ひとこと
文明の利器youtube。 最初はピーター・トッシュがいたオリジナルウェイラーズのライブ楽しんでたはずなのに… ふと魔がさした寄り道から引き返せずイケナイ深みにハマってしまい、 気がつくとゴス&デスな邪悪画像を放心して眺めていたりする夜半すぎのオレ。 文明の発達ってとどのつまりそんなもの。 30年前はあまりに息苦しく感じたコレ、今の耳で聴くと清廉にして典雅なたたずまい。 それはまるで美しい修道女のように禁欲的な魅力。 バスーン、バイオリン、チェロ、スピネット(小型ハープシコード)、ハーモニウムなどなど、 あくまで格調高く構築したオール・インストなのだった。インストである点にほとんど宗教的なまでの必然性がある。 みんな、コレどこが暗いんや? ま、ちょっとばかし堅苦しいけどな。 快楽主義的やりっぱなしセッションのサード・イヤー・バンドとは対極、 どこまでもいっても堅苦しいメロに罠のごとく張り巡らせた縦5〜6段スコア原理主義的パーティー。 ここにクリス・カトラー風のドラムを足すってのが気分だったんだな。 しかもこの強迫神経症的に綿密なアンサンブル、あきれたことにほぼ一発録りはまちがいなかろう。 全編ノン・リヴァーブで雰囲気に流さない録音流儀はまちがいなくビーフハート〜カウのそれで。 ヘンリー・カウとマグマを師と仰ぎ…後期クリムゾンのエキスを自分勝手に抽出し… この際バルトーク風味で蒸してみたらどうや! …てな感じで練りに練った一点ものの逸品。 ただ、音楽に対する鉄人的忠誠心もあまりに度を越すと…… いつしか誰も彼も、師匠フレッド・フリスですら寄りつかない廃屋となっていたことにふと気がついた… それがどうした?なに、かまうもんか…みたいな楽団だったなあ…まだ現存するのか。 さすがヨーロッパ人。深い素養と高い技術とがあいまって果たせるかなさしずめベルギーのラスト・サムライ、 英仏独伊のどれでもないヨーロッパのIDをロック音楽のフィールドであらわす作品となった。 それは欧州文明終点の気高き廃屋の象徴でもあった。ベルギー人は世界遺産として末代まで誇っていい。
やっぱり休憩時間にはガンジャとワッフル食ってたのかね |
1978年。 もともとヘンリー・カウの4枚目としてレコーディングされたという『Hopes & Fears』。 出てたことも知らず梅田のLPコーナーで新譜で見つけた時はうれしかった。 表紙のカトラーフリスダグマーの名前を幾度となく確認し、深呼吸してから気合いと共に無言でレジに差し出す。 「コレ最近よう売れるわ〜兄ちゃんもこんなん聞くんやな」とレジのオバちゃん(じつはオーナーだったらしい)。 一瞬くじけそうになるが、気合いで無視。 その日のうちには、ヘンリー・カウ〜スラップ・ハッピーからの刷り込み「プログレ」幻想はあっさり裏切られることもつゆ知らず。 はやる胸をおさえて足早で家に戻り、うやうやしく盤をとりだして針をおとす。 はたして聞こえてきたのは暗鬱な閉塞感たっぷりの新即物主義的なジャンク・ロックだった。 それは後期クリムゾンやサード・イヤー・バンドでさえ陽気に思えるほどだった。 砂というよりも小石を噛んでしまったような、あのどうしようもない異物感はちょっと忘れられない。 アンチ・コマーシャリズム・インテリ左翼ロック、ヘンリー・カウ作品の流れとしては「ポピュラー寄りすぎ」(え?) また「ソング・オリエンテッドすぎる」(え、え〜っ!?)「だから却下!自己批判しろ」 というような物言いがティム・ホジキンソンからついたために党内、いやバンド内での対立がうまれ、 討議の末「ヘンリー・カウ」名義ではない別枠による作品としてリリースするならば認めるにやぶさかではなかろう、 というまわりくどい結論になった、つまりその別枠がアート・ベアーズ。 といった顛末は80年頃のフレッド・フリスのインタビューではじめて知った。 今や当人たちとて「いや〜あんときゃおたがい熱かったよな」てなハナシなわけだが。 しかし78年にもなってそんなコトでケンブリッジ大卒のインテリ同士がガチで対立してどうする? 「シカゴ」みたいに、さっさと分別わきまえたオトナにならんかい! …でもイギリスに行ってからは、そこんとこ、ちょびっとだけ心情的に理解できるようになった。 そのあたりの融通の効かなさってイギリス土着の国民性なんだ。 そう、はたからみてすご〜く偏っていようが迷惑だろうがなんだろうが <とにかく><自分の尺度で>キッチリさせたい、それは<譲れない>んだよな。 粛々と死ぬ準備を進めているロバート・フリップのクリムゾン・アーカイヴ更新をみるにつけ、 はい、それは生涯をかけたとても大事なプロジェクト、ぜったいにゼッタイに、他人まかせにはできない作業ですよね? 自分の目の黒いうちは絶えず最新のフォーマットで大衆に頒布できる環境を整備しておかないとダメですよね? と、ほっこりする自分なのであった。
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コレなんだよ、やっぱり。オレの中の Prince of darkness闇の国の王子、ケヴィン・エヤーズ。 卵のヤツはまた別枠って感じでアレはあれで横綱相撲の安堵感あふれる名作であったにせよ、 『夢博士の告白』こそエヤーズ畢竟のマスター・ピースといいきってしまおう。 ゲストはニコ。 自分の知る限り、ベッドでは別として、レコード上でニコとデュエットした(しかもユニゾンで) 男子はジム・モリソンでもイギー・ポップでもルー・リードでもジョン・ケールでもなくエヤーズただ一人。 このアルバム制作の大前提は「オレはなにがなんでもニコとデュエットで唄う!そしてそいつを絶対にリリースする!」 ことにあった。まったき男の意地である(当て推量)。 念願のデュエット(声の相性はあまりよくない)をプレリュードとするB面の組曲「夢博士の告白」で <例の>くぐもったファズ・オルガンをヤルのは盟友マイク・ラトリッジ。 A面ラストでは Dr. Dreamにひっかけて「Why Are We Sleeping」の再演までも。 これで古巣ソフト・マシーンに決着をつけた、ということであろう。 本作以降、彼は自分のはらわたをさらけだすような表現をさけて、世捨て人の諧謔的な(皮肉まじりの)戯れ言、 といったふうな軽めのスタイルに定住するようになった。 それはさしずめ、渥美清が「車寅次郎」だけを演じ続ける生涯を選択したようなもので、 なかなかに日本人的な心情のように映る。 重いテーマの楽曲を遊びっぽい小曲でサンドイッチさせ、 フェンダー・ローズの軽妙な音色のトッピングで風通し良く仕上げたプロデューサー、 ルパート・ハインのあかぬけたセンスも光る。川辺の午前百舌鳥の早贄子らと眺むる晩秋。
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オレ、ロジャー・モリスとかアンドウェラって…なんかこう、ダメなんだよな。 その手合いでいくとコレが最高峰だとキメている。 とりわけ、キンモクセイの甘い匂いが鼻の通りを良くするこの時期にかけると、最高にいい。 このイギリスの落ち葉の湿り気をふくんだような音楽で、 ピーター・ジェナーのプロデュース/所属はピンク・フロイドのEMIハーヴェストながら、 1枚きりで消えていった思いきりのよさもまた、気っぷがいいではないか。 ドラムがゴング人脈のローリー・アレンという意外性もまた、いいではないか。 だってこのヒト、ロバート・ワイアット<が>リスペクトしていた<謎の>ドラマーだからね。 全編通じてあくまでものんびりとした曲調にひとり異議を唱えるかのように<こねくりまわした>ドラミングが素敵だ。 とりようによってはリヴォン・ヘルムのプログレッシヴ・ロック的誤読ともいえなくも、ない…が。 だからってそれがどうした。秋雨彼岸花濡らす。
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まるでスイッチ でも切り替えたみたいに急に冷えるようになったもんで、 冷房効きすぎの特急に乗ってしまったようなつらさを感じる秋分の候。 短パンで過ごせなくなった肌寒い夜長にはコレなどいかがでしょう。 サンディ・ロバートン/セプテンバー・プロダクションなんて騒ぐのは日本人か韓国人ぐらいかとおもうんだが、 この一発屋レコはいかにも融通の利かなさそうな名プロデューサーとの音楽的なジョイントがしっかりしていて、 なかなかに侮れないものがある。いっておくが、 同系等のUKアングラ名盤として君臨するサイモン・フィンなんか現存数が希少なだけで珍重されてきたダメ廃盤だぜ。 学生時代のデヴィッド・トゥープが施す装飾的でサイケなアレンジ意匠はちょこっとおもしろいけど、 肝心のフィンの個性と魅力がどうにも薄い!というか作為が目立つ。 まあS.T.ミカエルみたいなもんだな。その点コイツらはイケてる。 おなじドラムレスで非トラッド/非エレクトリックのUKアングラ名盤といえばおなじみのコーマスがいるが、 コイツらは彼等ほど独善的でもダークでもなく、 多彩な使用楽器のわりにあくまであっさり目の音作り(事務所の方針か)。 しかしながら曲の粒はそろっていて、要所要所に盛られた半覚醒的な遊びの感覚(オレがいうところの「マヌケ感」)がちょうどいい塩梅なんだ。 69年発売という背景に基本生ギターと鳴り物という演奏スタイルから鑑みて、 単にティラノザウルス・レックスとかISBのマネ みたいな部分も結構あるんだが、 だからダメだ!ってところが意外になく邪心の多いマーク・ボランには決して出せなかったであろう、 水墨画のように淡いオリジナリティが眩しい。 これははからずもザ・スリーパーズとジョイ・ディヴィジョンとの位相関係を想起させる。 つまり 「チンケな模倣犯の域を越えてまったく別物になっている点。 これは不思議だが本当で、作為からはけっして生まれ得ない夢想が音楽に宿っている。 音楽に限らず、意識的であることと作為的であることは似て非なるもの。 そこをどうクリアするか、が問題なのだが、もはやそれは意識も作為も及ばない領域であって、 できるヒトはできるしできないヒトはできないという、いたってシンプルな問題なわけ」 (拙稿「ひとこと」09.3.11.より) 秋冷秋知らずの風に首すくむ。
あ〜ひんやりする |
ドラム、いうたらジョン・ボーナムやないでサイモン・カークやろ。 ベース、いうたら細野やないでアンディ・フレーザーしかおらんやろ。 ライブ盤いうたらコレしかないやろ。 山口冨士夫はあんな音出してるわりに弦は08だったか09だったか細いの使ってるって知った時はちょっとショック だった。 コゾフはどうだったのか。しかしバッド・カンパニー来日って一体…いまいつ?わたしはだれ? 75年の時は武道館一回きりしかも高校受験直前の3月と、はなからあきらめるしかない状況だったのを思い出すわ〜 くやしまぎれに駅前の「ハシガミレコード店」で『海洋地形学の物語』を買って大コケしたのもなつかしい。 頼むで〜しかし。
1曲目イントロのギターの接触不良トラブルにも臆さず |
なにはなくともドラムだよ、全員集合!BイーノのAグリーンWとB&Aサイエンスの魅力、 それはブランドXのリズム隊のおかげだってことは前からわかっていた。 なんであの2枚が聴きたくなるのかっていうと、 ようするにブランドXが聴きたかっただけなんじゃないか?と最近おもいはじめた。 で、この夏は風呂上がりにブランドXの『異常行為』と『Live Stock』(英国初回盤LPね。CDはダメ)を交互に聴いてた。 キンキンに冷やしたクラシックラガー(瓶ね。缶はダメ)、 いたずら盛りの娘たちにグラスを奪取されそうになりながら。 とりわけライブ盤は録音演奏共にブリティッシュ・ジャズ・ロック最高峰の水準。 この、インタープレイがどれだけ熱くなってもけっして取り乱さない、 あくまでひんやりとした冷徹な空気感は、 とりあえず今年のスーパー酷暑をいくぶんやわらげてくれた…ような……気が………する。 晩夏炎天、夕刻すぎて燃える西日の鋭角さ秋知らず。
ひんやり感 |
作った自分自身の脳内でさえすっかり忘却の辺境に位置していたコレ。 ネットオークションに誰かが出品してるんだ。 出来のわるい写真はそこからコピペした。なつかしいな。 入手経路はすぐに察しがついた。T君からタダでもらったんだよね? キズつけるなよな〜。そう、100枚プレスというのは合ってる。 だが1982年当時、実際に京都〜大阪のレコード屋で売ったのはたぶん70〜80枚ぐらいで、 残りは友人知人関係に押し売りしてまわった30年前の京都河原町界隈があざやかにフラッッシュバックする。 ジャケットのイメージは、 そのころ大好きだった元ヘンリー・カウのサックス奏者ジェフ・リーのソロEP『Chemical Bank』のパクリ。 いまみると意味不明の「ネクラ」雰囲気ジャケだな。 レコメン系ってそんな感じが多かったから踏襲したつもりだったのか。デッサンが甘い。 東京芸大の油画科めざして3浪してた高校時代の同級生に頼んでケント紙にシルクスクリーンで刷ってもらい、 裁断と製本は自分でやった。 タイトル文字は二色刷りではなく白ヌキにしておいた部分を自分が一枚ずつ赤のサインペンで100枚全部、 塗ったんだ。 元同級生は5回目の芸大受験にも失敗、4浪で挫折して就職した。オレしか知らないこの事実、どーだスゴいだろ? 内容はフリップ&イーノとかホルガー・シューカイ『Movies』のチープな宅録模写ってところかな。 どうでもいいがこのキズ盤にこの仰天価格設定はちょっと…品性がうたがわれてもしかたあるまい (初回出品は15K、82年当時の販売は千円)。 入札する酔狂がいるんならオレも手持ちの最後の一枚、出しちゃおうかな。 たしか一枚残しておいたはず。でもいったいどこにあるんだ?
押し入れの奥とか探すのがもうすでにイヤ |
ああ……それにしても District 9…長々ひっぱってスマンのう。 構成要素は既存のイメージ引用も多いのに、語法的には今までにない新しい感覚を感じさせる映画だ。 とにかく語り口が斬新。 そのうえ普遍的な感情の部分に訴えかけることも怠っていない。 このバランスの妙がヒットの要因になっているし、プロデューサーは慧眼だと思う。 ヨハネスブルグの巨大な日没風景、ゴージャスな不潔感に溢れたスラム (セットではなく実在する無人化したスラム地域を家屋ごと買い取ったというからスゴい)の汚れ具合もリアルで素敵。 題名の由来はかつて実在した白人専用居住区District 6の数字をひっくり返しただけ、とブロムカンプ自身が語っているが、 アパルトヘイトの暗喩(というかそれをいうなら明喩だが)というようなことはあくまで二義的な位置づけでいいだろう。
このヒトすごくいいなあ…
こういうシーンは無い、さすがに |
映画館3館で、通算5回。観てしまった District 9『第9地区』。 われながら酔狂であるが、そうまでさせる麻薬的魅力と…哀愁…が、この映画には、あった。 そこはもう、論や理の通じない領域だ。いったい主人公は誰だったのか。 最後まで行き当たりばったりだった気のいいヤツ、オランダ系南アフリカ人ヴィカスなのか。 そんな彼に「必ず戻る。約束する」と誓うインテリ・エイリアン/クリストファー・ジョンスンなのか。 クリストファーの利発な愛息リトルCJなのか。 MNU傭兵部隊の銃殺マニア、イギリス系南アフリカ人クーバス大佐なのか。 やたら魅惑的だったナイジェリアン・ギャングの車椅子頭領、オビサンジョーなのか。 ヴィカスのやたら善良な愛妻タニアなのかそれとも。 そう、登場する全員がそれぞれの立ち位置で主人公なのだ。登場人物すべてに焦点があっている。 ルネサンス絵画のように。 展開のまったく読めない導入部から複数の伏線の張り方まで巧妙かつ無駄がないので、 後半のパンク的急発進の加速度に説得力がある。 『2001年宇宙の旅』もそうだった (嗚呼モノリス、デヴィッド・ボーマン、HAL9000、オーヴァーロードよ…)。 これはB級SFムーヴィなんかじゃない。 いろんな影響や引用を(あえて)包み隠さず盛り込んである(この辺の思い切り方もまた小気味良い) からチープに感じるヒトがいるんだろうが、それは意識的な演出だろう。 ロックでいちばんの重要命題は「いかにマヌケを真面目に追求できるか」だ、というのが持論なんだが、 この映画にもおなじ精神を感じる。 全編を通じ「オレはこういうのが作りたかったんだ」という気概が漲っているから、 観る側は納得せざるを得ないしスクリーン上でいちいち説明されないと理解できない観客を突きはなす見切り具合 (これも『2001年宇宙の旅』といっしょ)も痛快。 高水準のCGは過不足なく日常感に溢れた仕上がりで秀逸、 脚本に台詞がなく状況設定だけで役者に喋らせる演出のユーモアとリアリティ、 そしてマヌケ感を徹底的に追求するジャンク類、小道具へのこだわりは尋常ではない。 あとはそれを受け入れるか否か。 いずれにせよ今世紀を代表する一本になることはまちがいない。必見!!!
最初のシーンが映る前の暗転部でゴソゴソした不気味なノイズが鳴りはじめる
見よ!この生活感 |
1991年。制作企画開始。 完パケまで足かけ約4年半。そもそも百数十曲収録、LPにして最低でも4枚組になる予定だった。 「レコードですか。今までに作曲したレパートリーがね、少なくとも100曲以上あるんですよ。 それらを余すところ無くね、全部レコーディングできるんだったらね、考えてもいいですよ」 という工藤君の挑発的なオファーに対し、 「OK、全部やな。ほな全部やろうや!」と僕が100%受け入れた時点で彼の誤算が生じた。 僕がその高飛車な条件を聞けば尻込みする、と工藤君は考えたのだろう。 自分を安っぽく見られたくなかったのだ。自分とておなじだ。 だが彼は自分の提示した条件を自分でクリアできず、83曲目で倦怠し挫折した。 工藤君のキャリアの中で音楽が一番輝いていたのは90年前後だった。マイクを持つ彼の手が震えていた頃だ。 あの最後の震えと輝きがRVRMには捕らえられている。 音楽にとって正しいものとそうでないもの、とを善悪にではなく選別し、 いいものを作ろうという気概がRVRMのレコーディングの現場にはあった。 あらゆる間違いは単に凡ミスでしかありえなかった。その後、彼は「King of error」凡ミスを居直って正当化するようなコンセプトを立ち上げ、 バンドを敷居の低すぎるワークショップとして解放してしまった。 アンサンブルとは不思議なもので奏者たちの意識のあり方に格差が顕著な場合、 一番レベルの低い者の次元まで全体が低下する。 それは音楽にとって致命的な「間違った間違い」だったはずだが、すでに音楽は目的ではなくなっていた。 もはや「マヘル〜」とは楽団ではなく、新興の宗教団体のような安い存在でしかない。 ワークショップの参加者は対等の合奏者ではなく、単に人柱として工藤君に奉仕することを「志願」する。 そして後付けのペダントリーが工藤君の「教義」のIDとして虚しく機能する。 参加希望者の凡ミスと清濁を一切合切すべて受容する (そもそも他人に関心が薄いので干渉しないが無償奉仕は受け入れる)、ただし無報酬のボランティア参加のみ、 という運営規約は暇を持て余した「音楽」好きの若者達を魅了した。 悪しき「凡ミス」を「正しい間違い」と歪曲して恥じようともしない演奏態度は、 後進の若い楽団達への聖なる教義となってフランチャイズされつづけている。
本来ならば渡邉浩一郎がバイオリンで |
性懲りも無く、映画館チェンジしつつ、3回目。観ちゃった。 生涯でもこんなに飽きない映画、なかなかない。 『2001年宇宙の旅』にならぶかも。なんかクスリみたいな禁断症状が。 やっぱりコレ、すごくイイ。コレわかんないやつとは、口ききたくない。 DVDじゃ全然ダメ、とまではいわないが、劇場のスクリーンで観ないと100%伝わらない。 当たり前だが。なぜだか思いだすのは『グラン・トリノ』。 80歳のイーストウッドと30歳のニール・ブロムカンプとでは「いとしこいし」と「千鳥」みたいなもんで、 芸風はもちろん考えていることもずいぶんと隔たっているだろうが、 意外なほど共通する点が多い。 まず、オチが読めず最後まで面白い、ということと、観たあとに余韻が残る、という点。 こう書くとなんでもなさそうだけど、音楽でもなんでも、この点をクリアできるヒトはすご〜く少ない。 それから、脚本、演出、カメラアングル、編集のアンサンブルに一貫したリズム感があって、 そのテンポが絶妙!ってところ。 でもってベタをおそれず気取りが無い。 で、結果的に?全米1位っていうところも、スゴい。 大阪ではそろそろ封切り終了『第9地区』。来週もっかい観に行くわ。
あ〜あ、ハラへったな… |
「おいっ!そんなトコで小便するんじゃねえ!」 まあ萩之茶屋では注意する人もいないだろうが冒頭からスカム全開。 そうそう、そうこなくっちゃ。こういうのスゴくすきなんだオレ。 コレ、今年のベスト1映画キマリ。グッとキたのが、子供の描写。 「ホラおじちゃん、ボクとおんなじ!」とかあくまで即物的。 いや観ないとわかんねんだが。「ハート・ロッカー」はその点、てんでダメだった。 子供ダシにして泣きをとろうって魂胆で。 当たり障りあるジャンクな展開の下にさりげなく敷かれたディテールがじつにきめ細やか、 観察力のすぐれた人の書いた脚本だってことがよくわかる。 でもって全方位的なご機嫌取りが無くて、ついてこれない人は置いていくっていうスタンス。 脚本、最高。やっぱり、人間性、って作品に否応なく出る。 ウソっぽい人のやるコトはどんなに装飾してもウソっぽくなる。 この映画はその真逆だ。にしても、コレが全米ナンバー1?
ナニ?受信料? 払うわけねえだろが! |
ドラムといえば、ここもドラムの存在感が全体の8割だった。 はじめて買ったのは『闇の舞踏会』だった。 なんせあの、裏読みも深読みも拒否した「コレでも買う?」的な露悪ジャケ (しかも前作ババルマの裏ジャケ写真の使い回し、という念の入れようだ)、 なんせこっちも多感な貧乏高校生、梅田のLPコーナーで1時間以上…オーナー?のオバハンの 「にいちゃんソレ欲しいんやったらさっさと買うて早よ帰ってや」的な視線の圧力に耐えながら… 相当な逡巡と覚悟の末の購入だったと記憶している。おかげで内容がすごくよく感じられたものだ。 バンドの多面的な音楽性(VUからタージ・マハル旅行団まで)を陳列してみせたショーケース的作風で (カローリのFuzzギター最高)、 シューカイのソロ作「Movies」のプロト・タイプになった、という与太話もなつかしいのう。 で、翌年のコレはさすがに「それなり」のジャケとなるも内容マヌケ感炸裂、 やることやり尽くして失速直前の無風状態の心地よさというか、全編にみなぎる、 この、すべてをあきらめ切ったような無力感が魅力、とてもじゃないが狙ってできる境地ではなかろう。 じっさい、この後ホントに失速するから大したもんだ。
残像と残像が重なった希薄な表紙 |
とにかくドラムだよ、ドラム。 高校の時にコレ日本盤で聴いたのがファウスト初体験だったよな。なあ、みんな? 『廢墟と青空』え〜、漢字が廃盤の廃やないとこがミソなんですナ(米朝風に)。 ヴェルヴェット/ピンク・フロイド以後出現した最大の異端、闇のグループだったんだよ。 ってライナーに書いてあるのを横目で見ながら流れてきた一曲目はその名もクラウト・ロック。 『無限大の幻覚』はFMでチラリと耳にしたことはあったものの……こっちの方がもっと得体が知れない、 てゆーか全然無名なバンドなだけにかえって怖い。コレ……いったい何や?…この曲この先どうなるん? まさか、ず〜っとこうなのか?なんでそんなコトするん? と少年が購入を後悔しはじめた頃合いを見計らうかのように真打ち登場、ザッピー!カッコいい! この瞬間のためだけに前後の12分が配置されていた。今聴いてもこのドラムのフィル・イン、ただ者じゃねえ。 「悲しき坊主頭」のあくまでもチープなハイ・ハットとスネアの音色、 「ジェニファー」のシステマティックなリズム・パターンの組み立て、ん〜やっぱり最高。 で、すぐに盤ひっくりかえしてB面にいくわけ。
水色のオビ、買ったその日に破いて捨てちゃったな…… |
…そう、やっぱりドラムがいちばん大事。 この時期のザッピーのドラム、ホント最高。あのシブい『Sort
Of』にしたってさ、 ドラムの魅力が全体の8割を占めてるようなもんだし。 豪放にして繊細なスティック・ワーク、
でもってどんなタイプの曲でも自分のリズム・パターンを巧妙(強引)に組み込んだドラミングなんだが、
あくまでそれを感じさせないところがまたニクい。
これが才能っていうもんだろうな。スネアのチューニングひとつにしても、なかなかこのラフな音色は出せないよ。
ザッピーのドラム聴きたいからスラップ・ハッピー聴く、ていうことになるね自分のバヤイ。
オヤジにわかるように言うとビル・ブラッフォードの対極。 |
…納得のいく演出で自分の命を粗末にする、それこそ究極の贅沢と考えたのかも知れない。
それにしても「〜世の中は音楽を必要としていない〜」って辞世の句になってしまうんだな。
これは<自分の音楽>を、ってことだよね。 だけどオレなんかそこから始めてるから、ホントに困っちゃうな。
えっ? おまえのは音楽になってない? 失礼しました。
話題かえよう。コレのシズル感たっぷりな空間を味わってみなよ。
こんな豊潤な音楽こそ、今の貧しい世の中が必要とするわけがない。
ぱっと見、ふつうに聞き流せる喫茶ロック(いや全然ちがうけど)ぽい淡白な8ビート演奏なんだが、
テクニカルに聴くとギョッとするようなオカズをジム・ケルトナーがさりげなく挟みこんでる。
察するにこれはストレートなジャズ/フュージョン経由からは生まれ得ない、畸形的なタイム感だ。
黒人音楽由来の曲解白人ロック、
たとえばビーフハート/LAFMSみたいな西海岸系列のイレギュラーな感覚につながるものがある。
畸形的だけど軽い。アメリカンだから。 それがヘンリー・カイザーとかジョン・フレンチとかになると
「オレ変態なんだ」的な主張が入ってわざとらしさが前に出てくるんだが(たとえが古い!)、
ジム・ケルトナーの場合、あくまで「さりげない」のが特徴。いちいち強調したりしないんだよ。
そのさりげなさ加減が絶妙にかっこいい(ライ・クーダーと組む時は気負うのか少し派手になる)。
ま、そんなこともはや大事でもなんでもないんだよね。
こんなスゴいドラムですら、はなから誰も望みはしない世の中。で、あるよのう。
あ〜あ、ハラへったなぁ… |
82年の初来日 公演、大阪毎日ホール、見にいったよ。 でもギターのエディ・クラークが来日直前に抜けちゃって、 元シン・リジーのブ ライアン・ロバートソンってのが代役で入ってたんだが、 なんちゅうかモーターヘッドにぜんぜん合わない繊細ぽいギ ター、しかもなんだかやる気なさげで。 がっかり。でもレミーの直角上向き唱法は衝撃的だった。 マイクが脳天の上から 吊るされててさ、身体はふつうに前向きでベース弾きながら顔だけ真上向いてパワー全開で歌うわけよ。 で舞台より客席 の方が低いからさ、喉とアゴしか見えないんだよ。 いや〜スゴかった。
なつかしの大阪毎日ホール… |
77年、ほぼリアルタイムで聴いたデュッセルドルフ1枚目。 この…いたって地味な夜間空港ジャケに名曲Silver Cloud。今もこれがすべてを語っているように思う。 すごくイイ。音がリアル。 巷で評価の高いVIVA!(はロキシーだ)じゃなくてデュッセルドルフ2枚目VIVA、 あの応援団みたいな脳天気さ加減を「安易な自己肯定」の裏書きにしたがる輩が発売当時から絶えないが、 自分としてはどこかカラ元気っぽく感じられ、雰囲気優先の音作りが発売当時からあまり好きになれなかった。 ヒッピーパンク? う〜ん。キングから出た日本盤すぐに買ってけっこう聴いたんだが何度聴いてもなーんかこう、 音が薄くて。その後ドイツ盤を聴いてみても印象はおんなじだった。 で、さっきVIVAのクレジットよく見てみたらコニー・プランクが抜けてるやんか。 やっぱり、こういうコトって音に出る。 でもどっちかっていうとディンガーよりミヒャエル・ローターが好きなんだよオレ。 というのが自分の資質である。You know? 今年もよろしくナ。
嗚呼花のジャーマン・ロックのなつかしさよ! |