ひとこと
オメガ・サウンドの小谷さんから「そろそろなんかやりませんか?」とレコーディングのお誘いの電話。 1992年。 大阪の中津にあったオメガ・サウンドはリハーサル貸しを一切しない録音専門のスタジオでその頃とても繁盛していた。 だがオーナー小谷さんには密かな悩みがあった。それは、お客さんのほとんどがいわゆる「関西メタル」というのか、 ヘビメタのバンドで占められていた点だった。 一人でレコーディング業務を切り盛りしていた小谷さんは、 毎日聞かされる関西メタルの爆音に内心うんざりしきっていたらしい。 「どのバンドもおんなじコトやっとるんですわ。まあ仕事と割り切ったらええんですけどね、 あんまりおんなじような早弾きと甲高い絶叫ばっかり聞かされとったら、コッチが気ィ狂いそうになってくるんですわ。 まさかお客さんの前で耳栓もできませんしねえ」 「まぁ〜耳栓はちょっとマズいやろねぇ」 「で、ちょっと柴山さんのマトモな音楽の録音やって正気を保ちたいなあと思いまして」 「マトモって…ソレなんか険あるわ〜小谷さん」 「柴山さん、ソロアルバム作りたいて言うてましたやんか? 柴山さんの録音やったら正規料金より安くやらせてもらいますし、どないですか? ただし料金の話はヨソにはオフレコにしてもろて」 「え、ホンマに? それやったらなんかやってみよかな」 というような軽いノリで始めた録音が、結果的に記念すべき「渚にて」の1stとなるのだったが、 当初は冗談半分の無名のプロジェクトだった。 想い出波止場でやっていた「お前を捨てる」(自画自賛すると捨て鉢ラブソングの傑作。 タイトルはエド山口の名曲『フルスロットル』からの引用。20年目にして初のネタ明かし!)に、 その後立ち上げたラブ・ビーチでやってたオリジナル数曲とC級GSファンキー・プリンスのファズ演歌 「おやすみ大阪」のカバーを足せば、 適当になにかでっちあげれそうな気がした。 マトモな音楽の録音が完パケまでまさか3年もかかるとは、僕も小谷さんも思ってもみなかったはずだが。 月に一回か二回のペースでスタジオに通い、音を選んで重ねていった。 あえてクリックを使わずにいきなりギターを弾き語り、その上にすべての楽器を重ねることにした。 もちろんドラムもあとから入れる。 なので自分のイレギュラーなリズム感にあわせるのが自分でむずかしく、かなり苦労した。 当然クリックを使う方が作業は簡単だが、 トッド・ラングレンの多重録音のようにこぢんまりとまとまってしまうのを避けたかった。 ベースは変身キリンで弾いていた田中栄次くんに頼んだ。以前から彼のベースが好きだったからだ。 彼の武骨だが的確なベース (正確な演奏ができる人はいくらでもいるが的確な演奏ができる人は殆どいない。本人はまったく意識していなかったが) のおかげで、このアルバムに一本の芯が通ったとおもう。 作業半ばでマルチ・レコーダーが16chから24chにアップグレードし、調整卓が入れ替わった。 2年目から小谷さんはだんだん無口になっていった。…まあいいや。 さてベーシック・トラックを完成させたあとのお楽しみ、 鳴りものやコーラスのダビングには気のおけない友人たちを招いて、 打ち上げもふくめ大いに盛り上がったものだ。 ある日、仲間と連れ立ってスタジオにやってきた女の子のぶっきらぼうなコーラスをコントロール・ルームで聞いた。 その後、なんとなく思い出した彼女の声をイメージしてギターを弾いていると、 ふしぎなことにイメージがわくことに気づいた。 それらはしだいに曲のかたちをとりはじめ、いちばん最初のイメージが「渚のわたし」になった。 映画「渚にて」で遠景に佇む女性、「アカシアの雨がやむとき」、高野悦子、アーサー・C・クラーク、 ウルトラQ「バルンガ」、十月はたそがれの国… それまでの自分に蓄積された夢想と絶望と諦観が、彼女のもたらすスイート・インスピレーションとないまぜになって、 すこしづつだが確実に、歌詞と音にむすびついていくようになった。そんなことははじめてだった。 彼女を架空のバンドのリード・ボーカルとしてこのプロジェクトをつくってみたい、 いつしかそう思うようになっていった。そして、夢のバンドを1インチ幅のテープの上で結成するのだ。 もちろんメンバーは全員主役級のキャスティングで。 高山謙一、頭士奈生樹、工藤冬里、向井千恵…すでに気分だけはフィル・マンザネラ『ダイアモンド・ ヘッド』だった。イーノは入っていなくても音楽的には互角かそれ以上のアルバムだ、と今も本気で自負している。 結局、「渚のわたし」が妻の歌声で響くまでには21世紀を待たなければならなかったが、 架空のバンドは架空ではなくなった。 ただそれだけでもう、自分にとっては、生涯をゆさぶる出来ごとだった。
竹田Vo「渚のわたし」は『トーン・ポエム・アーカイヴス』が初出だが、 |
いかがわしいヒトである。それに得体が知れない。 なんだかんだいってオレ、アンディ・マッケイの得体の知れなさが、好きなんだよな。 そう、得体が知れない、とは35年前からこのヒトのことを指す。 ロキシーというといまだに「はっきりいってヘタな」とか「まるで上手くない」 とか理不尽な因縁をつける手合いが絶えないのはなぜだ? じゃオマエ、このヒトよりもっと上手にオーボエ吹いてみろ!といってやりたいね。 オーボエは木管楽器の中で難易度がいちばん高いダブルリードでさ、 いい音が鳴るように自分なりにリード削るとこからはじまるんだよ、専用のナイフで。 ほらアンディ・マッケイが眉間にシワ寄せてゆ〜っくりとリード削ってるところ想像してごらん。怖いよな。 サックスにしてもこのヒトの場合ジャズ色皆無なのが特徴(クリス・ウッドもそんな感じだった。そこがよかった)で、 フリークトーンにしてもいちいち上品。さすが作曲学科、卒論シュトックハウゼン(だったかな未確認)。 察するにクラシックの奏法(まあブラバンだね)でロック調のフレーズ吹いたりするもんだから、 どこかぎこちない感じ、になっちゃうんだろうね。フレージングよりも一音一音キレイな音色を心がけてますって感じで。 で、コレ。キダタロー meets ヴァンゲリス at ディスコ・マハラジャ北京店。関西人ならピンとこい! 直角肩バッドスーツ、回転お立ち台で吹きまくり。1978年産、アタマかかえたくなる昭和の怪作… いやいや、音響設計に卓越したセンス(明らかにロキシー『マニフェスト』の音像のプロトタイプと思えるミックスが随所に。 『マニフェスト』におけるマッケイの発言権の大きさがこのアルバムから逆にたどれる) を感じるモンド・ロック・インストゥルメンタルの最高峰。 とにかくこのヒト、旋律の感情喚起力というかメロディの強さを確信しているんだと思う。 そして必ず出てくる下世話な哀愁味 (初期ロキシーはこの点が強い魅力だったのだが『マニフェスト』以後ポール・トンプソンと共に排除されていき、 入れ替わるように浮世離れしたハイソな雰囲気が最上位にくるようになった)。 いつも聴後になんというか、一抹のわだかまりがあるんだよ。いや〜いいねえ! 35年たってもやっぱり得体が知れない。深秋の夕風頬に沁む。
表紙はいつだって自分 |
『リザード』の中世的で猥雑に入り組んだ雰囲気が好きだった。 そりゃ『宮殿』の次に『ポセイドン』を聴けば、誰しもまず失望感をいだくさ。 「ケイデンスとカスケイド」の淡い叙情 (にコーティングされたエロチック・ソングだったという事実は後年になって知る) だけが救いだった。そこで挽回するべく、3つ目にかけたのだ。 駅前の「ハシガミレコード店」に『リザード』はなかった。 一大決心して3駅はなれた町のレコード屋まで自転車を走らせ『リザード』を買ったときは、うれしかった。 ここには当時新譜だった『暗黒の世界』も揃っていたし、アモン・デュールIIの『ロック共同体』まであった! 印刷も音も粗雑な日本盤(という事実は後年になって知る)だったが、 くりかえし飽かずに聴き入ったものだ。 イエスも大好きだった自分にとって『リザード』はうってつけの宝石盤なのだった。 後年、阪急東通りのDUNで、 コーティングに包まれた細密画の印刷が美しいUKアイランド盤『リザード』をみつけた時はショックだった。 ジャケットの印象通りに音質もみずみずしく、うちの安物のステレオでさえ違いがはっきりわかった。 たっぷり艶ののった生ギターの金属的アルペジオ、太くクリアーなベースの存在感、 しっとりと濡れたメロトロンの重厚さといったら! 慣れ親しんだ日本盤のギスギスした音はほとんど詐欺のように思えた。 それにしても、冒頭「サーカス」の足場のおぼつかない夜道の暗がりで独りごちるような歌に、 「インドア・ゲーム」の狂躁的な笑い…もとより「ケイデンスとカスケイド」のつぶやき唱法は胸に刻まれていた。 ゴードン・ハスケル。いったい何者だ? (それに昔も今もオレ、このヒトの無駄無く簡潔なベースラインってなかなかイケてると思うんだ。 ついでにいうと、このヒトのボーカルが弱いとかなんとか貶めるような輩は… シャッグスのコトを「〜ギターは演奏中に平気でチューニングをはじめるし(笑)〜」 …などと平気で書くような恥知らず野郎、つまり音楽をまるでわからない連中の一味だぜ! いいかい?そのパートはとても厳密にアレンジされた曲の一部だよ) と、いぶかしながらも後年になり、そんなハスケル氏のソロ・アルバムなど存在すら知る由もなかった自分が、 梅田は関西テレビ近くにあった妖しげな店HOGGでみつけたのがコレ。 どきどきしながら裏ジャケのパーソネルをみる。…ベース:ジョン・ウェットンとあるではないか! これは事件だった。しかしカットアウトのアメ盤のくせに立派なプレミア価格 (3〜4千円ぐらいだったか今じゃ大したことないかもしれんが)。 穴のあくほどにジャケを見つめ逡巡していると、オカマっぽい声の店長がおもむろに 「あ、それクリムゾンのリザードで歌ってたヒトの唯一の(ウソだった)ソロ・アルバムでねぇ〜 ホンットにたまたま入ったアメリカ盤のカット盤ですけど〜それでも、か・な・り・ (ここをくぎるように発音して強調した) 珍しいんですょ〜もう次は入らないと思いますょ〜(ウソだった)。 イギリスの原盤なんか僕もまだ見たコトもないんですょ〜(ここだけ本当だったかも)」 と子供相手に営業かけてくるではないか。非常にくやしいが「買い」である。 あわてて財布を調べて帰りの電車賃が残るかどうか計算し、泣く泣く購入した。 この頃からダマされやすかったんだろうねえ。くやしさの代償として今でも持ってる。 後年になって「イギリスの原盤」をあの時のアメ盤よりも安く買えたのだが、 なんとアメ盤の方が断然音が良いのだった(録りはロンドンだけどミックスがNYだからだろうか)。 そこですごく自分が救われた気分になれたのを覚えている。それもまたくやしいが。 朝夕が肌寒い季節、たま〜にかけると、とてももの寂しい気分になれるステキなLPだ。 さえない色のジャケットも秀逸。この人知れない(目立ちたくない)感じが、内容をよく反映している。71年 発売のアメ盤にしては珍しく歌詞カードが封入されていて、1曲目に「リザード」という単語が出てくるのだが、 そこだけ大文字で印字されている。 今でこそ『リザード』のギャラの未払い(というような背景は後年になって知った) の恨みを地味にアピールしていたのかなどと思えるが、いかんせん子供だった自分は 「やっぱりクリムゾンに参加したことを誇りに思っとるんやろか」などと勝手に妄想していたものである。 若いってすばらしい! 晩秋の晴天薄青く。
UKフォーク万級自主盤の風情なれど |
コレなあ…。たしか10年ほど前、吉祥寺のスターパインズカフェだった。 対バンの羅針盤の演奏をもっともらしい顔つきで眺めてたら、高橋敏幸君が気配もなくす〜っと近づいてきて 「柴山さん、コレにサインしてくださいよ!家宝にしますから」 と、やにわにこのLPを差し出した時は大笑いさせてもらった。家宝になんかなるわけないやろが! てゆーか、ようするにコケにされてたわけだが、それはそれでパフォーマンスとして単純にオモロかった。 みなさん、もし『渚にて 柴山伸二』と黒マジックのヘタクソな字で大書されたニール・ヤングの「渚にて」を中古盤屋で見かけたら、 それは世界に1枚しか存在しないホンモノですよ! このアルバムにかんしてはこのエピソードに尽きるのだが、蛇足でいわせてもらうとコレ、スゴいんです。 なんでスゴいかっていうと、 ラルフ・モリーナとリヴォン・ヘルムのドラムの聴き比べができる世界初(で最後)のLPだから。 これは相当にスゴい。クレイジー・ホースって、やっぱり歩幅がヤケに広いタテの8ビートからはずれ(られ)ない、 ニール・ヤングもそう。まあ、そこが魅力なんだが。 ザ・バンドのリズム・アンサンブルが特異だったのは全員が16ビートで(感覚的に、あるいは本能的に) リズムとって演奏してるのに、 ジャストにタテの線が揃うことがなく常に各パートの歩幅に伸縮があって、 しかもそれがズレる寸前でモザイク状にかみ合っていた点だ! あの〜…いってるコトわかるかな… わかんねぇか。リック・ダンコなんか「自分のベースの役割は、アンサンブルにできるスペースをうまく埋めていくだけだ」 なんて、わかってるヒトでないといえないコトいってますし…。わかる奴きけオレのこと。 とにかくコレに入ってる「Revolution Blues」聴いてごらん。 リヴォン・ヘルムとリック・ダンコのリズム隊をバックにニール・ヤングが歌ってギター・ソロも長々と弾いて格好いい。 だけどノリが「ズレ」ている、微妙に。 逆に、そのズレがドラムとベースの細分化されたシンコペーションとハネのコンビネーションの魅力を浮き彫りにしている、 ともいえる。 いかにザ・バンドのリズムが超越的だったかを物語る格好のサンプルが、ニール・ヤングのLPに入っているのだ。 おかげで「あの」ラルフ・モリーナのドラムが、フツーにモタモタした演奏に聴こえてしまうやんか。 うがった見方をすれば、ディランのプラネット・ウェイヴスに対抗してみせたかったのかも知れない。 同じ74年でディランの方が先だからね。 コレ聴くと、そういやニール・ヤングはカナダ人だったなーと思い出す毎年の秋口なのだった。 二の腕寒し中秋朝ぼらけ。
だから |
『チキン・スキン・ミュージック』は渚にての音楽的ルーツのうちのひとつでもあって、 さすがにアレはいま聴いても迫ってくるものがあるのだが、このセカンドがいちばんタイトでカッコいい。 それでいて、まったくもってノーマルなところが一切無い、非常に風変わりな音楽。 じっさい、キャプテン・ビーフハートとローリング・ストーンズの両方と「互角に」共演して、 それぞれに少なからず、いや大きな「音楽的影響を与える」(あるいはネタをパクられる) という偉業を成したのは世界広しといえどもこのヒトだけである。 ええか?ビーフハートとストーンズとやるんやで!そんな奴いるけ? だいたい「ライ・クーダー」ってさ。 チキン・スキン〜とかのイメージからトロピカルなゆるーいアメリカン・ロックのヒトでナ、 劇伴でスライドばっかやってナ、というふうに誤解されがち。 でも実は相当に神経質なインテリでめったなことではリラックスできない性格だろう、生粋のカリフォルニア人なのに。 それは演奏の厳密さから伝わってくるしインタビューで冷笑的、自虐的なコメントを多発する傾向がある (ロバート・フリップみたい)ことからもわかる。 だからこそ、メキシコだハワイだ沖縄だキューバだとローカルに理想郷を求めていたんだろうね。 ギタリストとして大きな特徴は3つ。 D-45でもストラトでも、常に複合的なシンコペーションを組み合わせる高度なフィンガー・ピッキングとコード・ワーク (たとえばマンドリンにエレクトリック・スライドを絡ませる時の強靭なシンコペーションのニュアンス。 あとは全体を把握できるリズム隊が要所を押さえるだけでグルーヴが出せる。 これが70年代以降のストーンズのリズム・アレンジの露骨なヒントとなったのは衆目の一致するところか。 キース・リチャーズにフレーズをパクられた、というのもさもありなん)、 使いこなしが非常にむずかしいフラット・マンドリン(弾いてみればよくわかる) の絶望的なまでに切れのいい音色とリズム感、 そしてやっぱり完璧にコントロールされたスライド・ギターの絶妙なポルタメント。 これは田端義夫や美空ひばりの懐の深い感情表現の域に達している。 ギターのフレージングだけでこういう感情表現ができるのは、日本では山口冨士夫と頭士奈生樹のふたりしかいない。 しかしコレ、モゴモゴしたボーカルの味わいも含めて弱冠23、4の若造がやる音楽じゃないよな、それも1972年 に。 人とちがうことをやるって本当に大事なんだ。つくづく思う。処暑なれど西日炎天に焦げる。
ジム・ケルトナーのいつだって素直じゃないドラムも快感 |
さてさて、暑気払いといこう。すごくイイ。真夏に聴くカール・ジェンキンス期のマシーン。 オレどの時期も好きだけど、特にコレは録音最高ジャケ最高! もしかしたらいちばんスキかも。 まあ、コレをIn A Silent Wayの翻案と片付けられたらそうだよなとつい思ってしまいそうだけど、どこか決定的にちがう。 たしかに電化マイルスの秀逸な本歌取りがまさにこの時期のマシーンだったのかもしれないが、 マイク・ラトリッジとカール・ジェンキンスの蟻の巣的に細密なオルガン/エレピのコンビネーションは、 ザヴィヌル、ハンコック、コリアの場当たり的におおらかな鍵盤アンサンブルをはるかに凌駕している。 3rdまでのブランドXも白眉だったが、 英米間ではジャズ・ロックVSフュージョンってコトになって圧倒的にイギリスの勝ち。 そしてオマケにジェンキンスには例のオーボエという反則凶器が。これで室温2〜3度クール・ダウンは保証する。 もう真夏にペット・サウンズはいらない。大暑仰げば午前の炎天なり。
…ヒュー・ホッパーもエルトン・ディーンももういないんだな |
つくづくオレって…恥知らず野郎の気軽な「この世の不始末」にいちいち迷惑かけられる宿命にあるのか? やっぱり、その辺って…自分には意味も無く重ったるいよな。 世代問わず、恥を知らない奴って、みんな似かよってる。いちいち説明しないけど。 いまのオレにはよくわかる。だからもう、この辺ウロウロしないで、さっさとあっちへ行ってくれ!! 餞別はコレだ。盛夏なり。
いいか?いますぐオレの庭から出て行け! |
コレ、今聴いてもやっぱりいいよな切なくて。年月を経ても古びない音楽とはまさにこのこと。 いつ頃だったか80年ぐらいかな、京都で下宿していたオレ。いったい何やってたんだろ毎日。 ディス・ヒートとメタル・ボックスとアート・ベアーズを毎日とっかえひっかえ聴いていたような…バカやねえ。 愚かなり我がバイブル・ブラック青春期。 そんなスターレス学生にもやさしかった街、 京都市中京区は寺町通三条下ル、サンボアバーの角を入ったところにラテン音楽メインの輸入レコード屋、 ジャンク・ショップはあった。 すぐ近くの十字屋三条店とジョイントでせっせと通ったものだ。 もいちど書くと、色白で横分けの神経質そうな店主、毛利さんはじつは古いラテンが一番好きなのだが、 まめに勉強していたのであろう、スリッツやジョイ・ディヴィジョンなど当時流行りのNW系はもちろんのこと、 スモール・フェイシズなど今でいうところのロック・クラシックの定番も欠かさない、 面倒見のいい品揃えに細かく気を配っていた。 そのジャンク・ショップの中古コーナーに人知れず押し込まれていたカットアウト盤で買ったように記憶しているのが、 このフェアウェル・アルデバランだ!…しかしキミ、なっがい前フリやな。 ザッパのStraightレーベルから69年の発売ということでザッパもなかなかに面倒見がよかったということが、 たとえばGTOズとこの作品とのギャップ(優劣のことではない)を考えるとよくわかる。 で、アレンジャー/プロデューサーとしてジェリー・イエスターが面倒見たのは、 バックレーのグッバイ&ヘローにハッピー・サッドでしょ、ザル・ヤノフスキーのソロでしょ、 それにトム・ウエイツの1stなど。 そのあたりの茫洋とした、気が遠くなるような特殊な感覚 (いってるコトわかる?)を、 冴えまくった楽曲と録音でLP1枚分に凝縮したのがコレだからたまらない。 表面的には60sヤンキーロックサンプラー。 キラー・ファズR&Bからフォーキー、ソフト・ロック、ゴスペル、サイケ、元祖エレクトロニカまで大体のところは一通り。 でもねえ…それなのに全然ショーケース的になっていない。 あくまで硬い発声を崩さないヘンスキーの歌唱法も手伝って逆に一本通った強靭な芯を感じさせる。 マーベラス。 60年代米西海岸ロックでは、脆弱な「ペット・サウンズ」なんかより3倍は素晴らしい金字塔なんだが、 いかんせんセールスが…カーペンターズにはなれなかった。まあザッパもそこまでは面倒見れないわな。 そう、この作品に欠けていたのは売り上げ実績だけだった。 だがしかし。表現のことだけを思って生まれた作品ほど経年に耐え輝きの褪せることがない、 というコトもまたひとつの真理としてあるし…田中一村とかスゴいよな。 その実在する音楽の真理がTrout Mask Replicaとコレだと納得してよい。 讃えよ!音楽の良心、Straightレーベル! そしてShame on you! 恥を知るがいい!転売野郎ども。一気向夏なり。
コレのカットアウトじゃない盤って見たことないよな〜ある? |
ジュリアン君お気に入り「スタンスは非常にクラウト・ロック」の1枚。 ブリティッシュ・ロックに興味があって10代を70年代にすごした人ならば大抵この人の名前は知ってるよね。 まあとにかくこのヒト、話題作りがなにかと効率よかった。 だって、ちょこっとしかライブやってない若造のクセにいきなりポリドールからLPでデビューでしょ、 武満徹と小泉文夫のコメント取って国営放送へのリンクも万全、グラム風のメイクにインタビューでの挑発的な発言 「いま一番スゴいのはボクですね」イチローの先駆け? ミュージシャンというよりも、メディア戦略に長けた広告代理店型の「天才」だった。ホリエモンの先駆け? いやいや21世紀ならともかく昭和50年、和物ロックでこの展開戦略の巧緻さは不思議ですらある。 レコード出しても今みたいにしらける「レコ発ライブ」なんかやらないんだ。 現音界にコネのある凄腕マネージャーでもいたのか…アキラックス? かくいう自分も興味津々で『スーパー・レコード』聴いて 「クッソーこんなんだったらオレでもできるゼ!」と青臭い嫉妬にかられたものよ。 だがキミ、音楽は音楽だけ追求してたんじゃダメ。 「売り方」を音楽にシンクロさせていくことが、表現と同じくらいか、あるいはそれ以上に大事なんだ。VUを見ろよ。 そのことをジャップロックで二番目に実践したのがこのヒト(無論トップ・バッターは幻視者ミスター・ユーヤ)。 渚にてはこの点がまったき不備だった。カギカッコ付きの「UTAMONO」じゃどうにもならねえ……。 77年に出たこの3rdは即座に購入して相当がっかりしたのを覚えている。 でも意外とコレ、今の方が聴ける。 1st2ndのハッタリと格好つけが消えて、その時点でやれる音楽だけをやらざるを得なかった、 ということが愚直な程に出ているからだ。 本作で露わになったMagical Power Makoのミュージシャン・シップは、マジックからは意外と離れた位置にあった。 3枚目でポリドールとの契約が切れることになっていたのであろう (戦略も宣伝費も尽きたのか雑誌広告も見た記憶が無い。 77年当時、近鉄富田林駅前にあった悲しい場末レコード屋の「日本のフォークその他新譜」 コーナーで偶然見つけて初めて発売を知ったぐらいだし。 ただ唯一、当時のロック・マガジンで『マジカル・パワー』の時からマコの面倒を見ていたプロデューサーが、 「彼が最初に聞かせてくれたデモ・テープは、滝の水音をバックにただ太鼓を叩いているだけのものだった。 それが自分を魅了したのだ。これから先、彼が歩む道は決して平坦なものではないかもしれないが、 そこを通過した時に初めて彼の音楽は本物の輝きを放つだろう」 といった手向けのような短い文章を寄せていたのが今も印象に残っている) ことをふまえてか、やりたい放題のザワークラウト・オリエンテッドな演奏。 特筆すべきはその高音質な録音だ。 そりゃメジャーのスタジオで録ってるんだから当たり前だが、演奏はピナコテカから出てもいいような無法者ロックで、 ジュリアン風にいえばグランド・ファンク、いやクラウト・ファンク (雑なミックスは最高だが卓で腕組みしたエンジニアの仏頂面も目に浮かぶ)なだけに、 そのギャップが今となっては大いに面白い。 77年という、世からはパンクかディスコかフュージョンか、の三者択一を迫られてた時期に、 そのいずれにも属さない(とゆーか、どれもできない) ドベッとした72年型ジャップロックのリズム隊をレコーディングに採用したセンスも今となっては逆に評価できるし、 この武骨極まりない一品をボツにしなかったジャップ・ポリドールに乾杯! 夏兆す。
宇宙人とかマジックとか何とかよりも、 |
ラスト・アメリカン、Kowalskiの死にざまにバーボンとビールで乾杯を。あっぱれや!
とどのつまりサムライ・スピリットは、
09.5.27. |
で、旬をすぎた件のJロックサンプラーだが、 この研究書でもっとも評価できるのは「はっぴいえんど」とその周辺をテッテ的に無視している点であろう。 これはジャップ音楽ライターにはできない偉業だ。 やっぱり「はっぴいえんど」ってロックからは…ほど遠い。せいぜい「ドラム入りJフォーク」だろう。 〜なのです、でロックはできないのです。 だからってイングリッシュでうたえばいい、ってもんでもないんだが、 要はスピリット&アティチュード「はっぴいえんどがそんなにいいのか!? 我々だって必死でやってるんだ」 内田裕也は、正しかった。 その選択基準において、日本語を解しないジュリアン君の耳もまた、直観的に正しかった。 バブル期に出版された「定本はっぴいえんど」で、 松本隆は同世代のGS組を「大人達にいいように扱われる哀れな存在」 として「軽蔑していた」と語っているが、 その解散後に歌謡曲業界へ有能な人材を輩出したバンド、 という存在意義においては「はっぴいえんど」もアウトキャストと大差ないわけで、 団塊世代特有のこういった傲慢な物言いには、復活後の早川義夫と同じく辟易させられるものが多々、あるのです。 シド・チェーンでオヤジ狩りだぜ! 深緑目に痛し。
あ、でもこれは当時よく聞いた。ドラムがすごくいい。 |
やっぱジュリアン・コープにゃわかんねえだろうな〜 |
Legalize It スカッとさわやか、解禁せよ…ってね。 春たけなわ |
こーんなたーびはむーだだとしって……。 おもわず聴いている方がひるんでしまいそうな、ぶっきらぼうな歌唱。 映画という括りさえなければ、誰ひとり見向きもしなかったであろう、 いや世に出ることすらあり得なかったであろう、無謀な一品。 孫コピーのカセットではじめて聴いた約30年前、よくこんなのが大手から発売されたなと、 大いに勇気づけられたものだ (音を歪ませたエレピが回転数が狂ったように聞こえるのは、 不良品のデッキでダビングしたカセットのせいだとばかり思っていた)。 この野趣あふれる「歌と演奏」はしかし意識的なものだといえる。 文学的素養を感じさせる饒舌な歌詞はジャックスと村八分への(一方的な)返答を兼ねているが、 皮肉なことに、まるで両者のエッセンスを抽出したあとの残骸のような…虚脱した漂泊感が魅力。 欧米ロックの情報も乏しかった73年という残骸の時代の空気を偲ばせる、 密室度の高い(期せずして)Jサイケな演奏と気が遠くなるような歌詞が幸福に一致する瞬間が、 いくつかここにはある。古いイタリア映画のように。花曇り。
ジュリアン・コープにゃわかんねえだろうな〜 |
この、精々ひなびた風情。これが赤道直下で見る星々なのか。 後半に出てくる80年代風の古臭いバック・トラックですら、 ここでは郷愁を誘う超然たる意匠として用意されているように思えなくもない。 この響きはきっと…バブル期に惜しげもなく取り壊された四ツ橋の電気科学館にあった、 1937年製カール・ツァイス社のプラネタリウムに似つかわしい。 小学校の課外学習で体験したそれは、同じ年頃に梅田のシネラマOS劇場で観た『2001年宇宙の旅』とならんで、 生涯忘れ得ない鮮烈な印象を残すものであった…。 なぜだかそんなことを思い出す。 すっかり落ち着いた歩幅で巧妙なロング・サスティーンを聞かせるギター。 その枯れた音色は、 過去の苦い悔恨の数々さえも幾ばくかの詩情を帯びた星座の配列のように並べ替えようとするのだ…。 春の宵、暮遅し。
もはやカントリー・ブルースの趣き、The Equatorial Stars |
1981年サンフランシスコ産、スリーパーズ。 シスコ・ロックってのはなんとなくサマになる気がするが。 LAパンクっていうのはどうにも…だった。デッド・ケネディーズとかXとかな。 当時パンクっていったら問答無用でNY(だろ?)ってことになってたし、 ハナから米国西海岸はサーファーの軽薄なイメージしか無かった。 Take it easyとか...そう、おりしも70年代末期、関西は陸サーファー・ブームだった… スケボーにビーサン、ナンパとマリワナで万歳!みたいなのが関西つーか大阪の風土にピッタリだったんだろうね。 で、スリーパーズ。地下出版ゆえ出た当時は知る由もなかったのだが、 90年代になってからLA音楽研究の大家、坂口さんからご教示いただいて知ったのだった。 で、ええんやコレがすごく。 平た〜くいうと、ジョイ・ディヴィジョンとストゥージズをごっちゃにしたような音楽をやっている。 実際、その両方から強く影響されていたにちがいない。 まあ、それだけならどうってこと無いわけだが、 面白いのは唯一のアルバムPainless Nightsが、チンケな模倣犯の域を越えてまったく別物になっている点。 これは不思議だが本当で、作為からはけっして生まれ得ない夢想が音楽に宿っている。 音楽に限らず、意識的であることと作為的であることは似て非なるもの。 そこをどうクリアするか、が問題なのだが、もはやそれは意識も作為も及ばない領域であって、 できるヒトはできるしできないヒトはできないという、いたってシンプルな問題なわけで。 だがヴァン・ヘイレンの時代に地元LAでこんな音楽やってたんじゃ先が短かったのも無理なかろうて。 逆に一発屋だったからこその一瞬のかがやきだったのかも知れぬ。 その鈍色のかがやきとくすぶりをたとえ地下出版であれ1枚のLPに記録することができた彼等はしあわせだった。 春近し。
96年にCD化されるも |
いちばんそれらしいアルバムだなやっぱり。 当時の東芝音工盤は強気の定価4400円、2枚組だからって×2にするなよな…だもんで、 はじめて手を出した輸入盤は、およそ半額程度。豪快に「Special Buy!」とジャケット(しかも表1)に印刷された廉価版のアメリカ盤(アメリカ人って…)だった。 シールドラップを破ってはじめて嗅ぐアメリカの匂いに、本場のロックを粘膜で感じたものよ(気のせい)。 この期におよんでまだバレットの曲やってるんだが、 自分としてはオリジナルよりこっちのテイクがカッコいいと思っている。 曖昧な感情のゆらぎを曖昧なままに掬いあげ、音で表現できたのがこの時期のフロイドだった。 そんな視座を「渚にて」でささやかに継承したつもりだった。 ケンブリッジの緑に覆われた小道をくぐり抜けてグランチェスターの牧場へ行ってみたかった。 ありふれた日常の一瞬を音楽にのせて紙一重ずらしてみせる繊細な妙味は『おせっかい』の頃までで、 その後きれいに消え失せた。音楽に主義主張を入れるようになったのだ。 それは彼等なりのChildhood's Endでもあった。 WYWH以降は別のバンドになったのだ、と思うことにしている。水ぬるむ。
「神秘」Part 3ギルモアのやけくそ気味なコーラスに胸うたれる |
かつて自分にとっては、この2つが音楽の大きな指標だった。 彼等にとっては、ソフト・マシーンとザッパがまさにそうだったにちがいない。 これは奇数拍子を演奏する、といったようなことを意味するものではない。 音楽にまつわる付加価値に便乗して利ざやを稼ぐことばかり考えている連中は、 この清廉なこころざしを前に恥じることすら忘れているだろう。春浅し。
両雄ともにこの処女作が愛おしい |
文学系パンク、マガジン。タイトル The Correct Use of Soapは、やっぱりトム・ラップなのか? いちいち考えすぎの歌詞にヒネた歌唱法。よかったよな…ハワード・ディヴォート。 なんせオープニングは「きみが怯えているから」だし、 4曲目なんか「I know you never knew me I don't know」がサビのコーラスだしぃ。 自意識過剰のアー写みるたび、ハゲを隠そうとしないのもまたパンクなのか、と変に納得させられていたものだが…。 しかし当時、このサードは安っぽくテカるコーティング(たしか刷色も全然ちがっていたような)のアメ盤ばかりで、 この格調高く地味な色調のUK盤は関西ではどこの輸入盤屋でもなかなか見つからず、苦労した記憶がなつかしい。 サウンド構築は往年の迷プロデューサー、マーティン・ハネット。 いま聴くと、異常に平面的というか天井桟敷の映画の書き割りみたいに音がのっぺりしている。 まあ、バンドはよく練られた熱のこもった演奏なんだが、これに冷水を浴びせるような音処理を施してある、わけだ。 このわざとらしさが、まさにパンク/ニューWAVE。80年代って大抵こんなのだった、よな。 ゲート・エコーの残響に衝撃を受けた!とか。あ〜あ。 でも、ジョイ・ディヴィジョンなんかより、こっちのほうがずっと好きだったよ。
80年でスライのカバーは先見性があったとすべきか |
発売当時、関西のごく一部で「今度のビー・バップ・デラックスの新譜はスゴい」 ともてはやされていたように記憶している『Live! In The Air Age』だが。 「この腰の浮いたドラムはちょっとなあ…」と当時高校生だった自分でさえ思った。 タイプとしてクイーンのドラムと同系等で、 上半身だけで叩いてしまう芯の無いドラムだそれがライブ盤だと致命的だフリー・ライブ! (Island ILPS9160)を聴けよ。本当にスゴくなったのはコレでしょうやっぱり。 一皮むけたのが最後のアルバムとは皮肉な話だとしても、 ドラマーのセンスに見切りをつけ潔くリズムをテープ・ループにした1曲目からしてズッポヌケた感じが痛快だった。 現在は日本人の奥さんと仲睦まじく暮らしているというビル・ネルソンのセンス、この小粒感がいい。 最終曲「死の島」は、なかなかに泣ける佳作。… 80年頃だったか、ネルソン来日の折 「日本では誰もがYMOみたいにシンセサイザーを駆使したテクノ・ポップを演奏していると幻想を抱いていたので、 実際に来てみるとパープルやツェッペリンまがいの古臭いバンドが幅をきかせていて心から失望した」 というようなことを何かのインタビューで語っていたのが印象的。 アンディ・パートリッジ曰く 「初期XTCはビー・バップ・デラックスからの影響があって、 プロデューサーをジョン・レッキーにしたのも彼等のサウンドが気に入っていたからだ。 ビル・ネルソンをリスペクトしていたから、レッド・ノイズのSound on Soundがイギリスのメディアで『オールド・ウェイヴがXTCの真似をしている』 という酷評を受けたことに対しては本当に申し訳なく感じていた」 というようなことを何かのインタビューで語っていたのもコレまた印象的だった。 あな懐かしや…今年もよろしくナ。
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