人間諸活動・諸力の体系」(p.72)と定義された組織は、本稿で考察する共同体の概念といかなる関係 にあるのか。このことを検討するうえで示唆深いのは、組織の歴史のうちに生成する結晶としての「制度」をめぐるセルズニックの論考である。
 セルズニックは、バーナードの定義した組織を「人間エネルギーを動員し、これを定まった目標に向けていくための技術的器械」であるとし(1)、 「組織は価値を導入されたとき、すなわち、たんに道具としてばかりでなく、直接的な個人的欲求充足の源泉として、また集団の自完性 [integrity]を象徴する媒体として重要視されるようになるとき制度となる」という(2)。ここで、「価値」とは「特定の組織の中でそれ 自体、目的とみなされているもの」をいい(3)、そのような価値の持続性が「自完性」である(4)。かれによれば、制度の自完性を防衛すること、 「価値と自同性[identity]とを維持すること」は最も重要なリーダーシップ機能のひとつである(5)。また制度は、人間のパーソナリテ イーの場合と同様、「内的衝動および外的要求に対処してなされる自己保存的努力の所産」である「特殊な性格構造」をもつ。ここでいう「自己保存」 とは、「自同性」すなわち「制度の「自己」[self]がもっている自完性」に関するものである(6)。
 セルズニックのいう制度は、二つの軸から構成される。第一のそれは共時的な軸であって、組織の外部から超越的な価値が注入される通路である。第 二のそれは価値の自完性がそれにそって保持される通時的な軸である。これら両軸の交点に創発するのが人間人格と類比される制度の「自己」である。 ここで、制度の「自己」は実体的先験的に措定されるものではなく、事後的に自完性の保持を通じて出現するものと考えなければならない。そして共同 体はこのような過程および場として定義されるのである。このことをセルズニックは次のように述べている(7)。

《組織はそれが自然発生的な社会共同体である程度に応じて、一つの歴史をもつ。そしてここにいう歴史とは、内外の圧力に対する識別可能な反復的反 応様式を集合的にさしている。これらの反応が一定の型に結晶するとき、一つの社会構造が出現する。その社会構造が完全に発達するにつれて、組織は たんなる道具でなくなり、集団の自完性とその志望を表現する一つの制度として、それ自体価値をもつようになる.
 制度化とは一つの過程である。》

 共同体は、「技術的器械」としての組織から「制度」へと至る過程そのもの、あるいはそのような過程が展開される場である。それは、質的転換(非 連続性)と漸次的移行(連続性)、セルズニックの用語でいえば社会共同体の「自然発生」と「歴史」的展開とが同時に達成される錯綜した過程であ り、場である。
 まず、共同体が「自然発生」する契機、すなわち「技術的器械」としての組織が質的転換を遂げる契機は、あたかも〈仮構〉の生を生きる青年から “現実”社会を生きる成人ヘの転換をもたらす“事件”とそれへの対応──死の発見による身体の継起性と有限性の自覚、異性体験によってもたらされ る個としての身体を生きる原理の模索、心身の病理現象を契機とする自己存在の意味の探究──にたとえられよう。
 バーナードによれば、言語活動を介して展開される組織過程がこのような意味での“事件”である。かれは「発話 speech」を「人間協働のうちで、最も普遍的な形態であり、しかもおそらく最も複雑なもの」、そして「全体情況のなかで反応や変化を生む」一つの「事 件 event」であるという(pp.46-7)。バーナードにとって言語を使用することはあくまでも行為であり“事件”である。(かれの言語観は、「言語は 分析の手段としてよりも主として反応的に行為をさせる手段として有効で有用である」(p.208)、あるいは「話すということ[to talk]はたいてい推理すること[to reason]であり、推理することは話すことである」(p.304)といった言葉に端的に示されている。)
 ここでとりわけ重要なのは、後に述べるように「目的 purPose」と「決定 decision」とのパラドキシカルな関係(目的は決定の場を組成し、これを制約するルールであると同時に、決定を通じて発見・正当化される)である。 それは解決されるべき問題なのではない。このようなパラドックスこそが組織に質的転換をもたらし、セルズニックのいう制度の「自己」を創発させる 契機なのである。すなわち、目的と決定の錯綜した入れ子構造こそが、「技術的器械」としての組織に絶え間ない諸言説の交通をもたらし、「自己」の 発見とその説得のための修辞的言語活動が遂行される空間としでの共同体へと、組織を変質させる仕掛けなのである。そして、(「反応的に行為をさせ る手段」であり、「推理すること」である)言語活動を通じて、過去はそのつど構成され定義され、「記憶」あるいは「条件づけ conditioning」、すなわち「経験の能力 capacity of experience」を組織にもたらす(p.38)。このようにして成立した共同体(「生きている alive」(p.79)組織)の内部には、固有の“時間”が流れており、内部“時間”は共同体に自同性を与える。それは、単線的に推移し外在的に記述可 能な“時間”とは異なり、自らを物語に組織し、「歴史」として編纂するであろう。
 共同体の「自然発生」、あるいは組織の質的転換は、組織過程において語り得ることを不断に語り続けることによって、その諸言説の総体として示さ れる〈語り得ぬもの〉(価値)を組織の内部に繰り込むことによって成立する。(バーナードは、そのような〈語り得ぬもの〉の領域を組織の「道徳的 側面 moral aspect」(p.234)と呼ぶ。)しかし、組織の質的転換はそれ自体として無媒介的に意識されることはない。質的転換を経て獲得された価値を、漸次 的移行の歴史を介して“記憶”し、儀礼的・象徴的に“模倣”し、実践的に“解釈”する、諸言説を捕捉する枠組みの制作によって、非連続性と連続性 とを通底させる場としての共同体は、「社会構造」へと結品化されるのだ。
 セルズニックは、「制度を創造するのに用いられる技法は数多いが、それらはいずれも、日常行動のうちに長期的な意味と目的を注入しようとする。 このような技法のうちでもいちばん重要なものの一つに、社会的統合のための神話の完成がある」(8)と指摘している。ここでいわれる「神話」は、 組織に方向性を与える目的、あるいは組織構成員を鼓舞する理想を意味するとともに、同時にその表現形式をも言い表している。つまり神話とは、組次 的移行の歴史がそこから流出する根源的な物語であるというその表現形式によって、組織構成員に組織に注入された価値を“記憶”させ、その象徴性を 通じて儀礼的に“模倣”・反復させ、さらには〈語り得ぬもの〉である価値について実践的に有意味に語る営為である“解釈”へと導いていく枠組みな のである。
 「制度」は、「神話」の“解釈”をめぐる実践的な諸言説の織りなす動態のうちに示される構造である。そして、場としての共同体の枠組みのうち、 歴史的・物語的な“記憶”に関する過程は、先に述べた制度を構成する二軸のうちの通時の軸(価値の自完性がそれにそって保持される)に、儀礼的・ 象徴的な“模倣”過程は、共時の軸(組織の外部から超越的な価値が注入される通路)に、それぞれ収束していくであろう。

(1) P.セルズニック『組織とリーダーシップ』北野利信訳(ダイヤモンド社,1975年),p.9. (2) P.56. (3) P.89. (4) p.166. (5) P.85. (6) pp.196-7. (7) p.24. (8) p.209.


 [2] 問題の共有             

 共同体は、「技術的器械」としての組織からセルズニックのいう「制度」へ至る過程、あるいはそのような過程が展開される場である。場としての共 同体は、記憶・模倣・解釈という言語的実践の枠組みによって組成される。そして、過程としての共同体の運行原理は、<問題の共有>という事実であ る。
 ここで<問題>とは、「組織をいかに経営するか」ではなく──すなわち「目標成就のために整合された複数人の諸活動・諸力の体系をいかにして存 続させるか」ではなく──「(この)組織は果たして存続させなければならないか」ということでなければならない。このように定式化された<問題> は、組織解体論者(“反体制派”を含む)もまた組織過程の構成員であることを見やすくさせ、さらに、これに対する反論のために、「組織はなにゆえ に存続させなければならないか」の論証、つまり組織の根源的な存在理由である「目的」の探究を、議論遂行のために欠かすことのできない作業として 要請するのである。 <問題の共有>という事実がいかにして成立するのか。以下、目的と決定の関係を中心に原理的に分析してみよう。
 まず、目的は共時的・空間的側面をもつ。このことを、バ-ナ-ドは、「目的はそれ以外の環境の部分になんらかの意味を与えるために必須のもので ある」(p.195) と述べている。ここで留意すべき点は、バ-ナ-ドが目的を客観的環境に含めて考えていることである。決定は、目的を含む客観的環境をその存在領域とし、目 的とそれ以外の環境との関係を調節する(具体的には、目的か目的を除いた環境のいずれかを変える)ことをその機能として遂行される(p.195) 。新たな目的が決定の対象であるとき、目的は、自らがそれに対して意味を付与した「環境に即してのみ」決定され得るのである(p.196) 。

《かように相前後しながら、目的と環境とは、継続的な決定を通じて、一歩一歩、ますます詳細に相互作用をする。一連の最終の諸決定(その一つ一つ は明らかに些細なものである)は、多くは無意識的におこなわれ、それらが合して一つの一般目的の完成となり、ひとつの経験経路となるのである。》 (pp.196-7)

 「経験経路」となった目的は、組織に「経験の能力、すなわち過去の経験を生かして適応の性格を変える能力」(p.10)をもたらす。このような 通時的側面における目的は、バ-ナ-ドの表現によれば「過去と未来をつなぐ橋梁」(p.209) である。それは“現在”を、つまり、いま・ここで決定がなされるべき<リアル>な舞台を設定する。
 このように、目的には共時的な側面と、それが孕む環境との(ひいては決定との)パラドキシカルな関係を解消する通時的な側面とがある。決定は目 的のこの二つの側面による制約をうけつつ遂行される。そして、決定の集積を経て、目的はしだいに個別具体的な「目標 goal 」や「客観的目的物 objective」から、価値的・規範的な性格をもったものへと変質するのである。このことを決定に即していえば、目標の定式化・選択・変更・廃棄およ びその達成手段の決定といった「論理的分析過程と戦略的要因の識別」の側面から、価値的・規範的性格をもった目的をめぐる「道徳的側面」──いい かえれば、「組織はなにゆえに存続させなければならないか」を論証する目的の正当化の側面、あるいは、組織存続を志向する決定の場を組成するル- ル、すなわち「協働の究極的理由」をめぐる側面──へと、決定そのものもまた変質を遂げるのである(pp.233-4)。
 決定のこれら二つの側面は、目的の発見とその正当化の過程と、それぞれを呼ぶことができるだろう。まず、「論理的分析過程」を目的発見の過程と 呼ぶのは次の理由による。バ-ナ-ドは、「厳密にいえば、目的は言葉で表現するよりも、むしろ実際の行動の総合によっていっそう精密に定義され[ …] 、しかも、その行動の総合は目的と環境に関する決定の結果であり、しだいしだいに具体的行為に接近する」と述べている(p.231) 。これは以下に引用するウェイクの「目標に先行する行為」という考え方に類似している(1) 。

《行為が目標に先行するというこうした順序は、組織機能をより正確に描写するものであろう。目標の一致[goal consensus]は行為に先行して起こるべきであるという通俗的な主張は、それがために一致が起こりそうな何か実体的なもの[something tangible]がない限り、一致は不可能であるという事実をあいまいにしている。しかもこの「実体的な何か」とは、結局すでに完遂された行為 だとわかることが多いのである。このように、目標の叙述が予期的よりもむしろ回顧的であることは十分ありうるのである。》

 ウェイクのいう「実体的な何か」とはバ-ナ-ドのいう「実際の行動の総合」と同趣旨であろう。本稿ではこれを組織の論理的分析過程における諸言 説の総体と表現している。そして、語り得ることを不断に語り続ける諸言説の総体のうちに示される<語り得ぬもの>こそ、組織の「道徳的側面」にお ける決定の対象となる価値的・規範的な性格をもった目的なのである。このように、目的とはまず「回顧的」に叙述されるもの、つまり内省的に発見さ れるものなのだ。
 次に、組織の論理的分析過程を通じて見出された目的は、道徳的側面における「司法過程」において、正当化されなければならない。なぜなら、内省 はいずれ歴史的遡行へと、つまり自らの深層・起源への問いへとむかうであろうから。
 バ-ナ-ドによれば、司法過程とは、「道徳準則に対する帰向感 [sense of conformance to moral codes] を確保するために、目的の変更、または再規定、あるいは新しい特定化を道徳的に正当化する過程である」(p.280) 。だが、組織の道徳的側面における目的は「目に見えないもの」であり「無」であって(p.284) 、それ自体としては<語り得ぬもの>である。この<語り得ぬもの>を語るための枠組み、場としての共同体の枠組みこそが、司法過程の成立要件なのである。 このような枠組みを欠き、目的を正当化するための議論の場が成立せず、したがって論理的分析過程で発見された目的が組織構成員による議論を経て公 共的に受容される可能性すらないとしたら、そもそも<問題>は議論の対象ではあり得ず、過程としての共同体がその運行を開始することもないだろ う。
(「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』命題7)としても、われわれが現に生きている「世 界を正しく見る」ためには、登りきったのち投げ捨てる梯子に登らねばならず、そのための方便として無意味なこと(たとえば、倫理に関する命題)を 語り尽くすことが必要なのである(同、命題6.54)。場としての共同体の枠組みは、あたかも裁判制度の確立が始めて法的紛争という観念を生じさ せるのに似て、<問題>を<問題>たらしめる契機、ウィトゲンシュタインのいう「梯子」としての機能を果たすものなのだ。)

 目的の第一の側面(共時的側面)を縦軸に、第二の側面(通時的側面)を横軸にとり、目的発見過程としての決定を両軸によって形成された空間にお ける営為であるとしよう。そして、そこにおいて内省的に発見された価値的規範的目的を、便宜的に縦軸・横軸の延長軸から合成されるものとし、延長 された両軸によって形成された空間が目的正当化過程(司法過程)の存在領野であるとしよう。このような作図によって、修辞的諸言説の絶え間ない交 通が織りなす空間である共同体の座標が完成し、そこに四つの象限が示されることになる。(別図参照)
 第一の象限は、ほぼセルズニックのいう「技術的器械」としての組織の運行(目的発見過程としての決定)が観察される次元である。残る三つの象限 は、バ-ナ-ドが経営者の最も重要な職能として掲げる「道徳的創造性」の三局面にあてはめることができる。その一つが目的正当化のための司法過程 であることはいうまでもない。他の二つは、統治権の三区分(三権分立)に関連づけていえば、立法および行政過程である(2) 。たとえば立法過程について、バ-ナ-ドは次のように述べている。

《経営者責任は、複雑な道徳準則の遵守のみならず、他の人々のための道徳準則の創造をも要求するということを特色とする。この職能の最も一般的に 認めれれている側面が、組織内における「モラ-ル」の確保、創造、鼓舞と呼ばれているものである。これは組織ないし協働体系と客観的権威の体系 に、考え方、基本的態度および忠誠心を教え込む[inculcate] 過程である。》(p.279)

 また、行政過程は、司法過程と対比させて次のように記述されている。

《道徳的創造性にはもうひとつの側面があるが、法理学の分野を除いては、ほとんど理解されていない。これは道徳的な対立を解決するための道徳的な 基礎を工夫することであって、[…] この機能が作用するのは、ある見地からは「正しい」が、他の見地からは「誤り」と思われる場合である。かような場合の解決策は、対立を避ける新しい処置 [action] を代わりにもってくるか、あるいは例外とか妥協に道徳的正当性を与えるか、のいずれかである。第一の解決策が「行政的」[executive] であり、第二の解決策が「司法的」であるといいならわされている。》(pp.279-80)

 立法・行政・司法の三過程は、それぞれ記憶・模倣・解釈という、場としての共同体の枠組みに対応させて考えることが可能だ。まず立法過程は、 「神話」を編纂し、共同体の成員にこれを「教え込む」ことによる“記憶”の過程に対応する。(「教え込む」立場の存在は、権力関係を含意しない。 バ-ナ-ドが、権威を、主観的側面において、「伝達 [communication]を権威あるものとして受容すること」(p.163) と定義したのと同様の機制が、そこに働いている。)
 次に行政過程は、儀礼的な代替行為による「神話」の“模倣”の過程に対応する。これにより、道徳的対立は象徴的なレベルで解消されうる。バ-ナ -ドは、目的、伝達および「協働意欲 willingness to cooperate 」を組織の三つのエレメントとして掲げる。そして、専門化、権威および(協働意欲の調達手段である)「誘因 incentives 」の体系が、これら三エレメントを確保し、協働体系を構成するための三つの原理であるとする。行政過程は、これらの原理のうちほぼ誘因の体系を根底に据え て展開されるものといえよう。
(バ-ナ-ドによれば、誘因の体系は最も不安定であり、これがため組織は規模の拡大へとむかうか、あるいは差別的誘因体系の維持にむかう結果とな る。名誉・特権という非物質的誘因に関していえば、差別化は「階層制度 hierarchy of positions 」によって表現される。それは、非物質的誘因の調節に必要であるとともに、「あらゆる種類の貢献者に対する重要な一般的誘因である組織の誇り、共同体意識 [community sense]などの維持のためにも同様に重要なのである」。(pp.158-60) いわゆる官僚制組織は、目的合理的に構成された階層的組織構造の可視性によって、それがになうべき価値(たとえば法)の存在を象徴的に示している。単純化 していえば、儀礼的な振る舞いの掟(「道徳準則」あるいは“礼”)に従った形式的・代替的な“模倣”行為によって、官僚は、「神話」を顕現し、対 立を解消させるのだ。)
 最後に、司法過程は「神話」の“解釈”の過程であって、道徳的対立を解決するために設営された、言語による模擬的な闘技場において展開される。 それは、行政過程においてしだいに超越性を帯び、硬直化し始めた「神話」を立法過程へと繰り込み、また、立法過程において定立され、いまだ<仮 構>性をぬぐいきれない「神話」を組織に“受肉”し、行政過程へと連結させる。このように、司法過程こそが、「生きている」組織(共同体)におい て中枢的な位置を占めているのである。
   
(1) K.E.Weick,The Social Psychology of Organizing(2nd ed.:Reading,Mass.:Addison-Wesley Publishing Company,1979),p.18, K.E.ウェイク『組織化の心理学』金子暁嗣訳(誠信書房,1980年),p.14.
(2) 道徳的創造性の三局面を、政治思想上の三権分立のアナロジ-においてとらえる場合、国家統治作用を律する法(とりわけ、憲法)に相当するものを、組織にお いていかなるものと想定するかを明らかにしなければならないだろう。本稿ではそれを「神話」という語で表現している。「神話」とは、既に述べたよ うに、共同体の歴史を流出させ、成員の共同性を担保する根源的物語であるという通時的側面と、その象徴性を通じて状況に意味を与え、集団の同一性 を担保するという共時的側面とから合成されるものである。
 本稿では、このような意味での「神話」が実際に制作され使用されるのは、司法過程に他ならないと考えている。とはいえ、ここでいう「司法過程」 とは、裁判所における実際の過程のようにそれとして対象化され、観察されるものではない。それはあくまでも、修辞的言説が交通する空間としての共 同体における、「神話」制作・使用のための実践的言語活動(“解釈”)を分析するための概念として呈示されたものである。また、「立法過程」は、 司法過程において問題・紛争解決を通じて制作された「神話」を“記憶”にとどめるための言語活動を、「行政過程」は、司法過程において問題・紛争 解決を通じて使用された「神話」を“模倣”・反復するための言語活動を、それぞれ分析するために呈示された概念なのである。

  【図】修辞空間としての共同体

                共時的側面に
                おける目的
    [権威]          ┃          [専門化]
                  ┃
                  ┃ 目的発見過程
      立法過程:記憶     ┃ としての決定
      《指標記号》      ┃
      《換喩》        ┃            通時的側面に
 <他者性>━━━━━━━━━━━━╋━━━━━━━━━━━━おける目的
         目的正当化過程  ┃
         としての決定   ┃
                  ┃
      司法過程:解釈     ┃ 行政過程:模倣
      《類似記号》      ┃ 《象徴記号》
      《隠喩》        ┃ 《提喩》      [誘因の体系]
                <外部性>

注)《指標記号 index》《象徴記号 symbol 》《類似記号 icon 》は、C.S.パ-スが提唱する記号の三分法による。瀬戸賢一『レトリックの宇宙』(海鳴社,1986年──『認識のレトリック』に改訂増補版が収録され ている)は、これらを《換喩 metonymy 》《提喩 synecdoche 》《隠喩 metaphor 》という比喩形象に関連づけている。瀬戸によれば、指標記号・換喩は現実世界(仮想された世界を含む)にあって、象徴記号・提喩は意味世界にあって、類似 記号・隠喩は両世界の橋渡しを行う境界にあって、それぞれ隣接関係・包含関係・類似関係に基盤を置く認識その他の精神活動にかかわっている。共同 体において交通する広義の説得をめざす修辞的な諸言説が、価値をめぐる実践的営為であることのゆえに不可避的に孕まざるをえない不確実性・恣意性 をいかに縮減させるか──場としての共同体の枠組み、ひいては司法過程の成立要件を考察する上でこのような視点には興味深いものがある。


Ⅱ 司法過程の構造
  
 [1] 実践的推論       

 司法過程において、「モラ-ルを保持するために必要な解釈[constructions] や仮構[ fictions] を工夫しうるかどうか」は経営者にとって「厳しい試練」である、とバ-ナ-ドはいう 。

《というのはそれが健全であるためには、経営者からみて「正しい」[just]、すなわち全体の道徳性と真に調和しなければならないのみならず、 また受け入れられる、すなわち部分たる各個人の道徳性とも真に調和しなければならないからである。》(p.281)

 ここには、全体と部分の媒介<装置>たる経営者、いいかえれば私的言説を公的言説へと転換する契機たる経営者という重要な視点が潜んでいる。だ が、本章で取り上げるべき論点は、司法過程における決定が備えるべき条件は何か、がここに示されているということだ。それはバ-ナ-ドによれば、 第一に先例および関連する諸決定との共通の基盤である道徳準則に整合するものであること(道徳的整合性)、第二にそれぞれ独自の道徳性をもつ(と 仮定された)組織構成員に受容可能なものであること(受容ないし普遍化可能性)である。
 ところで、司法過程で決定されるのは、価値的・規範的性格をもった目的の正当性であった。一般に、価値に関する言説は、言表者の主観的価値判断 を含んだ恣意的なものであり、したがって客観的妥当性の認められない非合理的で不確実なものであるとされる。しかし、価値判断が主観的・恣意的た らざるを得ず、客観的妥当性を自己充足的に論証し得ないとしても、このことは、何らかの価値の正当性をめぐる“解釈”問題について、何が正しい解 答かを公共的に探究する営為がおよそ成立し得ないという帰結をもたらさない。司法過程とはまさにこのような営為、すなわち実践的推論 (practical reason)を可能にする制度的枠組みによって設営された場において展開される過程なのである。(そして、司法過程での決定に、暫定的ではあるにせよ、 客観的妥当性を付与する道徳的整合性・受容ないし普遍化可能性という条件は、その規範的統制を、司法過程を組成する実践的推論そのものに遡って及 ぼすことになるのである。)    
 まず第一に、司法過程で遂行される実践的推論は非合理的な営為ではない。
 実践的推論は、価値の“解釈”問題にかかわる。しかし、それは、主観的恣意的な私的言説からなる非合理的な営為ではなく、賢慮 (prudence)に基礎づけられた合理性(狭義の科学的合理性すなわち‘rationality ’ではなく、‘reasonableness’)を備えている。それは、局所的で個別具体的な問題をめぐって、問題を真正の問題として承認しあう人々に よって、説得と相互の合意調達を目的とした修辞的な言語活動を通じて闘わされる議論から構成される(1) 。このような議論を介して、暫定的にもせよ道徳的整合性と受容ないし普遍化可能性をもった決定(理に適った、‘reasonable’な決定)を工作し得 たという、そのような経験の集積が“記憶”となって沈殿し、そこに凝固した諸信念が集蔵体(archives)を形成するとき、それこそが賢慮と 呼ばれるものなのであろう。
 バ-ナ-ドが「実践的知識 practical knowledge」あるいは「行動的知識」(p.291) と呼び、「非論理的であるが高度に知的な精神過程」(p.317) と形容したのは、このような意味での賢慮を念頭においてのことであったと思われる。               (バ-ナ-(バ-ナ-ドは、科学的知識 には二種の抽象的体系が存在するという(pp.287-8 ) 。第一種の体系は協働の諸要因(物的、生物的、社会的要因)のいずれか一つに主として関係するもので、自然科学の諸体系、純粋に理論的な社会学体系など基 本的に科学的な知識体系がその例である。第二種の体系は複数の要因を横断し、あるいは包含するもので、工学体系、経済学体系、社会的・政治的・倫 理的体系など基本的に実践的な知識体系がその例である。また、科学的知識は説明と概念を提供するが、具体的なものを操作するには、「一時的、局部 的ならびに特殊的な性格の、けっして一般的価値、あるいは一般的関心とならない、きわめて多くの知識」、すなわち「具体的な問題や将来の問題を扱 う人々によって会得され、応用されるべき技術[arts]」を「用いるのに必要な常識的な日常の実践的知識」が必要である(pp.290-1)。 ここでいわれる「第二種の知識体系」と「実践的知識」とが賢慮の素材をなすものであろう。そして、バ-ナ-ドが、「全般的な経営過程の重要な側面 は知的なものではなく審美的・道徳的なものであ」り、「その過程の遂行には、適合性および適切性の感覚、そして──協働の達成を最終的に表現する ──責任の名で知られている能力を伴う」と指摘するとき(p.257) 、その最高の段階に達した賢慮の存在がそこに想定されているのである。)
 第二に、実践的推論は不確実性(可謬性)を孕んでいる。だがこのことが、実は実践的推論の有用性の根拠となる。  
 実践的推論、すなわち何らかの価値にかかわる問題について正しい解答を探究する営為が公共的に成立可能であるためには、当該問題をめぐって、議 論主体の主観・恣意から独立した客観的に正しい命題(決定)が存在しうることが必要である。そして、価値判断が不可避的に孕まざるをえない不確実 性(可謬性)に対する謙虚な、しかし徹底的な自覚こそが、客観的に正しい価値判断の存在可能性を示唆し、要請するのである。(たとえば、「限定さ れた合理性 bounded rationality」の仮説が、限定されない合理性の存在可能性を前提にして始めて成り立つように、価値判断の可謬性は、価値判断が客観的妥当性をも つ可能性を論理的に前提しているのである。端的にいえば、それが何であるか、あるいはそれに至る方法が何なのかは不明であっても、とにかく正しい 解答が存在し得るという合意が存しないかぎり、われわれはおよそ誤った価値判断すらなし得ないことになるのだ。このような事態は、論証の対象とな らない<文法>的事実である。)
 だが、ここでいう客観的に正しい命題が、議論あるいは議論主体による実践を離れて先験的に、超越的な高みにおいて存在するものでないことを強調 しておかなければならないだろう。このような立場(決定論)からは、実践的推論を構成する議論は客観的に正しい命題に到達し、あるいは確認するた めの方法にすぎない。これは、客観的に正しい命題など存在し得ず、価値判断が正しいのはそれが判断者の実存的決断に基づくからだとする立場(自由 意思論)から、議論が、仮にそれに意味があるとしても、採択された結論に対する責任の帰属を決する手段にすぎないものとされるのと対をなしてい る。
 議論を離れて客観的に正しい命題は存在し得ない(2) 。議論を継続し、議論の場で得られたコンセンサスを、それが成立するたびに批判・解体し、再び議論の過程に繰り込む、そのような終わりなき会話としての議 論から構成される不断の探究を続行させる原理として、<文法>的に疑いえない<仮構>として、それはある。
 ここで、司法過程が“解釈”の過程であるということの意味を特定しておかなければならない。過程としての共同体で中枢的位置を占める司法過程に おいて遂行される実践的推論は、価値的規範的性格をもった目的の正当性について、客観的に正しい価値判断に基づく命題(決定)の存在可能性という 原理に導かれ、これをめぐる多数多様な“解釈”からなる議論を通じて正しい決定を公共的に探究する営為であった。しかし“解釈”とは、あらかじめ 存在する究極的な価値判断をいかに認識するかということではない。あるいは、いま・ここに実存する主体によって一回性をもってなされる決断という ことでもない。“解釈”とは、一定の手続を踏んで客観的に正しい命題を制作・応用する実践であり、このような実践を議論の場に呈示することを通じ て何らかの価値の把握のしかたを示すことなのである。    
 それでは、“解釈”を議論の場で交通させるための「一定の手続」とは何か。それこそ賢慮である。(ウィトゲンシュタインが、「<規則に従う>と いうことは一つの実践である」(『哲学探究』第1部202節)というとき、<規則に従う>行動とは、「規則のある表現を別の表現でおきかえたも の」(同201節)と定義される意味での「解釈」ではないが、本稿でいう“解釈”とは、まさに<規則に従う>ことである。そして、ウィトゲンシュ タインによって「規則」といわれているものが、賢慮であろう。)       
 ここに、一つの循環が生じることとなる。すなわち、賢慮は実践としての“解釈”が織りなす議論の経験の結晶として蓄積され、“解釈”は賢慮に即 して遂行される。だが、このような循環こそが実践的推論の動力源である。そして、司法過程を規範的に統制する道徳的整合性・受容ないし普遍化可能 性という条件は、このような実践的推論を稼働させ、それが不可避的に孕まざるをえない(だがその生命である)不確実性(可謬性)を縮減させるので ある。

(1) ここで「修辞 rhetoric 」とは、語句の修飾、文彩といった辞書的な意味ではなく、「およそ人間の営みにかかわるすべての事がらに有益・有効に対処しうる知の基盤としての弁論・修 辞の術」(廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』,岩波書店,1984年,p.242.)である。
(2) 価値に関する探究のみならず、そもそも科学的探究が議論という協働によって遂行されるものである。「科学的知識は、すべて言葉とか記号体系によって表現さ れる。言葉や記号は、社会的に決定される意味をもって社会的に展開されるものである。すなわち、現象についての「終局的に」受け入れられる表現は すべて 協働的に到達したものなのである。」(p.287)


 [2] 外部性と他者性

 賢慮と、バ-ナ-ドのいう道徳準則[moral codes] とはいかなる関係にあるのか。本稿では賢慮を、司法過程を組成する実践的推論(その構成要素は議論である)に関して、歴史的に形成された叡知としての手続 であるととらえている。それは、何を議論するかということよりも、いかに議論するかという観点から蓄積された経験の結晶である。あたかも<文法> が言説を意味あるものとして交通させるル-ルとその使用法の総体であって、それに従っていかなる言語活動が遂行されるかとは直接のかかわりをもた ないように、賢慮は、議題をめぐる諸“解釈”を議論の場で交通させ、議論を不断に継続させるための規範的手続であって、議題あるいは議論の結果に は関心をもたない。もっとも、確立された手続にのっとった議論から得られた結論が、その内容ゆえにではなく、手続遵守のゆえに正統性を認められる 場合がある。しかしこのような取扱いは、手続自体から帰結されることではない。手続は議論を終了させるためのル-ルを用意してはいるが、それはゲ -ムを一時中断する方途をプレイヤ-に与えるようなものであって、議論を完結させるためではない。結論に正統性を付与するのは、手続以外の何らか の規準である。道徳準則とは、まさにこのような意味での規準に他ならない。
 司法過程での決定が備えるべき道徳的整合性は、法による統治の要諦である合法性の条件にたとえることができるだろう。そして、法による統治の原 則が、統治行為の実体的な法規準との整合のみならず、手続的な法規準との整合をも要請するように、道徳的整合性は司法過程全体にその規範的統制を 及ぼす。そのとき道徳準則は、何が道徳的善であるかというその実体的内容よりも、いかに善を追求するかという外面的な形式に重点を置いたものとな るだろう。それは、振る舞いの掟[codes of conduct](p.280) としての“礼”、あるいは作法(decorum)とでも表現すべきものである。このように司法過程を枠づける道徳準則は、組織構成員に儀礼的に“模倣”さ れ、そこを通路として価値が組織に注入される軸──セルズニックのいう「制度」を構成する共時の軸へと収束する軸──を形づくる。それは、共時的 側面における目的が組織の環境に意味を与えるものであったように、過程としての共同体に形と方向性を与える象徴的な次元へと繋がっていくのであ る。   司法過程の構造は二本の軸からなる。そのひとつはいま述べた、司法過程を共時的側面から枠づけ、過程としての共同体に超越的な象徴的次 元をもたらす軸である。それは、人間集団たる共同体全体という概念的にとらえられた世界に、これと質的に異なった非日常的な未知の空間との通路を 導入するものであるといえるだろう。このような象徴性を共同体にもたらす契機を<外部性>と呼ぶことにしよう。これに対して第二の軸は、個人と個 人の関係(仮想された関係を含む)の錯綜として構成される現実の世界に、そのような関係が、ある根源的な規定性の上に成り立つものであるという視 点をもたらすものである。そのような視点をもたらす契機を<他者性>と呼ぶことにしよう。      
 <他者性>の視点とは、社会的な関係をとり結ぶにあたって、異なる認識枠組みや価値観をもった「他者」の存在を「私」が認めること──したがっ て、いかなる機制によって「私」が「他者」を理解しうるのかを、重要な学知的分析の対象として措定すること──ではない。逆である。そのような 「他者」や「私」の社会的関係が、その根底において(逆説的ながら)関係の不可能性という事態に支えられていること、つまり固有の経験をもち価値 観を抱く「個人 individual 」という抽象的な存在が自明性をもって成立し得ず、人は「他者」や「私」である前に、関係の不可能性という根源的な“かかわり”のうちにその存在が規定さ れているのだということを痛切に自覚させるのが、<他者性>の視点なのである。ここでいう根源的な“かかわり”を、精神的な融合状態とみることは できない。むしろ、自他分離以前の(と仮想された)融合状態への到達不可能性、あるいはコミュニケ-ションにおける伝達不可能性こそが、いいかえ れば自己の有限性と未知性への深い自覚へと人を導く契機としての<他者>との“かかわり”こそが、根源的な存在規定としての“かかわり”なのだ。
(たとえば、人は他者の死を直接体験することはない。他者もまたおのれの死をそれ自体として体験することはない。このように、死を契機として<他 者>は、自他融合の不可能性、いいかえれば自己の有限性を告知する。ここで、自己の有限性の自覚は、自己の個体性、唯一にして譲渡不能な自己の固 有性への深い自覚と不可分である。それは、離在の相で見るにせよ共在の相で見るにせよ、諸「主観」として語られる自我ではない。)
 <他者性>の軸は、司法過程での決定が備えるべき第二の条件である受容ないし普遍化可能性が、その規範的統制を司法過程において遂行される営為 全般に及ぼすための制度的枠組みである。すなわち、手続を履践して議論の場に呈示した“解釈”を受容するよう説得し、あるいはこれを教え込む際 に、相手方が根源的に了解不能の未知であると仮定する態度と、いかなる道徳的善にコミットしているかに一切かかわらず、相手方との間にコンセンサ スを確立しようとする配慮、そしてその事実を“記憶”させる(コンセンサスに権威を付与し、これを前提として議論を進展させる)ための技法が、そ こで要請される。このような技法のうち最も記憶喚起力の強いものが、物語という表現形式である。この表現形式が匿名性を獲得し神話へと洗練される につれて、<他者性>の軸は、セルズニックのいう「制度」を構成する第二の軸、すなわち“記憶”された価値の自完性がそれにそって保持される通時 の軸へと収束していくのである。そして、通時的側面における目的が過程としての共同体に自同性を与える内部“時間”を繋ぎとめていたように、<他 者性>の軸は、共同体の始まり(という観念の始まり)をもたらす“事件”である根源的“かかわり”の告知者たる<他者>を(“傍聴人”として)司 法過程へ請じ入れるのである。

 <外部性>と<他者性>の両軸は、集団対個人の包含関係に基づく統合原理(支配、代表等)と、存在において対等である諸個人の隣接関係に基づく 結合原理(愛、契約等)という、社会編制原理の二つの派生原理にそれぞれ対応している。司法過程はこれら位相の異なる両軸を繋ぎ止め、両軸によっ て枠づけられた場を設営し、それぞれから過程遂行の前提条件の供給を受け、過程の不断の継続によって両軸を保持するのである。
 まず<外部性>の軸は司法過程に道徳的観点をもたらす。これによって、司法過程での決定の対象である価値的・規範的目的の正当性をいかなる観点 から問題とするのかが確定する。いいかえれば、道徳的観点が論題(道徳的対立)を産出するのである。次に、<他者性>の軸は司法過程を遂行する議 論の主体をもたらす。ここでいう議論主体は、自己の未知性──時間的に異なる価値体系の差異を同一化して得られるシリアスな自己概念を、自己の <他者=多者>性の相においてアイロニカルに解体させる未知性──を踏まえている。そうであるからこそ議論主体は相手方の「人格」の独立性を承認 するのである(1) 。ちなみに、司法過程が固有に備える過程遂行の前提条件は、議論の方法である。ここで、議論方法とはいうまでもなく言語である。既に述べた手続(賢慮)を <文法>として、議論主体による論題をめぐる諸言説を交通させる方法が言語なのである。(「一つの言語を想像するということは、一つの生活様式 [Lebensform]を想像することにほかならない」とウィトゲンシュタインはいう(『哲学探究』第1部19節)。司法過程を中枢とする過程 としての共同体とは、議論を生活様式とした諸主体による議論共同体である。)
 論題・議論主体・議論方法という過程遂行の前提条件を得て、司法過程は稼働する。そして、そこで培われた叡知としての手続(賢慮)は、<外部 性>・<他者性>の両軸を共通の場に繋ぎ止め、その類似関係に基づく共生を実現することとなる。(例を挙げれば、相互の「人格」の独立性を承認し あう議論主体という<他者性>の軸に由来する観念は、儀礼過程における役割によって全体へと統合されている部分としての「個」という<外部性>の 軸から導出される観念と、緊張を孕んだ関係をとりむすぶ。そのとき、これら二つの観念に共生のための場を与えるのが、司法過程における手続(賢 慮)なのである。このように異質な存在様式をもった価値その他の観念を共生させる手続(賢慮)の要諦は、「何のために」という問いを「いかにし て」という問いへと変換することにある。)
 司法過程がそこで稼働するとともに司法過程によって産出される場を特徴づけるのは、語り得ぬ<リアルなもの>を語り得る<仮構>として見る、つ まり「いかにして」という問いかけを介して制作の対象として見るアイロニカルな視点である。このような視点によって、価値的・規範的性格を帯びた 目的の正当性を、それがいかなる道徳的善(全体のそれであれ「個」あるいは「議論主体」のそれであれ)にコミットしているかにかかわらず司法過程 において公共的な議論の対象とすることが可能となるのである。(<外部性>の軸が体現する道徳準則が、“礼”あるいは作法ともいうべき外面的な形 式に重点を置いたものであったこと、および<他者性>の軸に由来する<他者>の未知性が、議論を通じて得られるコンセンサスがいかなる道徳的善と も両立可能であることを要請するものであったことは、いずれもこのような司法過程における議論の特質を構成する要因である。)

 司法過程は組織に共同性をもたらす過程である。しかしこのようにいうことは、司法過程が、そこで遂行される議論を通じて共同体の成員にとっての 共通目的を正当化したり、ましてや共通目的を産出する過程であることを含意するわけではない。(そもそも共同体は共通目的の存在を運行の原理ない しは起源として成立するわけではない。)
 司法過程とは、<外部>や<他者>を媒介として、組織の論理的分析過程での決定の集積の中から抽出され発見された、価値的・規範的性格を帯びた 目的の正当性を公共的に探究する過程であり、しかもこのような探究それ自体を結合・統合の原理とする人々が共生する場を制作する過程である。目的 の正当性とは、それがいかなる道徳的善にコミットしているかにかかわらず備えるべき条件を満たしていることであって、いいかえれば、異なる存在様 式をもった複数人の共生を妨げないことが論証されたとき、目的は正当化されるのである。したがって、司法過程とは、目的の共有による統合を共同性 の本質的要素とするフォ-マルな「協働」体でも、人的結合を共同性の本質的要素とするインフォ-マルな情緒共同体でもなく、<問題の共有>という 事実に立脚した議論共同体(あるいは議論を媒介とした社会的交通を共同性の本質的要素とする社交共同体)を維持するための仕掛けである。
 過程としての共同体は、<問題の共有>という事実をその運行の原理として稼働する。多数多様な組織観(conceptions of organization)が、場としての共同体において抗争しつつ、組織についての概念(the concept of organization)を共通の議論の前提として承認しあうことによって共生している。しかし組織についての概念は、既に述べたように組織解体論をも 包含するのである。ここに、<問題の共有>という事実を担保するための<装置>──目的合理的に制作された<仮構>としての組織からそれ自体価値 をもつ<リアル>な「制度」へと至る過程を完成させないために、組織を制作しつつ破壊する(制度化しつつある組織を不断にその制作現場へと繰り込 む)トリックスタ-──、すなわち経営者の存在が要請される契機がある。そして、司法過程の全動態によって示される議論の<文法>が、このような <装置>としての経営者の存在様式なのである。

(1) 自己の未知性、曖昧さが、議論を通じた他者との共生を継続していく上での最低限の倫理的資質の必要性を自覚させる。それは、バ-ナ-ドが、「いかなる道徳 性を内在させているかにかかわらず、それを実際の振る舞いにおいて有効に働かせる個人の資質」(p.267) と定義した「責任 responsibility」に相当するといえるだろう。議論の相手方の「人格」の独立性を相互に承認することは、このような責任主体として相手方を想 定(擬制)することである。


Ⅲ 経営者という装置

 [1]誤謬推論

 セルズニックは、「いかなる社会結合体の内部にも、国家の場合に存在するのと同じような憲法問題、すなわち、内部集団の断片的な利害と組織の全 体としての目標との間に協調的なつりあいを保つ必要性が、根本的に存在している」(1)という。このような「憲法問題」の解決は、先に述べた全体 と部分の媒介<装置>たる経営者の重要な職能である。そして、この職能は、司法過程が遂行される場を枠づける<外部性>と<他者性>の二軸を媒介 し、これらの共生を実現することによって果たされるのである。(「憲法問題」の解決は、人格化された経営者職能たる「リーダーシップ」の問題では あり得ない。このような意味での経営者(リーダー)の職能は、「特定の組織だけの局所的、特殊的、技術的な、限定された仮構、作業仮説、実践的仮 定、ならびに高度な象徴的表現にもとづいて進められる」ところの「行政administration」(p.292)である。リーダーは、可法過 程における終わりなき会話の主宰者ではあっても、「憲法問題」の終局的解決者ではなく、経営者という<装置>の守護者にすぎないのである。)
 <装置>としての経営者の存在様式は、司法過程における実践的推論を構成する議論のく文法>、すなわち実践的推論に合理性 (reasonableness)を与え、多数多様な“解釈”を交通させ、議論を完結させず不断に継続させる手続(賢慮)の体系である。したがっ て、その職能たる「憲法問題」の解決(いうまでもなく終局的な解決ではなく、私的言説から公的言説へ、暴力としての権力から道徳的価値により正当 化された権威へという過程を媒介することによって、暫定的に問題を解消すること)が阻まれているとき、実践的推論の過程が誤謬推論 (paralogism)に侵されているか、あるいはその結果として可法過程が閉塞し、または<外部性>・<他者性>が抹消され、共同体が病理現 象を呈していることであろう。

 誤謬推論には五つの類型があり(2)、共同体の病理現象には三つの類型がある(3)。(あらかじめ概要を述べておくと、それらは、独立の「人 格」を承認しあう諸個人の隣接関係に超越的な価値実体が外挿され、これが全体対部分の包含関係において二重拘束的に“受肉”されるという、二つの 誤謬推論を基礎として、 “解釈”・<外部性>・<他者性>にそれぞれかかわる残りの三つの誤謬推論が、共同体の病理現象の三類型に対応するという関係にある。)
 まず第一の誤謬推論は、く他者>との隣接関係に基づく個別具体的な結合が、部分的かつ特殊的なものとして現出させる<場>を、具体的な結合から 分離させ、それ自体を価値として実体化し、外在的超越的な結合原理として「他者」との隣接関係に外挿するものである。
 先に述べたように、<他者>とは、それとの結合が本来不可能な異質な存在様式(たとえば神人[hero]やAI)をいうのであって、「私」とは 異なった経験や価値観の所有者たるもう一人の「私」、すなわち「他者」を意味するのではない。また、(その存在は自明であると意識される)「私」 と、共通のタブロー上での差異によって把握された「他者」との間に存する「場」は、本稿でいう共同体ではあり得ない。本稿でいう共同体とは、 「私」と「他者」とがそこにおいて同時に成り立つ共同主観的な「場」ではなく、むしろそのような「場」を有用な<仮構>として制作する過程なので あり、相互に未知であるという根源的な差異によって規定された、<他者>との間の関係定立の不可能性という“かかわり”、いいかえれば相互に相手 方の有限性を告知しあう対面状況こそが<場>としての共同体なのである。第一の誤謬推論は、このような<場>を「場」に、<他者>を「他者」にそ れぞれ変質させ、「私」の有限性を欠如としてとらえ、これを補填するものとしての共同性を、「私」にとって外在的超越的な価値、あるいは「他者」 との結合原理として外挿するのである。
 第二の誤謬推論は、「他者」と「私」を通底する「場」における共同性という価値を、全体と部分の二者択一的緊張をはらんだ包含関係に、このよう な包含関係に基づく統合をく外部>から支える原理として“受肉”させるものである。これによって、全体と部分が神経症的に一体化されるか、共同性 という価値が規範として部分たる「個」に内面化されることになる。全体か部分かという選択は、そのどちらを選んでも行きつく先は同じという「二重 拘束 double bind」的状況に陥るわけである。
 先に述べたように、<外部>は到達不能の<外部壼>として、極限としての象徴的次元への志向性として、<外部>へ至ろうとする過程において観念 されるべきものであった。だが、第二の誤謬推論は<外部>を無媒介的に抽出し、<外部>こそがそれを志向する過程を超越的高みからつりさげるか根 底的に支える本質的な統合原理であるという、倒錯した観念をもたらすのである。(「われ有り」と名のる神がモーセを通じてイスラエルの民に律法を 授けたという“説話”からも明らかなように、人間集団の統合原理は、その根拠をつきつめていくと必ず<外部>へと至る。それは、翻って<内部>と いう観念を生み、<内部>における統合原理の無根拠性を発きたてるであろう。しかし、このような無根拠性は、それを終局的に解決するために<外 部>が必要とされる「問題」なのではない。むしろ、それこそが、本稿でいう共同体として稼働するために必要な<問題の共有>という事実を人間集団 にもたらすのである。)
 第三の誤謬推論は、第一と第二の誤謬推論を基礎として生成し、司法過程における“解釈”の開塞をもたらす。それは、多数多様な諸実在に本質的な 同質性を外挿し、同質性を表象する象徴を諸実在の連鎖の<外部>へ拉致し、これを尺度にして「個」としての諸実在を同一のタプローに登録し、再び これ(象徴)を諸実在の連鎖の過程に組み入れる。その結果、諸実在は「~から~へ」と至る多数多様でメタフォリカルな連鎖を破壊され、「~なら ば~である」という一対一対応的な推論(帰納法あるいは演繹法の形式を装った、本来恣意的な推論)の連鎖のうちに編制されてしまうのである。その ような世界では、“解釈”は実践性を喪失し、単一の価値の量的な差異として諸実在の意味を裁定するだけの営為でしかありえないだろう。(それ自身 も商品として流通し、商品の生産・登録(流通)・消費の諸過程を通底する価値の尺度として機能する貨幣が、あたかもその不可視の身体に価値を“受 肉”した特権的な存在であるように、<外部性>を喪失した象徴は、世界を一神教によって統治し独我論的な統一体に変容させるのである。)
 このような、諸実在の多数多様性の破壊による一対一対応的な推論世界が司法過程を覆うとき、共同体は第一の病理現象を呈している。そこでは共同 体の固有の内部時間は進行を休止し、すべての過程は「永遠の現在」のうちに停止しているであろう。なぜなら、このような推論世界では、あらゆる事 物が同一の価値を内蔵し、あらゆる事件が同質性を帯び、すべてはトートロジカルな相互規定性をもって織り合わされ融合しているのであって、そこで は人間にもその集団にも「経験の能力」はその有用性が認められず、また議論の過程を経て公共的に推論されるべき実践問題が存在しないからである。
 ここで、共同体がその洸惚たる帰一感を汲み取るべき「聖なる」至高の価値は、実は共同体それ自身である。このように実体化された共同体こそが、 セルズニックのいう制度の「自己」なのであろう。(第1章の図でいえば、共同体の四象限を描き出す縦軸と横軸0、本来交わることのない交点から創 発し、共同体に垂直の次元あるいは深さの次元をもたらすのが、共同体の過去と未来をそこから流出させる「永遠の現在」としての「自己」なのであ る。)
 あたかも終わりなき祝祭の最中にあるように、共同体は<他者性>と<外部性>から遊離し、「聖なる」至高の存在、つまり無窮の力の淵源である純 潔なる「自己」へとむかう倒錯した存在となる。そのとき、経営者という<装置>はその稼働を止め(なぜなら、そこにはもはや全体と部分の「協調的 なつりあい」をめぐる「憲法問題」が存在しないから)、人格化された経営者(リーダー)は過程としての共同体に充満する力を枠づけ・活用する (harness)のではなく、実体化された共同体から湧出する力を搾取するカリスマ的預言者か狡猾な祭司でしかないであろう。
 彼らの仮借なき支配が遍くいきわたり、「聖なるもの」との合一が禁じられ独占されたとき──いいかえれば、「自己」が<外部性>の軸に折り重な り<外部>へと隠蔽・放逐されたとき──、そこに第四の誤謬推論とそれがもたらす共同体の第二の病理現象が出現することになる。また、「聖なるも の」との融合の禁止が、「あらかじめ失われた共同体」という観念にその補償を見出したとき──いいかえれば、「自己」が<他者性>の軸に折り重な り<他者>を捕捉し変質させたとき──、そこに第五の誤謬推論とそれがもたらす共同体の第三の病理現象が出現することになるのである。
 第四の誤謬推論は、第二の誤謬推論が諸実在の多数多様性を破壊することで生成させた一対一対応的な推論世界から「聖」性を回収し、<外部>(超 越的な象徴的次元)を分離することによってこれを秩序づけ、司法過程における<外部性>を抹消する。それは、まず一対一対応的な推論世界に禁忌 (抑圧)あるいは全員一致の排除を導入する。禁忌は「聖なるもの」の“模倣”(たとえば、その「名」を回にすること)を対象とし、排除は供儀によ る「聖なるもの」の再現(全員一致の“模倣”)をこととする。ところが、このように禁忌の対象とされ排除の契機とされた「聖なるもの」は.身体か ら剥離された生命という観念のように、虚構にすぎないのである。にもかかわらず、あるいはそうであるがゆえに、ここで次のようなとりちがえの誤謬 推論が完成する。つまり、抑圧され排除されるものとは、実は「聖なるもの」を殺害し、これにとってかわろうとするわれわれの秘められた欲望に他な らなかったのだ、という推論が。
 共同体の第二の病理現象は、「聖なるもの」との共生がもたらす祝祭的な眩量から醒めた、日常的で慣習的な役割関係の支配する儀礼的世界となって 現われる。そのとき司法過程は、議論主体間の多数多様な諸連接を事後的にカテゴリー化し、役割間の論理的な階層秩序によって総合する、操作性を帯 びた“解釈”によって様式化されていることだろう。なぜなら、議論主体はそれぞれ非合理的で抑制し難い「忌まわしき欲望」を内面に秘めており、そ の自由な奔流は秩序を阻害すると考えられることから、これを役割同一性のうちに捕捉し、未知性(個性)を排除する必要があるからである。また、そ のとき人格化された経営者(リーダー)は、伝統的支配制に覇東された無為なる愚王か──かれが果たすべき職能は供儀の供物としてその身体を<外 部>へと差し出すことであり、その責任はスケープゴート適格性とでもいうべきものとなる──、あるいは共同体に危機を注入しその象徴的もしくは最 終的解決者として自らを演出する英邁なる君主にたとえられるであろう。
 第五の誤謬推論は、第四のそれに類似した推論を、「聖なるもの」としての<外部>にかえて起源という虚構へと歴史的に遡行することで遂行し、司 法過程における<他者性>を抹殺する。それは、まず「自己」の自完性(integrity)を犯す一切のものを否定・排除し、その反動として、本 来このような否定・排除の前提であった無垢なる「自己」という観念を後から生成させる。ここで、「自己」の無垢性は、それが観念されると同時に犯 されており、いわば否定性を存在様式とする観念であることが見落とされてはならない。なぜならここにこそ「あらかじめ失われた共同体」という虚構 が、いま・ここに現存する悲惨なあるいは堕落した共同体が再びそこへ帰還すべきアルカディアとして観念される契機が存するからだ。そして誤謬推論 の完成とともに<他者>は起源にとってかわられる。すなわち、あの、対面する者に関係定立の不可能性という根源的な“かかわり”と有限性・未知性 を告知する<他者>、さらに有限性・未知性の告知を通じて対面者に自己の個体性・唯一性の深い自覚をもたらす<他者>は抹殺され、そこに、あらか じめ失われた起源としての共同体という虚構がその倒錯した姿をあらわにするのである。
 共同体の第三の病理現象は、偽りの「自己」を徹底的に否定し、無垢なる「自己」復活の予兆に満ちた未来を先取りして生きようとする現実破壊的な 世界、失われた「自己」奪回の闘いをひかえ、すべてが未知性の標識を帯びて緊張した世界となって現われる。そのとき司法過程は、「自己」の自完 性・純潔性を犯す一切のものを糾問する“免疫”過程にたとえられるであろう。しかし、糾間の基準である「自己」の無垢性は既に失われているのであ る。結局、司法過程は、開じられた共同体の時空間を細胞分裂さながらに差異化し、そこに不可視の<他者>、つまりあらかじめ失われた起源としての 共同体という虚構によって隠蔽された<他者>を垣間見ようとする倒錯した「自己」探究の試みによって組成されることとなるだろう。また、共同体が このような病理現象を呈しているところでは、人格化された経営者(リーダー)は、法であれイデオロギーであれ、何らかの価値体系(「自己」識別基 準)を外挿し、合法的支配者として管理あるいは検閲に撤するしかないであろう。

(1)セルズニック前掲書,P。15.
(2)以下に述べる誤謬推論は、五つの論理詞(連言[∧]・選言[∨]・含意[⇒]・同値[⇔]・否定[¬])にそれぞれ関係づけることができ る。なお、本稿の誤謬推論の記述は、ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳,河出書房新社,1986年) から示唆を得ている。
(3)木村敏『時間と自己』(中央公論社,1982年)は、人間の自己意識と時間には密接な関係があり、自己という存在をめぐる危機は必ず時間に 関する特徴的な異常を伴うこととなるとし、分裂病、単極型鬱病の二大精神病および癲癇・躁鬱病・非定型精神病からなる第三の狂気に特徴的な時間構 造を、それぞれ「アンテ・フェストゥム」(前夜祭)的、「ポスト・フェストゥム」(祭りのあと──ルカーチの使用した用語)的、「イントラ・フェ ストゥム」(祭りのさなか)的と形容している。
 同書の詳細をここで紹介することはできないが、以下本稿で論じる共同体の病理現象の三類型が上記精神病の三類型のアナロジーであること、分裂病 のアンテ・フェストゥム的時間構造を<他者性>の抹殺による共同体の疾患に、単極型鬱病のポスト・フェストゥム的時間構造を<外部性>の消去によ るそれに、第三の狂気のイントラ・フェストゥム的時間構造を司法過程の開塞によるそれに、それぞれ対応させて参照したことを記しておく。


 [2]手段・象徴・媒介

 病理現象は、これに陥った共同体がそこから脱出すべき異常な状態である。だが問題は“出エジプト”そのものではない。いかに脱出するか、あるい はいかに治癒するかが肝要なのである。
 まず、病理現象(あるいはその基礎をなす誤謬推論)は、回避されるべき異常にすぎないものではなく、それ自体有用性をもった現象であることが理 解されなければならない。その有用性とは、過程あるいは場としての共同体に、たとえそれが異常な姿ではあるにせよひとつの形を与えることによっ て、本来<語り得ぬもの>であるはずの共同体についての言説を可能にし、ひいては<語り得ぬ>共同体、すなわち<問題の共有>という事実を運行の 原理とする共同体の存在可能性に気づかせることにある。ここで<問題の共有>という事実は、共同体についての諸言説の交通を支える原理であり、こ のような原理に基づく共同体の存在を<文法>的真理たらしめるのである。
 共同体は──あたかも、経験の伴わない観念によって粉飾された<仮構>の生を生きる青年が、心身の病理現象を契機として自己という存在の意味を 探究し、探究の徹底によって、自己を自己たらしめる他者の存在と他者との共生の場である<リアル>な“現実”社会の存在に気づくように、あるいは 芸術家が自らの異常を深く自覚し、異常を異常として生きることを通じてこれを克服する構想力を培い、作品へと結実させるように──、自らの病理現 象を契機として、共同体を本来の共同体たらしめる“約束の地”の存在可能性に気づき、これを作品として、つまり<仮構>として制作するための構想 力を培う場を内蔵するのである。
 ここで、本稿では共同体を、「技術的器械」としての組織から「制度」へと至る過程であると同時に、制度化の過程がそこで遂行される場であると定 義していたこと、これに対して「共同体」という語で通常観念されるのが、病理現象によってひとつの形を与えられ実体化された(そこに内在する者に <リアル>な実在性を感得させる)共同体であることを明記すべきであろう。本稿でいう共同体は、自らへと至る過程であり(なぜなら、<リアルなも の>としての「制度」とは、それへ到達しようとする共同体の無限に続く過程の極限値に他ならないから)、同時にこのような過程を成立させる場でも ある。この二重のパラドックスに彩られた<語り得ぬ>共同体の存在は、病理現象を契機として実体化され対象化されることを通じて気づかれるので あった。それでは共同体が病理状態を脱出し、その過程を遂行することによって制作しようとする“約束の地”、共同体を本来の共同体たらしめる“約 束の地”とは一体どのような場なのか。いいかえれば、共同体は、自らが陥った病理状態からいかに脱出し、いかに治癒しようとするのか。実はここ に、経営者という<装置>が共同体にとって不可欠である所以が存するのである。
 先に述べたように、<装置>としての経営者とは、このような<問題>をめぐる議論の集積を経て制作される<仮構>であり、かつく問題の共有>と いう事実を担保することで議論を不断に継続させる<文法>を、その存在様式とするものであった。その職能は、共同性の成立過程である可法過程を枠 づける<外部性>と<他者性>の両軸を媒介し、その共生を達成することによって共同体の「憲法問題」を解決すること、そして<問題の共有>という 事実によって<原理>的に成立した共同体を多数多様体すなわち<社会的なもの>の制作現場たらしめることにある。(結論を先にいえば、ここでいう <社会的なもの>こそが先に述べた“約束の地”に他ならない。そして、<社会的なもの>の制作現場において、人は始めて自由意思と決定論の相克を すりぬけ、立場なき立場すなわち<自由>を獲得するのである。このような<自由>の達成こそ、バーナードが構想した最高段階にある共同体の究極の 存在理由なのであろう。)
 経営者という<装置>は、第一に、共同体に<外部性>と<他者性>をもたらすことによって、共同体を病理状態から脱出させる。
 <他者性>とは、いま・ここにいる隣人が、関係の不可能性という根源的な“かかわり”を介してこれと対面する者の有限性と未知性および唯一性を 告知するあの<他者>であり得ること(潜在的にせよ<他者性>を帯びていること)、あるいは隣人との結合が<他者>の存在を媒介として成り立つも のであること(つまり、“私”の内なる<他者>が“私”を成就させるのであるとともに、隣人もまたそのような<他者>によってその存在が根源的に 規定されていること、逆にいえば、隣人との個別具体的な結合が成立する限りにおいて、“私”と隣人との“あいだ”に根源的・超越的な<場>すなわ ち<他者>が垣間見られること)をいう。そのような事態の深い自覚に促され、隣人を、彼あるいは彼女がいかなる道徳的善にコミットしているかにか かわらず、一個の「人格」の担い手として“愛する”ことが、共同体における個人と個人の隣接関係に基づく共生・結合の原理となっているとき、共同 体に<他者性>がもたらされているといえるのである。
 一方<外部性>とは、異質な存在様式をもつ諸「人格」の究極的根拠を欠いた諸結合の連鎖からなる総体が、(目的の共有あるいは何が道徳的善であ るかについての認識の一致に基づくのではなく)各人がいかにしてその目的や善を追求するかをめぐる外面的形式的な振る舞いの掟または作法を共通の 岩盤として、場としての共同体を形成することをいい、同時にそのような作用を人間集団に及ぼす機制、すなわち差異性・質的未知性に彩られた非日常 的な空間への志向性をいうものである。<外部性>は、目的や価値信条体系の共有によって定義される共同体、あるいは「個」を超過する有機的体系・ 社会的実在としての共同体といった、通常観念される「共同体」を単体として規定する原理ではない。むしろそのような多数多様な「共同体」(ある特 定の「共同体」が時間の推移に応じて見せる差異を含む)が錯綜しつつ交通しうる<場>(諸「共同体」の“あいだ”)という普遍的な空間へと、<外 部性>は通底しているのである。全体対部分という包含関係が、部分としての諸器官の合成による有機的全体への統合ではなく、部分たる「個」の多数 多様な諸連接それ自体が不可視の全体であるという、一即多のアイロニカルな統合原理へと結実しているとき、共同体に<外部性>がもたらされている といえるのである。
 経営者という<装置>は、質的に異なる<他者性>・<外部性>という共同体の二つの契機を媒介することによって、これらを病理現象に覆われた 「共同体」にもたらす。いかなる方法でこのような職能を果たすのかといえば、まさに<他者性>と<外部性>という異なる位相に位置する契機を、い かに共生させるかという「憲法問題」を「共同体」に導入し、これをめぐる議論を終わりなき会話として継続させることを通じてなのである。
 そして、<問題>を共有する議論主体の社会的な交通(社交)の場を設営し、そこで遂行される過程、すなわち司法過程の不断の継続を可能にする <文法>あるいは手続(賢慮)を提供することで、経営者という<装置>は、病理状態から脱出した共同体がいかに治癒しようとするのかに関する、第 二の職能を果たす。ここで決定的に重要なのは、それがどのような形態をとるにせよ、“出エジプト”後に構想される“約束の地”における共同体は、 異質な存在様式をもつ諸「人格」の共生とその多数多様な連接を保障し、しかもこのような<自由>を損なわず、むしろ<自由>を介して個人を統合す る人間集団でなければならないということだ。(自他および部分と全体の精神的融合(第一の病理現象)、日的や価値信条体系の一致を存続原理とする 機械的(決定論的)な抑圧体系(第二の病理現象)、そして管理者・検閲者(自由意思の担い手)による免疫機構を内蔵した有機体(第三の病理現象) という三つの病理現象間の相互転換は、いうまでもなく治癒ではない。)
 経営者という<装置>は、共同体がめざすべき形態あるいはその実質的内容については沈黙する。それは共同体がむかうべき治癒の方向と、めざすべ き形態がどのようなものであれ共同体が備えるべき最低限の形式的条件を示す。多数多様体すなわち<社会的なもの>がその方向であり、<自由>がそ の条件である。だが、<社会的なもの>は、<自由>に連接する諸主体の“あいだ”、よリー般化すれば病理現象からの脱出を遂行しつつある諸共同体 の“あいだ”という不可視の空間に位置する──そこで(たとえば政治的な事柄に関して)公共的な意味を産出するデモクラティックな(しかしそれ自 体は私的な)関係を可能にする──、それとして示すことのできない場である。結局、<装置>としての経営者は、共同体を、<社会的なもの>がそこ で制作される現場たらしめるべく作動することになる。そして、過程および場としての共同体が実体化され、たとえば有限者たる人間の限定された能力 という欠如を補填し近似的にせよ全能の力を付与する“手段”として観念されるに至ったり、あるいはそれへの無定量の忠誠が要請される価値実体とし ての“象徴”性を帯びたとき、これを解体しつつ、それにかかわる者に<自由>の自覚をもたらす“媒介”として共同体を再構築することが、経営者と いう<装置>の最高の職能なのである。
(このような職能が十全に果たされているとき、共同体はその本来の存在を全うしており、成員はその<自由>を保持しこれを満喫しつつも同時に共同 体への責任を成就するという、自由と非自由とのパラドキシカルな通底を実現する。共同責任をもつ「成員は自由であっても、でたらめに行動する自由 はきわめて少なく、すべての、あるいはたいていの行動が彼らにとってあらかじめ定められている」──バーナードが主著の冒頭において引用する、ア リストテレス『形而上学』の一節は、その目的論的色彩を払拭するならば、「自由意思と決定論という昔ながらの問題」(p.295)に対してバー ナードが与えようとした解法を予告するものであったといえよう。)
 バーナードのいう「合一 communion」とは、<自由>な自己決定の主体が同時にその根底において<社会的なもの>によって規定されている状態、つまり個人主義(自由意思) と集団主義(決定論)が相克しつつ通底している、人間協働の究極の到達点を示す表現であった。そして、<社会的なもの>の制作現場としての共同体 においてこそ、このような意味での「合一」が実現するのである。


 結

 バーナードは、組織を「二人以上の人々の協働的活動の体系──触知しえない非人格的なものであり、主として関係の問題」と抽象的に定義する。し かし、「実体ではなくて、むしろ主として種々の関係によって特徴づけられるような無形のものを実用的な意味で取り扱わねばならないときには、なん らかの具体的なものでそれを象徴するか、あるいは擬人化しなければならない」。そこでかれは、「表現の便宜上、しばしば組織を人間の集団と考える 習慣に従い」、通常われわれが「構成員 metters」と呼ぶ人々より広く、顧客その他「組織を構成する活動」を行う者を含めた「貢献者 contributors」という語で、組織という体系を象徴する人々を表現するのである。(pp.74-5)
 ここには、バーナードの方法の中心をなす思考が示されている。
 かれは、協働体系を分析し経営者の職能を叙述するという研究課題を達成するために、まず、そこに内在する人々にとって<リアルなもの>である協 働体系を徹底的に抽象化し、構成員の集合ではなく「協働的活動の体系」(「意識的に整合された人間諸活動・諸力の体系」)として見る方法、すなわ ち人為的な努力の成果として構築された<仮構>として見る方法を採用する。このような方法によってのみ、組織の「貢献者」という、その外延の設定 いかんでは広く社会一般にまで協働体系の存在領野を及ぼしうる概念を入手することができる。(本稿で、場としての共同体がよリー般化された普遍的 な場へ通底していると表現したのは、このことを極端化したものだ。)さらに、このような方法によって始めて、「実体ではなくて、むしろ主として 種々の関係によって特徴づけられるような無形のものを実用的な意味で取り扱う」ための技法の探究という、組織と経営についての学的営為の根本課題 を設定し得るのである。
 <リアルなもの>を人為的な努力の成果として構築された<仮構>として見る視点は、同時に<仮構>が、あたかも人為的に制作される芸術作品のよ うに<リアルなもの>でありうることを含意している。したがって、「無形のものを実用的な意味で取り扱う」ための技法の探究は、このような意味で の作品として組織を制作すざ滋「組織化の技法」の探究に直結しているのである。(バーナードは、「世論」「集団態度」そのlLの名で呼ばれている 「インフォーマルに成立した共同体の共通感覚」をフォーマルに述べたものが、「権威は上から下へ下降し、一般的なものから特殊的なものにいたると いう仮構である」という。このように、「共同体意識の実行の用具」である「上位権威」という観念を<仮構>と表現するのは、「論理的構成の見地か らすれば、それが外面的な行為を説明するにすぎないからである」。「しかしながら」と、ここでバーナードはいう。「上級役員としても部下として も、私は“権威”ほど“リアル”なものは実際にないと思っている」。(pp.169-70)ここでかれが<リアルなもの>と表現したのは、実際に 稼働している具体的な上位権威の<仮構>がもたらす関係に内在している者にとって、物象化された形で「権威者」の所有する「権威」が<リアルなも の>として錯覚されているにすぎないということではない。芸術家の営為にも比すべき「組織設計」(p.186)を通じて、作品として上位権威とい う<仮構>を創出する過程を生きる者にとって、<仮構>がそれ本来の機能を果たしているとき──「共同体の共通感覚」を外挿し“記憶”させる“手 段”でも、これを階層秩序に“受肉”し“模倣”させるための“象徴”でもなく、“福音”としての「共同体の共通感覚」を告知する“媒介”としての 機能を果たしているとき──、<仮構>はそれ自体<リアルなもの>であり得るという逆説を、かれは指摘しているのだ。)
 「組織化の技法」は、実は、既に存在している共同体──バーナードによれば国家と教会を典型とする共同体──の成立過程とその<起源>を探究す る過程そのもののうちに織り込まれている。
 正確にいうと、まず、共同体が実体として存在するという観念を、われわれは国家あるいは教会とのかかわりの体験を経て既に取得している。あらゆ る組織(バーナードが定義したそれではなく、人々の集合あるいはそれ自体として存在する社会的実在という、一般の用法における組織)は、このよう な共同体の観念に導かれ、それをめざして運営されるのである。だが、バーナードが「合一」と呼び、「共同体意識」あるいは「言葉で説明できないよ うな劇的、審美的な感情」(「組織感 sense of organization」)(p.xxxiv)、「全体感」(p.235)といつた言葉で表現しようとした人間集団の共同性は、そのような実体化された 有形の存在のうちに見られるものではない。それは、自分自身へ至る過程として、またそのような過程が遂行される場として感得されるべき語り得ぬも のなのだ。
 われわれもまたバーナードが生きた時代、つまりあらゆる組織が疑似国家あるいは疑似教会を目指しつつ競合している「組織社会」を生きている。そ して、そこから<外部>ヘ出ることはできない。なぜなら、<外部>へ出ようとするわれわれの意識そのものが、国家あるいは教会を典型とする実体化 された共同体の<内部>で形成されたものに他ならないからだ。そうであれば、われわれがとるべき方法はただ一つである。そのような事態を意識的に 生きること、ただしできる限り論理的に明晰な<仮構>として組織を再構築し、実体化された共同体(本稿でいう病理現象におちいった共同体)の共同 性の成立過程とその起源を探究しつつ、その<内部>を生きること──バーナードが主著において採用した方法こそがそれである。そして、そのような 組織と経営に関する学的探究が遂行される場が、かれのいう「司法過程」なのである。
(司法過程が遂行される場はもとより<外部>ではない。また、生きた経験から遊離して、これを事後的にあるいは事前に裁こうとする「超自我」の座 す法廷──いわば、<内部>に仕掛けられた<外部>──でもない。むしろ、日常的な組織過程を徹底的に意識的に生き、そこで日々展開される誤謬推 論を自覚しつつ「決定」を遂行するとき、そのような場がそこに出現しているのだというべきであろう。)
 「組織化の技法」は、共同性の成立過程や起源の探究の過程(司法過程)のうちに織り込まれている。そして、本稿で実践的推論を遂行するための賢 慮と表現した技法(すなわち「無形のものを実用的な意味で取り扱う」ための技法)を培う司法過程の不断の継続を担保するものこそ、バーナードがそ の主著で追求した「組織化の技法」なのである。
 ここで、国家を「法の支配」の理念に立脚し“正義”を原理とする社会統合をめざす共同体の範例と、教会を「神の支配」の教義に導かれ“愛”を原 理とする社会結合をめざす共同体の範例と、とらえることができるかもしれない。(前者は共同体の<外部性>の軸から、後者は<他者性>の軸からそ れぞれ抽出された範例である。)“正義”は、部分を全体のために徴用することを例外なく是認する極端な功利主義を包含し得る。また“愛”は、たと え自己のすべてを他に与えたいという自己犠牲の念のうちにあってさえエゴイズムの共存を許し得る。このような宿病から共同体を救出し、人間の諸属 性への平等な配慮を旨とする“正義”と、人間の個体性およびその不可侵性への配慮を旨とする“愛”という二つの社会編制原理を連結する技法が、 バーナードの構想した「組織化の技法」だったのであろう。
 バーナードが「哲学と宗教の問題」と規定した、「協働の拡大と個人の発展」との間の「適切な割合」をめぐる問題(あるいは、セルズニックのいう 「憲法問題」)は、“正義”と“愛”の連結という困難な技の追求をめぐる問題に異なる表現を与えたものだ。そして、このような問題の共有こそが共 同体を原理的に成立させる事実だったのである。(「(この)組織は果たして存続させなければならないか」と、“正義”の観点から、あるいは“愛” の観点から不断に問いかけられることこそ、共同体が稼働する動力源である。)それが何か、そしてそれをどのように知ることができるかは別として、 <問題>に対する正しい解答は存在する。(より厳密にいえば、正しい解答が存在するという合意は成り立ち得る。)だが、<問題>の最終的な解決は あり得ない。なぜなら、公共的な議論による正しい解答の探究の過程を継続させること──探究の過程そのものをも議題とし、あるいは探究する議論主 体の存在根拠をも議題とする終わりなき会話としての議論を完結させないことのうちに、正しい解答の存在可能性は告知されるのであって、<問題>の 最終的な解決はこのような議論の完結をもたらすものでしかないからだ。
 正しい解答の探究は、本稿で論じた<語り得ぬ>不可視の共同体の成就、すなわち<社会的なもの>の制作現場の現出をもたらす。このような共同体 の成就へ至る場は、決してどこか超越的な高みに存するのではない。いま・ここに、局所的で個別具体的な問題・紛争をそれ自体として扱い、その人為 的解決を工作しようとする日常的な営みのうちに、場は実在する。そこでは解決の挫折の経験でさえ、いやむしろ解決の不可能性への失望こそが、<語 り得ぬ>共同体の実在と、われわれをそこへ導く「組織化の技法」の存在という“福音”を告知するのだ。バーナードが次のように語るとき、個別具体 的な組織の経営という経験を通じて獲得される「組織化の技法」が、より普遍的な場へと応用可能であることが指摘されているのである。

《人は世界の分裂の証左をみて、それがあたかも世界的統合からの根本的な変化であるかのように思って、落胆しているのが現状である。しかしこの失 望こそ、世界的統合の実現に先立つべき信念、すなわち統合の拡大強化が必要だとする信念のある証拠である。かかる信念が普遍的となり、協働の技術 がこれまでよりもずっと発展するまでは、対立こそが終局的統合への主要な過程である。》(p.294)