クリティック版を作る

概説

 ディプロマティック版は写真のように言うわけではありませんが、写本をある程度忠実に再現しています。こうした版は、写本と見比べるには便利ですが、単 体として見た場合、必ずしも読みやすいわけではありません。写本はゼロックスのコピーとは違い、手で書き写すだけに、写本によって程度の差はあれ、写し間 違いがあります。単語の写し間違いや脱落はもちろん、時には何行かが抜け落ちたり、下手をすると頁単位で文章が脱落したりもします。写本自体が完全な形で は伝わらず、頁の一部が破損、汚損したり、写本の前半部や後半部が失われたりしている場合もあります。また、古い言葉で書かれているだけに、難解な箇所も あります。日本語の古文でも現代日本語とは異なった文法や語彙が用いられる場合も少なくないのです。
 写本の内容を一つの作品として吟味したい場合、上記のような写本の不備や難解さがそのまま放置されているのは不都合です。作品は一部の専門家だけが読め れば良いというわけではなく、様々な人が目を通すものです。それに、たとえ、中世仏文学の専門家であったとしても、自分が得意としない分野の作品をディプ ロマティック版で読むのは非常に手間がかかるのです。そのようなわけで、原本に手を入れ、多かれ少なかれ、読みやすい形に書き換えたのがクリティック版で す。クリティックというのは「批判的」という意味ですが、ここでの「批判」というのは誰かを非難するとか攻撃する、といった意味ではありません。むしろ、 真実を追究するといった意味です。無反省に何かに従うのではなく、疑問をもって接する、疑うべき点を疑う、ということがクリティックの意味です。
 写本は中世の作品に触れるための唯一の媒体ではあるけれども、写本が中世の作品を間違いなく、写真のように再現したものだと考えるのは、正しくありませ ん。同じ作品の写本であっても、その間で記述が異なることも多いのです。もちろん、真実は追求したからと言って、得られるものではありません。真実の概念 そのものが、時代や地域、そして時には個人により、異なってくるからです。現在でも、ある人は、作品の真実に触れるということは、作者の意図を知ることだ と考えますし、別の人は、作者の手から離れた独立した小宇宙として作品を読むことだと考えます。同様に、写本が作品の真実をそのまま映し出すものではない という点では誰しもが合意するにせよ、どの程度まで原本に手を入れるべきかについては、研究者の間で見解が分かれます。しかし、共通するルールはありま す。どのように、そして、どの程度、原本に手が加えれられているのかが、読み手にわかるようにしなければならない、ということであり、読み手が望めば、手 を加えられる前の状態の原本に立ち返ることができるようにする、ということです。読者が批判的になるための材料を奪ってはならないのです。
 もちろん、手を加えられる前の状態の原本を示すということ自体、単純なことではありません。全く手を入れない原本の状態を示すとなれば、写本をそのまま 提供するしかありません。しかし、すでに述べたとおり、ディプロマティック版でさえ、読むのはかなり難しいですから、読み手に写本を読んでくださいと求め るのは、あまりに過酷な要求でしょう。そのようなわけで、一般論としては、あらゆる研究者が合意しているものの、具体的に、どのような情報を読み手に提供 すべきかについては、研究者により、意見が異なります。
 クリティック版のあるべき姿を論じることは、本書の目的を越えます。これについては、Edition électronique de la Chanson de Rolandの序文で筆者なりの考えを述べています。クリティック版では読者に提供するための伝統的な手法がいくつかあります。序文や注釈をつけたり、語 彙集をつけたり、といった具合です。それらの手法をコンピュータで効率良く実現するための方法を論じるのが本章の目的です。

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