ひとこと
逆さパンク、OUT。このタイトルの真意はいずこに。だれか教えてくれ。ある意味究極のLPであった。
…なぜって、じつはプロモカセット+ジャケのゲラ刷りオンリーで、盤はプレスされてなかった、
とゆーのが今日の定説だから。 76年という、ある意味大きな端境の時代の、いわゆるAOR的プロダクション、
じつは何曲かでケビン・エアーズが派手なベース弾いてたりするんだがコレがまたじつに格好いい。
こんな自分にさえあった多感な憂いの少年期に接した、もっともうつくしい音楽のうちのひとつにちがいない。
CD再発が大層うれしかったのも今もって記憶にあたらしいが、やっぱり表紙はコレでないとネ。
イエスはやめて今年の年越しはコレ。
1曲目が Secrets of the blue bag への 撮影時のブレのせいで右手の指が6本あるように写っていて、 (手持ちのコピーでは確かにそう見える)それがどうにもイヤだったからだ、 とはSH来日時、斯界の権威K君が直接本人から訊いたハナシであるから一応間違いなかろう。 ただ、そんなんフォトショップで簡単に修正できるやんか、と思うのは素人の浅はかさであって、 実は他に何か言いたい(言えない)理由があったんだろうねえ。 |
あーイカン。ココは団塊プログレオヤジのお国自慢ブログに堕するのか?まっぴらご免被るトコロである。 が、コレばかりはのう。武士の情けじゃ、許してやってくれい。 イエス。77年頃にアメリカでライブを見て来たらしい竹田和夫は当時 「イエスはテクニック的にイモで、特にボーカルの男、ありゃ最悪だね」とNMMに書いていた。 クリエイション畢生の入魂作『ピュア・エレクトリック・ソウル』発表時の面目躍如たる竹田和夫としては、 どう鑑みても461クラプトン〜スティーヴ・マリオットのラインをリスペクトしていたであろうから、 その論評たるや、さもありなん、である。 しかし「イモ」っていうクサし方もなつかしいね。エモやないで。 そう、基本的にイモなんだよイエスって。突出したイモはスティーヴ・ハウとリック・ウェイクマン。 かなりウザい、アンサンブル的に。 まあ、イエスって、もともと破綻気味なのが身上(ELPには負けるが)、 全体を意識して構築しているのはベースのクリス・スクワイアひとりで、 残りのヒトは好き勝手な箇所で力んだりはしゃいだりしてるだけ。 だけど、そこがよかったんだよ、イエス。特にこの『リレイヤー』。じつは今だに不定期的に聴きたくなって困る。 パトリック・モラーツのジャジーなテンション・コード混じりのフェンダー・ローズと、 キレのいいヤン・ハマー的なシンセ・ソロは、 スクワイアのベースとすこぶる相性がいい。 サウンド面で参謀格の人材が参入したことがイモアンサンブルのネジを巻いて、音像がぐっと引き締まった。 もっさりしたフィルインがまどろこしかったアラン・ホワイトのドラムですら妙にシャキッとしている。 2枚通して聴く人はまずいない…であろう『海洋地形学』をガマンして聴き返し猛省したのが、 スクワイアだったにちがいない。 モラーツが的確なアレンジャーとしての役割を果たしていたのは明らか (ウェイクマン復帰後イモに戻るのでわかる)で、 畸形的な「サウンド・チェイサー」をここまで構成できる技量は今聴いても大したもの。 仕上がりはバットホール・サーファーズを過剰に加速したかの如き意味の無い人力ハイテク・パンク。 でも、いいんだよなーこの意味の無さが真剣で。 その結果アルバム全体に横溢した、あてどない焦燥感と終末感が『リレイヤー』の魅力。 参謀筆頭スクワイアの矜持ここにあり。 で、真打ち登場とばかりの「スーン」は最悪男ジョン・アンダースンの悪あがきというか、 もはや自分の立ち位置のマーキング。 コレがまた絵に描いたようなマイナー調で、ゆらゆら帝国をバックに熱唱する堀内孝雄、 みたいなアーティフィシャル・ザ・ロック演歌なんだけど、人情演歌も案外スキなんだオレ。 山田洋次の映画とかさ。 当初イエスが目指していたのは、ごく単純にヒロイック・ファンタジーのロック版ということだったと思うのだが、 つまるところ「暴れん坊将軍」だったんだな、ということにして今年の年越しはコレでキマリ。
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もう師走……時間は早いな…。時の…過ぎゆくままにこの身をまかせ…男と…女が… ただよいながら…も〜し〜も〜ふたりが〜…大野克夫…昭和50年…もうエエな。 たしかコレは…ほぼリアルタイムで手に入れたような記憶がある。 そう、たしかあの頃はまだ…御堂筋界隈では… 国産ロンドンブーツにジョー・ペリーみたいなロン毛を誇示してジュラルミン製?のアタッシュケース (約35センチ角。ストーンズのベロシールなどを貼って『マシン・ヘッド』 とかお気に入りのLPを収納し持ち歩く風習があった…アレ何てゆうんだ?) とグレコのレスポールが入った重そうなハードケースを下げたロック兄ちゃんが生息していた… ヘビメタはおろかパンクでさえ存在しない昭和50年、アメ村以前の心斎橋…だからもうエエっちゅうねん! …にオープンしたウエストコースト志向の輸入盤屋、メロディハウスで買った。いまだにイイんだよなコレ。 ミック・テイラーをスタジオに呼んでおきながらギターじゃなくバック・コーラスだけやらせる、 というまさに皮肉屋イギリス人のセンスたるや面目躍如、 アーリー70年代型ブリティッシュ・ロックの典雅な残り香をふんだんに詰め込んだ、極上の黒盤。 ヘンリー・カウのリズム隊にロッカバラードをやらせる、しかもスローで、とか、 マイク・オールドフィールドに「キース・リチャーズ風に」の指定でソロ弾かせるとか、 いちいち薬味の効いたアイディア。 つまり大阪でいうとチャーリー浜に真面目な台詞言わせる、ただしボケ無しで、 みたいなディレクションで、渚にてが多大なる影響を受けているのは、知る人(ほとんどいない)ぞ知る事実である。 ちなみに渚にて1st収録の『あなたをすてる』では、ピアノを弾いてもらった工藤冬里君に 「できるだけキャロル・キングっぽく。キミやったらできるやろ?」と指定してああいう無惨な、いや好結果に。 これを名付けて「大リーグボール三号式プロデュース」という。今聴いてもなかなかにオモシロい。 あ、いや、Fine Old Tomですがね。長きにわたりお気に入りの一枚、十代の頃に買って今も手放せないでいる、数少ないLPなのであった。 ささ、今夜は雨、冷えるネ。一本つけて、旭ポンズで湯豆腐といこか。
マチガイだったが仕方あるまい |
風が運ぶ 春はさけて行く
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ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ…(DERAM SML1022)。 76年にキングから再発されるまで、神秘のヴェールに包まれたクフ王の秘宝みたいな謎のレコードだったんだよ (ホント)。 それとワイアットの 『ジ・エンド・オブ・アン・イヤー』(CBS 64189)ひとつの耳の終わり…な〜んてね。 往年の幻レコードの双璧だった、自分史的に。 あとファウストの透明盤に黒盤とか…なんでファウストは『IV』グルグルは『カングル』しか聴かれへんのや! …あー『UFO』とかも聴いてみたい! LPコーナーにもHOGGにもDUNにも無いとなると、一体何処に売っとるんや! (世界がせまいんです、田舎の高校生だから)ドイツか?東京か? くっそう…。もう、そりゃ悶々と。一体どんな音なんだろうか、 ティーンエイジドリームの熱くいきり立ったウォームジェッツなエナジーで、 アキラックスの誇大にしみじみしたライナーの行間に妄想と妄想を三枚重ねして恋焦がれたものよ。 まあ、どれもコレも実際の内容よりオレの脳内イメージの方が遥かに濃い音楽だったけど。 むかしはそもそもパソコンなんか無かったんだからな! 今おもうと通信手段が固定電話と手紙しか無い時代(つい最近だよな)って、 誰も不便だとは感じてなかったしイメージ・トレーニングが必要不可欠だった。男女交際にしてもそうでしょ。 今は情報過飽和で、若い子からオヤジまで脳内イメージが貧困なんだね。きっと。だからチンケな摸倣犯が多いんだよ。 音楽にしてもそうでしょ。Jサイケとか。あ、そうそう知ってるかい? むかし、77年頃、梅田の東通り商店街を抜けたところにあったDOWN TOWNってゆうレコード屋ってさ、 開店当初はレコード袋にHard&Progressiveって刷ってあったんだよ(ホント)。 さすがに『UFO』とか『FAUST SO FAR』は無いにせよ、 主要ジャーマン系からマグマ周辺、仏シャンダールの現音モノまで揃ってた(もちろん新品で)からエラいよな、 ココ大阪やで? そういうロック・マガジン直系の陰気な品揃えなのに、 ちょっと冷たい感じのスレンダーなおネエさんが店長、 っていうのがイイとこ突いてたな、とおもう。 店頭で阿木譲に口説かれてる現場に遭遇したことあるぜ。あのヒト今どうしてんだろ。 しかしまあ、ウェストコースト&サーファー全盛の昭和52年、大阪やで? この仕入れはあまりに…その後美人店長はあえなくクビ、店はウエストコースト&サーファー向けAOR (ボズ・スキャッグスとかイーグルスだよ!) 路線にあっさり転向してたな。 やっぱり大阪やった…。あ、コレについて語るのを忘れてた。 いいよな〜、GG&Fに足すところのイアン・マクドナルドのフルート&アルトだもん。 このヒト、キャラは地味なのに音はいつでもぶっといのが不思議。 もしウォームジェッツ時代に聴いてたら失神ものだったね。 秋驟雨。
レツゴー正児…いや、この頃オンリーのフリップのあほコスプレが今でも謎 |
むかし、このヒトの2枚組のベスト盤あったでしょ。覚えてる人いるかな。 アレ、ぜったい紙ジャケにならないよな。 いや、紙ジャケになんぞゼッタイしちゃならねえっ、あのカメラ目線のオナニージャケだけは!(ホント) まあアレはマヌケというよりも、ツー・ヴァージンズをおちょくったような確信犯だったが…ってか、 確信も過ぎたるはマヌケだぜ!じいさん。で、コレ。僕のロイ・ハーパー初体験。なつかしいね。 正直ジミー・ペイジ参加の叩き文句にそそられたから、っていうのは拙者とて子供であったゆえ仕方なかろうて。 キース・ムーンとかマックス・ミドルトンとか70年代イギリスのメジャーどころを取り揃えた豪華なセッションなんだが、 ホストのオナニーじいさん…いやハーパーさんの存在感がゲストにぜんぜん負けてなくてまっこと自然体。 あくまで淡色で描かれる彫りの深いメロディー、 イイんだよな今聴いても。このリリシズムにウソはない。ヴァレンタイン、昭和49年。秋深し。
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アンディ・マッカーイ。最後に聴いたの一体何年前かな…ってなぐらい。なのに。 妙に手放せないでいるのは、自分がいっとう好きなロキシー・ミュージック上半期 (ジョン・ガスタフスンがベースの時期ね) の魅惑の核心部分、まるで昭和の大阪、ザ・ナニワ・ミュージックみたいな、 いかがわしいファニーさ、ってこのヒトのせいだったんじゃないかって思うときがあるから。 で、この意味不明のソロ・アルバム、 74年の初版よりも「ワイルド・ウィークエンド」から始まる75年改訂版の方が魅力的。 格調低くハイセンスな全編インスト。この腰くだけの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」聴いてみろよ。 このマヌケ感。おもわず「オイ兄ちゃん、ちょっと聞くけどナ、キミ……アホ?」 横山やすしならずともメガネ直しながらツッコミたくなること請け合い。 たぶんココがポイント。かたや「今いちばん注目しているのはケビン・エアーズです」 懐かしやミュージック・ライフのインタビューでこう答えてた頃のイーノにしても。 そう、赤いベレー帽かぶってた頃がいちばんチャーミングで才気溢れてたよね。 やっぱりロックでいちばん大事な部分って、いかにマヌケを真面目に追求できるかってところにあると思うんだオレ。 ヨーロッパでは60年代にピンク・フロイドとソフト・マシーンがそれを最初にやった。 このマヌケ感をゲルマン的に誤読して徹底的にやったのがクラフト・ワークとノイとファウスト。 ディス・ヒートは、マヌケを排除して自分をインテリっぽく見せようとしたから失敗した。 で、渚にてがどのくらいマヌケかっていうと…『よすが』を買って確かめてみよう! …キミとはやっとれんわ。
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このヒトたち、平成ジャパンで考えたら、深夜の居酒屋チェーンで発泡酒とケイタイ片手にとぐろ巻いてるような、
年端でいえば自分の息子ぐらいに相当する二十歳前後の学生さんたち…だった、ハズなんだけど。
やっぱり、真剣に音楽と向き合っている人の目は、ちがう。
心底、そうおもう。自戒を込めて。とびだせハイウェイ! 中秋の名月。
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ちなみに、"You know my name"でサックスを吹いているのは、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズですか? それともアンダーテイカーズのブライアン・ジョーンズ?
アナザー・グリーン・ワールド |
絶妙にして大胆なる音の構築、メビウスの輪の如し。 高校にあがって最初の夏休み。松屋町筋に住んでいた亡き祖父が、ビールに酔った赤ら顔で 「そないに音楽好きか。ほな、おじいちゃんがナ、好きなレコード何でも買うたる!ただし2枚組はアカンぞ」 と気前いいんだかセコいんだかよくわかんないオファーをしてくれた。 えっホンマ?ほな買うて〜、と千日前のワルツ堂へと連れ立って、 せわしなく選んだコレがソフト・マシーン初体験だった。 いちばん好きなのは『6』だけど、『収束』にはそんな少年期の記憶とあいまいに溶け合った淡色の魅力がある。 真にすぐれた音楽は記憶の深層に作用するもの。 ……しかし『収束』からソフト・マシーンが「フュージョン化」したって記述をよく目にするんだけど、 一体誰が最初に書いたんだろねえ。コレをフュージョンって言っちゃったらさ、そりゃ失礼っていうもんだ。 だってフュージョンって、ウェザー・リポートみたいなのを指す侮蔑用語。自分の理論ではね。 ソフト・マシーンは『収束』あるいは『ソフツ』(これの究極的な空漠感もすごくイイ)に至っても、 フュージョンとは一線を画した、意識的にコントロールされた気品と緊張感を保っている。 カール・ジェンキンスの何処へも向かおうとしない曲作りとマイク・ラトリッジの眼鏡のかけ方ににじむ変態性に、 なぜ気づかない? 確かに、いくばくかの聞きやすさが設定されてはいるが、 それはあくまでイギリス的に音の無駄を剪定していった結果としての、それ、なのだ。 よく手入れの行き届いた盆栽には気品が宿る。 ここがフュージョンの聞き手におもねった安っぽさと決定的に違うところ。 引き合いを出すなら、スティーヴ・ウィンウッドの1st、それとフィル・マンザネーラ/801の『リッスン・ナウ』 だね。 わかる? ようするにオレ、カール・ジェンキンスのオーボエとエレピってけっこう好きなんだよね。 だいたい70年代のイギリスでオーボエをフィーチュアしたバンドって(その発想からしてそもそも)ヘンなのばっかり。 サード・イアー・バンドだろ、ロキシー・ミュージックだろ、んでもってニュークリアス〜ソフト・マシーンしかり。 あのペナペナした(言い方をかえれば典雅な)音色がどうにもイギリス的、だとは言えると…おもう。 まあ、どれもちょっと自意識過剰のきらいはあるが、おおむね自分の感覚には過不足なく訴求してくるものがあった。 つまりカッコ良かったってコト。あの年の夏、『収束』はピンク・フロイド漬けの耳にやさしく響いた。 カタカタ鳴る扇風機しかない暑苦しい部屋だったが、 ことに終曲「流浪の世界(フローティング・ワールド)」がもたらす虚脱した感覚には、 熱帯夜も少しひんやりするような気がして、飽く事無く繰り返し…無心に聴き入ったものだった。昭和50年、晩夏。
OBIが秀逸だったねえ |
こう暑いとやんなっちゃうな。今夜は冬瓜に香住鶴の冷酒で一杯といきますか。 ささ、箸休め。とどのつまり。自分を惹きつけて止まなかったピンク・フロイドの畸形的な部分、 というのはライブでかならずヘンなうめき声を出して客を怖がらせていた、 ロジャー・ウォーターズの持ち味であったことは否めない。 『ウマグマ』の「毛のふさふさした動物の不思議な歌」聴いてみろよ。今でも通用するよなコレ。 で、毛のふさふさしたナントカに味をしめて『肉体(ボディー)』も衝動買い (といっても今とちがってスゴい覚悟をキメて)だ。 衝撃的だった。とにかくよく聴いた。オレの買った日本盤のライナーみろよ。 ミック立川の意訳に納得できず自分なりに訳して書いたヘッタクソな鉛筆文字に自分で泣けてくるゼ。 しかしよく飽きもせず同じレコードばかり夜な夜な聴きふけったものよのう。酒も飲まず真剣に(二度とできない)。 あの情熱はいま何処? そういったドロドロのどて焼きみたいな部分と、 デイヴ・ギルモアのあの甘い倦怠感がほどよくブレンドされてた時期が当時も今も最良で、 つまり自分の理論では69年から71年あたりがピンク・フロイドのピーク、ということになる。 で、やっと本題に。 『雲の影』、フロイドのレコードの中でもかなり上位に位置するものと思っている。今聴くとなおのことイイ。 青春の末期って感じで。そう、高野悦子さんにはコルトレーンよりもピンク・フロイドを聴いて欲しかった…。 それにこの曖昧なジャケット。 オビの過剰な叩きもよかった。 〜沈着、緻密、濃厚、耽美、虚無、独善そして狂気〜雲の影 ピンク・フロイド…… この頃の東芝音工洋楽部は冴えてた。 『おせっかい』のA面が大好きだった自分にとっては、『雲の影』はその続編のように感じられて、 たいへん愛着のもてる盤だった。 「炎の橋」のとろけるギター・ソロ。産毛だったボーカル録りの謎 (『よすが』で追い込んでみたが…さあ!どの曲かあててごらん) 「ステイ」リック・ライトの薄青い感傷。「ウォッツ」の生ギターの尋常でない美しさ。 何の変哲もないアルペジオなのに、異常な音の録り方のせいでまるで千枚通しの簾みたいに聞こえる。 『雲の影』はフロイドが生ギターを「まっとうに」フィーチュアした最後のアルバムなんだね(WYWHはちがう)。 やっぱりロックは生ギターをカッコよく使いこなせないと失格。自分の理論ではね。 ほら『ロー・パワー』と『マッド・キャップ』、ひさしぶりに聴いてみろよ。 アレ、生ギターじゃないとゼッタイあの質感、出ないんだから。
発売中の実験音楽、或いは思考的音楽の一部 |
ここらでちょいと箸休め。念願かなって例のクワイエット・サン、 やっとまっとうな音質(宗ちゃん!)+紙ジャケ(恥ずかしい!)で聴けるようになったのは、 この夏のささやかな僥倖であった。 あ、ダイアモンド・ヘッドもな。う〜ん、やっぱり。やっぱり、いいよなビル・マコーミック。 ウチも『よすが』に辿り着くまではベーシスト探しで大変な労苦を重ねた(マジで大変だったんだからな)もんだから、 いま、この武骨なベースラインがたいへん心に沁みわたる。 ヒュー・ホッパーというよりはビル・マコーミック派なんです、ワタシ。 老体に鞭打つ酷暑の折、クラシック・ラガー片手に浸る『メイン・ストリーム』は、コレまた格別。 これでもう酔って盤をひっくり返す時にうっかり手を滑らせキズをいかせる心配 (書くと長いが実際は一瞬のHazard profile)から解放された(言ってるコトが昭和…)。 そこで801なんだが…なんで801ライブだけ紙ジャケ再発されなかったのか。 K-Scopeなんか出さんでええねん。それをいいたかった。 コレはドラムの演奏が「あんた、いえてへんわ」なんだが、 それゆえにベースが本能的にバンド全体を支える様子がひときわ浮き彫りにされた、逆説的な名盤。 ジャケットが内容を簡潔に表現。昭和51年発売。
昔も今もロイド・ワトソンが謎 (その後めでたく紙ジャケ+宗ちゃんマスタリングで再発されました) |
Secrets of YOSUGA
ようやくかなでたことだまの
すがたかたちは がらんどう |
YOSUGA
よすが それはそれ以外のなにものでもないもの よすが それはあなたの股のあいだにあるもの よすが それはすべてあらゆる大きなもの よすが それはあなたそのもの |
昨夏のライブではリーダーをさしおいて「やまちゃ〜ん」コールが飛び交い 柴山の機嫌をそこねたベースのやまちゃん。 自他共に認めるストーンズ・フリークとのコトだが フェイバリットはビル・ワイマンと「ダーティワーク」? なんじゃそらシブすぎやでキミ。 なのに得意技はビリー・タルボット顔負けの重量級シンコペーション。 |
相変わらず絶妙の湯加減でハモンド+レズリー唸らせながら 「マジでこのアタマめっちゃラクなんですわ。 柴山サンもいっぺんやってみぃー」 キミとはやっとれんわ! |
最近レスポールからストラトに持ち替えた頭士くん。 今回もギター三昧七変化。 でもソロのトーンは前と変わらずっちゅうのはどうしたわけか。 |
オレさま 08.5.3. |
まさこさま |
やっとできた。渚にて7枚目『よすが』。ずいぶん長いこと、レコードとは、徒労の結晶だと思ってきた。 幾多の音盤を彩る韻律の裏側にある、希望とないまぜに埋め込まれた夢の喪失感… を注意深く発見することによって自分は音楽を聴くという行為にリアリティーとよろこびを得てきたからだ。 でも今度はなにかが決定的にちがうようだ。 『よすが』は、しかるべき時の経過が紡いだ、必然の果実だ。その果肉はあまく濃い。 中心にあるのは音の律動だけだ。なぜ自分は、人は、かくも音にひきつけられるのか。 『よすが』にはその答え、音楽の秘密がつまっている。今、それだけはいえる。
『よすが』よろしくな 注:ジャケ写にあらず |
コレって、グラム・ロックだよな。このジャケ最高。だれか紙ジャケで出してくんないかなー。 『The Equatorial Stars』のすっかり枯れた味わいもわるくなかったけどよ、 やっぱこのギラついた高揚感、忘れらんねえんだよな。昭和48年発売。
ひまつぶし |
3月の空は薄曇り。毎年この時分になるとマッチング・モウルが聴きたくなるのう…もうええか。 じゃ代わりにコレ。 コレな、出た時にナ、大阪梅田は阪急東通り商店街にあったLPコーナーで、新譜で買ったのを覚えてるんだ。 この甘美というには糖分過多の世界、当時からいささか気恥ずかしいものがあったけど、 今じゃ自分がずうずうしくなったせいか、堂々と浸れるようになった。 考えてみりゃ弱冠25才がこさえた音楽だからネ。 現実と夢想との境い目がまだ曖昧な青年が、勢いにまかせて作り上げたものがこうなっちゃうのは至極当たり前なんだ。 ほら、自分が25の時どんなコトやってたか思い出してごらんよ。 ジョン・レノンでいったら『ラバー・ソウル』だぜ。デイヴ・ギルモアだったら『おせっかい』か…。 オレ?…ハレルヤズかよ…。うっ、ハナシにならねえ。 でも、ここまで仕立てのいい背広みたいに音楽構築できるのは、やっぱり才能とセンスあってのこと。 誰にでもできる所業ではない。 自己の理想と夢想を一致させた作品として完成させながら「ボスが居なくてもここまでやれるんだぜ」 という所信表明にもなっているのは、かの『ダイアモンド・ヘッド』を筆頭に、 あのマクドナルド&ジャイルズのレコード(いいよな、アイビスの飛行)にも通ずるところがあって、 なかなかにみずみずしい気迫がみなぎっている。 コレの場合、その対象はトニー・バンクスだね。 派手にメロトロン使っといてハモンド・オルガン使っていないのは、わざとだと思うな。 にしても、この早いパッセージのアルペジオ、弾きづらい12弦で正確にこなす手腕はたいしたもんだねえ。
おとっつぁん、おかゆができたわよ… いつも苦労かけてすまねえな〜 |
もうすぐ3月だというのに、さむいね。こんな日は紅乙女のお湯割りでモツ鍋でもつつくか。 あの傑作ルイジアナ・パンク・フロム・ザ・60'sもそうだったけど、 やっぱりルイジアナって、なんかこう…あるんだろね。 …あるよな。みんなこの辺の南部系はユルいユルいっていうんだけど、それはちょっとちがうような気が、する。 だいたい、「渚にて」にしたってユルいというような誤解がはなはだしいよな。 それいうんだったらサ、あのジョナサン・リッチマンだって、 ちょっとぐらい音が和んでてスカスカしてるからってユルユルって思うのは大間違いだぜ。 あんなに神経質なヒトつかまえて。でもさ、モダン・ラヴァーズってこのジャケの雰囲気ゼッタイ意識してたよな。 すごくイイ。この打算の無い美しさ。この結果オーライのいさぎよさ。
つまり Just for fun ってことで |
去年は…… いや、いうまい。話題をオヤジ向けCDに限れば、 ケビン・エアーズとロバート・ワイアットの新譜が聴けたというだけでも僥倖の年であった、 としておけば丸くおさまることも多かろう。 The Unfairgroundのレコーディングにちょこっと参加したビル・ウェルズ君から聞いたところではケビンさん、 遅い午後スタジオに現れ最初に要求するのはギターではなく「とりあえずビールね」居酒屋かよ! で、セッションが始まる頃には「誰か親切な人ウイスキー買ってきて」で、 シメは「誰か…コカイン…」だったそうだ。(少なくともビルが行った日は)たいていこのパターンだったらしい。 だけどアレ、そんなに格別イイとは思わなかったぜ。いや、いいんだけどサ。 オヤジが期待する70年代型エアーズってゆうプロダクションなんだが。どこかやらされてる感じ、あるよな。 焦点の定まらないCGのジャケットにしても全然グッとこないし。 えっ、ヒュー・ホッパー?マンザネラ?…どこに入ってるん?って感じで音が全体的にうす〜い。 ワイアットのもそうだったけどサ、なんかこう、音のむこうに感じるはずの存在感が、やけに軽い。 ま、ええか、軽くても重鎮だし。と、軽く処理して終わろうとした矢先。ドーン! いや〜コレコレコレ。 こうゆうのが欲しかったんだオレ。コレには、さすがに意表を突かれるものが…あった。 25年ぶりってエアーズなんかメじゃないね、で、この存在感。 ロビー・ロバートソンはコレを聴いた夜、人知れず涙し、そして、 しかるのち、こころの底から嫉妬したのではなかろうか (あえて聴かずに避けているかもしれないけどネ)。 なぜならコレは往年のザ・バンドがレコードに刻みつけようとしていた、茫洋たる19世紀アメリカの残像そのもの、 にリヴォン・ヘルム自身が成ってしまったことを示しているからである。 若きロバートソンの野心が獲得したかった汎アメリカ音楽の理想郷、の住人に。 ロバートソンがついぞ埋められなかった、音楽と自分との距離。 それは時として一億光年のかなたであり時として肩の上。 そのギャップをなんとしても埋めるべく、 彼は繊細にして荒くれたギターを弾きむしり幾多の胸をうつ旋律をつづったのだ… だが、かつての相棒ヘルムは年月を重ねてそのへだたりを無効にしてしまった。 つまりアメリカ音楽の「生き聖人」になってしまったってゆうコトだね。 もうマディ・ウォーターズを父としてあがめる必要は無い。 だってもう生き聖人だもの。生き聖人のドラムはとてもイイ。 スネアのタイミングがすでに音楽。自作曲が1曲も無いってゆうのも逆に説得力ある。 そう、もう曲なんか作らなくたっていいんだ。生き聖人だもの。もう何やってもやらなくてもイイ。
過ぎてみればあっという間じゃ 誰でも皆そうなんじゃ |
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