ジェロントロジー・高齢社会の人間学をテーマにしています     阪神・淡路大震災

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      “ 大震災から21年に思うこと”

 平成7年1月17日午前5時46分 
トラックか大型車両が部屋に飛び込んできたようなショックがあり、思わず妻に布団をかぶせて二人で小さくなっていました。寝室の洋服ダンスがベットをかすめ倒れ、幸いに直撃を逃れました

 この震災で考えたことは、私たち夫婦の今後の人生でした。被災者やボランティアの方々に多くのことを学びました。兄妹弟、妻の兄、その他多くの方々に助けられました         
被害01
阪神高速道路の倒壊(TVニュースより)
 岸壁の被害
六甲アイアンド岸壁の被害(岡島撮影
 家屋全壊被害
国道2号線東灘区家屋全壊(岡島撮影


1. 揺れと動揺

  冬の朝、布団の暖かさを満喫していたところ、突然のショック的な揺れがゴゥッーという地鳴り
 と同時に上下左右に、無茶苦茶にもの凄い破壊力で、襲いかかってきました。全てが壊れ…、
 また激しい揺れが来るかもしれないと思いながら、やがて静まり帰った時、危険を感じながらも、
 飛び起きました。

  しばらくは何が起こったのか判らず無意識な行動でした。リビングは、全て倒れ、ガラスの破片
 で素足では歩けない状況でした。マンションの部屋を飛び出し、管理人と各部屋のドアをノックし
 て回りました。ドアの開かないところでは開けてください、という助けを求める声があり走り廻っ
 ていました。

  自分の妻のことを思いだし、部屋の前に帰りますと妻に若い娘さんが抱き付き泣いていました。
 なぜか会社のことが一番に気になりだし、一人で家を飛び出しました。後から妻も一人では嫌だ
 と言って走ってついてきていました。

  なぜ私は、会社のことを一番にと考えが出てきたのでしょう。今でも不思議です。
 道路は上に掲載している写真のような状態で、私は車を運転してその隙間に車を走らせました。
  
  普段からなぜか、妻はリュックサックに貴重品をまとめていました。
 このお陰で落ち着いた行動がとれました。
 関東ではよく地震が発生していましたが、関西ではほとんど気にしていませんでした。
 普段からの備えの大切さを身をもって経験しました。

2. 瞬時に考えた事

  地震の当日の道路は比較的スムースに走ることができました。国道43号線の高速道路が倒壊し
 ていて、その下をくぐり抜ける時や液状化した道路を走っている時に、恐怖心が湧いて心に冷た
 いものが吹き抜けていました。

  やっと会社にたどり着くと私たちを入れて4名が出て来ていました。
 道路の陥没、護岸の破壊、荷役用のクレーンの破損、サイロの傾きなどいつ復興し、仕事が始め
 ることができるか等、想像もつかない状況でした。

  特に阪神高速道路の下をくぐり抜ける時は、恐怖感とよく判らない感情が芽生えていました。
 お金で作ったものは自然の一瞬の変化で破損すると言うことです。当時は下請け会社の代表者で
 あり、仕事が始まるまではどうにかして従業員に給与が支給できる体制が必要と考え、どうすれ
 ばいいのか、混乱した状態の中で考え続けました。

  会社に出るには、電車は不通、電気なし、水なし、食料なし、どうにもならない状況でした。
 平成7年当時は、携帯電話もなく、誰とも連絡はとれません。なすすべなく帰途につきました。

3・こころの変化

   マンションでは、エレベーターは動かない。水はない。電気・ガスは当然にない。
 そのような状況下で自然発生的に助け合いグループができていました。
 力の有る者は水を持って階段を上り、高齢者宅へ配り、女性は、食糧調達に走り、
 素晴らしいグループでした。

  電気がともり、水が送られて、トイレの使用、火は携帯ボンベコンロなどが支給されて、
 少しずつ生活が落ち着くと自然とグループは消滅しました。これが現在のNPO活動の始まり
 かも知れません。

  しかし、本当の苦労や悩みは、それ以後の高齢者の日常でした。避難所を回ってみました。
 多くの高齢者が、街の状況を聴いてきました。毎日余震がある中で本当に高齢者は恐怖感を
 もって日々を送っていたようです。

  高齢者の不安な生活はこれからも続くし、少しでも安心できる生活状態にと考え始めました。
 よく理解はできていませんでしたが、ボランティアの世界にこころが向き始めました。
 私は仕事上、船で世界を回っていた関係で比較的ボランティア活動は理解していました。

4・仕事(お金)から福祉活動へ

  ボランティアを始めるにしても先ず勉強をしなければ、自分勝手なボランティではどうにも
 ならないと考えて2年計画で勉強し、仕事を離れる計画を立てました。一番の心配は生活費です。
 ボランティアを始めるためには先ず自分の生活を確立する必要があります。
 経済的にどの位持ち堪えられるか、勉強に必要な日数はなど計算し、余裕は2年間としました。
 2年間一生懸命に働き、勉強し、仕事から離れようと計画を立てました。

  収入が無くなることになぜか妻は素早く判断し、了解してくれました。反対覚悟でしたが…。
 それからの2年間は仕事と勉強の二足の草鞋でした。

  勉強として、シニアライフアドバイザーを取得し、最も力を入れて勉強したのは心理学でした。
 シニアライフアドバイザーは、ジェロントロジーを基本としての老人学です。
 南カリフォニア大学とハワイ大学にて研修も受講しましたし、デンマークへの福祉研修旅行にも
 参加しました。

  ジェロントロジーは、全ての高齢者問題を学際的にチームを組んで活動する学問と考えます。
 救急インストラクター・健康生きがいつくりアドバイザー(厚生労働省外郭団体)成年後見成
 度・老人ホーム訪問等など高齢者に関する勉強に頑張りました。
 学生時代の勉強嫌いが年を取ってから報いが来たような気分でした。

  お蔭をもちまして、後期高齢者の現在も忙しくボランティアに打ち込んでいます。
 お金から離れて生きがいを感じ取ることの幸せを感じながらの日々を過ごしています。
 阪神・淡路大震災から21年目にして、思うことです。

                         シニア ライフ アドバイザー 岡島 貞雄
                               


  毎日新聞大阪本社/毎日放送報道局=編 毎日新聞社 1995年9月10日発行

  「ドキュメント 
希望新聞」に投稿し掲載された文章
                                   岡島みさ子 記


  六階建てマンションの五階、低い地響きで目が覚めると同時に横揺れがあり、すぐ上下入り
 混じった激しい揺れにフライパンで引っくり返されたようでした。

  主人と布団をかぶってその時間を耐えました。あらゆる家具が転倒しガラスは壊れ……。
 暗闇の中手探りで玄関までたどり着き廊下に出ました。

  お隣のドアを思いっきりノックしていました。非常ベルが鳴りっぱなしで、ドアが開かない
 部屋も。近隣の人たちが声を掛け合い助け合っていました。駐車場の入り口は停電で開けるこ
 とができません。車は車止めを飛び越えて後ろのフェンスに当たって止まっていました。
 
  主人の会社(神戸市東灘区深江浜)が心配で、どうにか車を動かし阪神高速道路の高架下を
 横切ろうとすると、橋げたの落下現場の近くで、身震いが止まりませんでした。

  港の方は土砂が道路一面を覆いどろどろ。路面の亀裂にタイヤがはまり身動きできない車が
 乗り捨ててありました。仕事場は約2メートル沈下。大型クレーンがレールからはずれ海に落
 ちかかっている状態でした。

  何もかも不自由になりましたが、生命が助かった私たちはこの大切な生命を最大限生かして
 精一杯がんばろうと思います。
                                                       
 



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