2007年3月上旬

2007-03-01「EMOTIONAL」
ガーっ!今日もハードだったなぁ。
まぁそんなことより今日もNONA REEVES「DAYDREAM PARK」聴く。
中学生になった頃、洋楽ブームってのがあった。
MTVの出始めだ。
KBS京都で「ヒポポタマスストリート」なんて洋楽番組があってね。
マイケルとかプリンスとかヒューイ・ルイスにワムやカルチャークラブね。
マドンナとかシンディ・ローパーがデビューしたばっかりでね。
ネーナのボーボーの腋毛に度肝抜かれたりしてね。
80年代に青春期を過ごした人ならわかるでしょ。
とんねるずの石橋がさ、ライオネル・リッチーのものまねしてるの見て笑えるってのはみんな同じ体験してるからなんだな。
そう、あの頃の洋楽ってキラキラしてた。
音楽がエンターティメントとして輝いてた。
その感じがノーナの新作にはある。
ポップでエンターティメントしてて、それでいて儚さがある。
一曲目「FESTIVAL」の中にこんな一節がある「そう、わかってる/はじまりがあれば/なにもかも終わる日が来ると/だから明日へと進まなくちゃ/君を胸に刻む」。
音楽へのラブレターだ。
あの頃のキラキラした音楽、ただ懐かしむだけじゃない。
80年代が過ぎ、「音楽」は「音楽」を失い金になるエンターティメントとして成長したかに見えた。
90年代バブルに弾けた「音楽産業」には「音楽」のかけらもなかった。
音楽産業は音楽ファンからいち早くそっぽを向かれ、金にもならない音楽産業はついに犬からもそっぽを向かれてる。
気付いてないのは業界人だけで、みなに鼻で笑われてることがわからない。
もう一度、音楽を取り戻そう。
ノーナ、希望の星である。


2007-03-02「月火水木」
ダァーッ!今日もハードだったなぁ。
まぁそんな日もある。
とりあえず金曜。
クタクタんなって歩いてると、偶然友達とばったり。
お互いお疲れだね〜ってな感じで立ち話。
大変なのは俺だけじゃないね。
そりゃそうだ。
12時回って飯食ったらそりゃ太るわな。
しかし、今テレビで久しぶりに宇多田ヒカル見てるのだが、京塚昌子みたいになっちゃってるよ…。
いや、ほんとにね。
やっぱ多少の体力が残ってないと文章もまとまらないね。


2007-03-03「ともしび」
午前中は娘とWiiで遊んだりHDDチェック(「アメトーーク」関根勤、藤井隆、YOU、清水ミチコ。新垣結衣ちゃんの魅力を熱く語る関根氏53歳。見習いたい)。
午後から実家へ。
週末だけでも家で過ごそうということで父も頑張ってる。
父のベッドの横でいっしょにテレビ見て過ごす。
ぽつりぽつりとたわいのない話。
考えたら僕はやりにくい息子だっただろう。
よく男の子は父とキャッチボールなんかをしたもんだなんて思い出話をするが、僕にはその記憶はない。
父は野球好きだったし、遊んでくれなかったわけでもない。
僕が野球嫌いだったのだ。
いまだに野球のルールすら知らないぐらい。
部屋で絵を描いたりねんど遊びに没頭。
小学2年の時点で将来の夢は手塚先生のもとでアニメーターになることだった。
やりにくよ、幼少時の俺。
小3でラジオに出会ってエアチェック始めてたしな。
どんな風に思ってたのかな、あの頃父は。
で今日は実家泊まり。


2007-03-04「1分の1の地図」
で昨晩は納戸にあった古いアルバムをかって暮らしていた部屋があった場所で見返したりして過ごす。
アルバムっていいもんだなぁと思う。
朝から「おじょママ」にディラン、それとCOWCOWはすっかりヨゴレになっちゃって。
で「サンジャポ」でもディラン&キャサリンたっぷりと。
ディランブームまじにきてるねぇ。
父も眠っているのでちょっと散歩。
昔通ったルートで小学校まで行ってみる。
よく遊んだ公園を通り抜け、いっしょに通った友人の家を通り過ぎる。
交差点の押しボタン信号。
米屋の前の自販機にはもうプラッシーはなかった。
遠足のおやつを買った駄菓子屋ももうなくなってるな。
小さな電器屋。
ここのショーウィンドウにかざってあった赤いラジカセが欲しくてね。
スピーカーんとこが離れるやつ。
シャッターが閉まりきった商店街。
新しいマンションが建ってる。
学校の向かいの文房具屋はまだあるな。
小学校を抜けた先にある神社でお参り。
本堂の横の小さなお堂、そうそう4年生の時、ここを描いた絵で賞を貰ったっけ。
神社を抜けると剣道場がある。
幼稚園から小学2年まで剣道習ってた。
泣いて辞めさせてもらったんだよね。
かわりに絵を習わせてもらったんだった。
そしてまた神社を抜け別のルートから帰る。
そうか、子供の頃剣道着着て夜道をトボトボ一人で歩いて帰った記憶があるが、小学2年だったんだな。
今、娘が3年生だけど、この距離夜道一人で歩かせるのは怖いな。
当時はのんびりしてたんだな。
平和な時代だったともいえる。
そうそう、いつも犬に吠えられるとこがあってね。
わかってんだけど、いつも驚かされてしまう。
怖くてね、犬に見つからないように匍匐前進して通り抜けたりしてた。
一本道を真っ直ぐ歩いて好きだった女の子の家の横。
あの子はどうしているのやらってもう子供の2、3人も居るんだろうな。
帰って「横丁」にまたディラン。
何回観てもおもろいなー。
おやつに母オススメのケーキ店のロールケーキ。
甘さを抑えたたっぷりの生クリームにもちもちしたスポンジ。
それで500円という安さ。
限定販売で午前中には売り切れるという。
確かに朝一買いに行ったら小さな店に続々客入ってきてたもんな。
でこれが実に美味しい。
父も一口、二口。
夕方、また父は病院に戻る。
今回は2泊3日の帰宅。
点滴の付け替えなどもスムーズに出来たし、痛み止めも一度飲むだけですんだ。
母一人だと負担も多いが、しばらく週末は僕が泊り込むことでこのパターンも可能だ。
父も最初は不安がっていたが、ここ何回かの一時帰宅で自信もてたよう。
病院から母と僕が帰る時、父は泣き顔を作って見せた。
父なりのちょっとした冗談。
元気になって欲しい。
家に戻って母と夕飯。
それから大津に戻る。
明日からまた一週間。
1日、1日が大切な時間なんだと思う。


2007-03-05「チューニング」
朝から大雨。
月曜日の朝の憂鬱に輪をかける。
固いトーストを牛乳で流し込む。
目が痒い、鼻もムズムズする。
上がりきる不快指数。
テレビの星占いでは「今日、最も運勢が悪い」だと。
バタバタと仕事片付ける。
先週は酷かったが、今週は多少ましだろう。
あーどっか行きたい。
で今日はChocolat&Akito「Tropical」聴く。
前作は「愛に溢れた幸せなアルバム」と多くの人が評していたが、僕には「愛の裏にある痛みややりきれなさが滲み出たアルバム」と聴こえた。
そこが良かったんだけど。
で新作は随分リラックスしたように聴こえる。
風通しが良くて暖かな響き。
ショコラ作曲作品が素直で親しみやすいメロディで、その印象が強いのだろう。
うん。
これはいいよ。
「愛に溢れた幸せなアルバム」。
それも大それたものじゃなくて、小さなね。


2007-03-06「ハリケーン」
日曜はシャツ一枚で過ごせるほど暑かった。
で昨日は大雨。
今日はまたひどく寒い。
あー目が痒い。
今日はパルコ開いてる時間に終われたので久々に立ち寄る。
タワーを一回り、紀伊国屋で「スタジオ・ボイス」誌の細野さん、慶一さんのインタビュー記事立ち読み。
ま、結局それだけ。
今日聴いてたのはカーネーションのファンクラブ会報についてたCD-R。
物凄く濃い内容。
直枝さん自身が音楽ファン、音楽マニアだけに、ファンの喜びどころを知っている。
レア音源満載の大盤振る舞い。
ニヤついてしまうな。


2007-03-07「smile」
ここ数年、ほとんど毎日なにかしら文章を書いてる。
ま、文章以前のものも多いが。
今日は書くの止めようかなって日もある。
誰の為に書いてるわけでもない。
しいていうなら自分にむかって書いてる。
楽しいこととか、悲しいこととか、いろいろある。
なにもかも煩わしいなぁと思う時もあるけど。
とにかく、怒ったり、笑ったり、泣いたり、しながら毎日は続く。
それが生きるということなのだ。
今日も寒いな。
仕事片付け、夕方早退させてもらって病院へ。
妻と娘も連れて行く。
父、今日から個室に移ることに。
昼、母から電話あったときはドキッとしたが父思いのほかしっかりしている。
娘の声を聴き、少し微笑んだ。
主治医の先生とイロイロ話。
俺がしっかりせねば。
今日は泊るという母を病院に残し、帰宅。
途中でラーメンを喰う。
喰うことが明日につながる。
とにかく、怒ったり、笑ったり、泣いたり、喰ったり、しながら毎日は続く。


2007-03-08「いつも通り」
気合入れてコツコツ仕事。
咳がなかなか止まらない。
目が痒いのは朝、目薬したらすっとひいた。
なんだ。
母と何度となく電話。
落ち着いてるとのことで一安心。
とりあえず出来る限りの仕事をやっつけておく。
ひどく味気のない日記。
一日を振り返るが、掴みどころがない。
流れていた音楽も、交わした言葉も、湧き上がった感情も、暗い穴に飲み込まれてった。
ディスプレイに刻まれる文字は一体どこからくる。
あー頭がまわんねーや。


2007-03-14「サンキュー」
えっと、そんな訳で、久々の更新となります。
ご心配頂きましてありがとうございます。
なんというか、怒涛の一週間でした。
詳しくは追々と書いていきますね。
うん、なんだろーな、どうしようかなとも思ったけど、僕が出来る唯一のことはこうして書くことだから。
でまぁ少々長くなるし、あまりにも個人的なことだけどお付き合いください。
それではとにかく3月9日の日記からです。

3月9日、金曜。
朝6時過ぎ、母からの電話で起こされる。
父の様子がおかしい、すぐに来て欲しいとのこと。
布団から飛び出し車を病院へ走らせる。
いくらなんでもすぐにどうということはないだろうと娘は学校に行かせるつもりで出てきたのだが、途中思い直して娘連れて病院へ来てくれと妻に連絡。

去年の2月9日、伯父(父の兄)が亡くなった。
父とは10歳違いで最後の10年は寝たきりだった。
早くに父を亡くしていた僕の父にとっては親代わりだったのだが、42歳の時に大病をしてそれからは逆に父が仕事から何からずっと気にかけ面倒を見てきた。
なんとなく胃が痛いんだと言いながらも、そんな叔父の最期を看取り、葬儀を全て取り仕切った。
祖母も伯母も伯父もみんな送り出した父は、やっとこれから自分の生活を楽しむ番だった。
叔父の葬儀が終わり落ち着いたところで、調子が悪かった胃を検査すべく病院へ。
即入院。
胃癌だった。

7時過ぎ病院に到着。
父は大きく目を見開いたまま荒い息をしている。
鼻には酸素を送るチューブ。
母は父の手を握りしきりに話し掛ける。
でも大きく開かれた目は、どこも見ていない。
父の手を握る。
冷たい手。

そして去年の3月の終わりに手術。
無事成功。
胃は結局全摘出となった。
数週間後には退院もしてその後、経過は順調。
のはずだった。
しかし再検査で転移が見つかる。
家族で話をし抗がん剤治療を続けることにした。
父もがんばって苦しい治療に挑んだ。
その甲斐あってか、一時は大津の僕の家まで電車で来ることが出来るようにまでなった。
ただ、あれだけ食べることが好きだった父が、茶碗に半分のご飯も食べられなくなっていた。
そして食べられないことで体力はどんどん落ちていった。
術後体重は20キロも落ちていた。
12月の終わり腹痛を訴え、再入院。
まぁ点滴を打って、体力をつけ数週間後には退院できるだろう最初はそんな気持ちだった。
明けて07年。
お正月は外泊許可を貰って一時帰宅。
お雑煮を少し食べたが、大半の時間はソファで苦しそうに横になっていた。
一日の夕方にはまた病院へ。

9時前に妻と娘が到着。
父の状態は変わらない。

1月の半ば、主治医の先生から呼び出し。
転移した癌はさらに広がっている。
抗がん剤の治療が体力を奪う結果になっていた。
2月の旧正月に香港在住の兄が帰ってくるのだと先生には伝えていたが、間に合わないかもしれないと兄が緊急帰国。
家族で先生と話し合い。
とにかくゆっくりでもいい。
抗がん剤は一旦中止し、まずは体力を戻すように治療して欲しいとお願い。
それでもその時はまだ父は一人で座ることも出来たし、支えながらでも歩いてトイレに行くことも出来た。
話してもしっかりしてるし、とてもそんなに悪いようには見えなかった。
2月になって先生の勧めもあり、週末一度家に帰ってみようということになった。
もう点滴は腕からは入れられなくなって肩から入れているし、尿の管もついたまま。
それでも介護タクシーを頼めば寝たままで運んでもらえる。
不安があったんだろう、最初父は帰らないと言っていたが、それでも最終的には自分で帰ると決めた。
2月10日、父の70回目の誕生日は自宅で過ごせた。
問題なく無事に一時帰宅できたことで自信がついたのだろう。
次の週は、旧正月で香港から兄が帰ってくる。
それに合わせてもう一度帰宅。
みなで賑やかに旧正月を過ごした。
病院に帰った父は看護婦さんにどうだったと聞かれ「うるさかった」と答えたんだと。
父らしいひねくれたジョークだ。
次の週も帰る予定にしていた。
母一人では自宅介護は難しいが、週末なら僕が泊まりこめる。
この2回の帰宅で要領もわかってきたし、これからは平日は病院で、週末は家で過ごそうと決めていた。
だが体調が悪くなり残念することになった。
抗がん剤治療はもう止めていた。
とても堪えられる体力じゃないと主治医の先生に言われ、僕たち家族は話合った上で、痛みを取り除く緩和治療への切り替えに同意した。
お腹に貼る痛み止めの麻薬。
黄疸が出始め、処方する麻薬の量は徐々に増えていった。
翌週、体調は若干戻り先生からもOKを貰って帰ることになった。
父は直ぐにでも帰りたいと言い始め、土・日の予定を1日早め3月2日の金曜から二泊三日で帰宅することになった。
土曜、家族で実家へ。
賞を貰った娘の絵を学校から借りて持っていく。
ベッドの上で父はその絵を食い入るように見つめていた。
父の横に寝そべっていっしょにテレビを見ながらたわいのない話をした。
テレビには美味しそうな料理。
病院じゃ食べたいものが食べたい時に出てこないんだと父。
そんな話をポツリポツリと。

9時過ぎ。
目を見開いたまま必死で息をしている父。
僕が病院に着いてからもう2時間。
母は妻に銀行へ行く用事を頼み、ついでに娘に本でも買っておいでと病室から二人を出す。
いつまでもこの状態が続くような気さえしていた。

3月4日、日曜。
朝から父が好きだったロールケーキを買いに行く。
暖かな日差し。
みんなで食べようかと言うと、この2ヶ月ほとんど何も食べてない父も食べたいと言う。
もう一人では座ることも出来ない。
母と二人で起し、座らせる。
父と母と3人でケーキを食べる。
生クリームとスポンジケーキ、少しずつ父の口に運ぶ。
ゆっくりと噛み締める父。
3月7日、水曜。母から電話。
父の反応がおかしい、話かけても判ってるのかどうなのか…と。
電話口で母は泣いている。
すぐに会社を早退して妻と娘といっしょに病院へ向かった。
覚悟して病室に入る。
サオリ(娘の名前)が来たよ。
母が話し掛けると父はふとこっちを見た。
朝から意識がなかったなんてとても信じられないぐらいその目はずっとしっかりしていた。
「みんな居るのか?」と父は言った。
朝から一言も喋らなかったのにと母は驚いていた。
「…みんなで住む。…同居や。同居の準備をしてくれ…」。
聞き取りにくい声で父が言う。
痛み止めの麻薬の量はもう随分増えている。
現実と夢の境目がなくなっているのだろう。
「わかった。ちゃんとしとくから。安心しいや」僕はそう言うしかなかった。
主治医の先生と別室で話。
今週、来週がヤマになるでしょう。
そう告げられる。
でも想像していたより父はほんとにしっかりとしていた。
1月に、兄が帰ってくる旧正月までもたないかもしれませんと言われたが全然大丈夫だったじゃないか。
今だってまだ全然しっかりしてるよ。
意識がなくなったなんて母も大袈裟なんだからとさえ思った。
大丈夫、全然しっかりしてるよ。
帰る時、娘の手を握り微笑んでバイバイをして別れた。
その夜、父の朦朧とした言葉を思い返し、僕らといっしょに住みたかったのかなと思うとどうしようもなく泣けてきた。
3月8日、木曜。
何度となく母に電話。
状態は変わらず。
今日は来なくていいからと母。
じゃあ今日は仕事出来るだけやって明日は金曜だから早めに終わらせて泊るからと僕。
そしてその夜、明け方近く急に息が荒くなったらしい。

9時半。
なんとなく息をする間隔が長くなっているよう。
それでも父は大きく目を見開いて必死に生きている。
数日前から父の胸には心拍数がモニターできるように器具が付けられている。
ナースセンターでチェックしてくれているのだ。
9時45分心拍数が映し出されるモニター画面を持ってバタバタと看護婦さんが駆け込んでくる。
テレビでよく見る画面。
ピッピッピッとグラフが映し出される。
右上の数値が50から40に、40から30に見る見る落ちていく。
息をする間隔が、またさらに長くなる。

そして-息が止まる。

モニターの右上には「0」という数字が映し出され、グラフは一本の直線になった。
3月9日、9時49分。
父が死んだ。

ケーキを食べた後、一眠り。
病院へ戻るための介護タクシーが来る少し前、父が僕を呼ぶ。
背中をさすって欲しいと言うので布団の間に手を入れさする。
10分、20分、ゆっくりと父の背中をさする。
そして父は僕を見て、右手を振ってなにか言った。
えっ?何や?
聞き返すと、父ははっきりと「サンキュー」と言った。
父と自宅で交わした最期の言葉だ。
まったく、なにが「サンキュー」だ。
それはこっちの台詞だよ。
最期まで気ばっかり使ってやがる。
いつも僕が行くと迷惑かけてスマンなと言ってたな。
しんどいはずなのに、お見舞いのお客さんが来ると急にしっかりして饒舌になる。
看護婦さんたちも言う。
どうですか?と問い掛けると絶対に大丈夫って答えるんだと。
どうせ最愛の孫娘に最期の瞬間を見せないように、病室を出たタイミング見計らって逝っちゃったんだろう。
何だよ、やっとこれから自分が楽しむ番だったのに。
みんなに頼りにされて、みんなの面倒を見て、十分すぎるぐらい人のことはやりきった。
僕は昔からなんというか大人を冷静に見てた。
生意気な言い方だけど、この人は尊敬できるな、とか、凄いなという大人に出会うことは実生活に置いては少なかった。
でもはっきり言える。
父は僕が唯一尊敬できた大人だった。
息子としてこんな幸せなことはないと思う。
だからこっちの台詞を言わせて欲しい。

サンキュー。


2007-03-15「LONG SEASON」
多くのコメントありがとう。
葬儀に参列してくれた友達、心配して電話やメールくれた友達、ありがとう。
昨日、初七日も終え一段落です。
ま、会社は火曜から行ってるし全然元気ですよ。
変な言い方だけど、清々しい気持ちでさえある。
父の最期は立派で、見事なものだった。
父が死んでから葬儀に至るまでの間、それを実感することが多々あった。
その辺りのことも追々書いていきます。
そんな訳でpopholic版「お葬式」。
シーン1です。

3月9日午前9時50分。
父の横で泣き崩れる母。
人一倍陽気でお喋りで元気な母。
去年、父が胃癌だとわかった時、母は電話口で嗚咽していた。
それからほんとによく尽くした。
普段から世話焼きの母だが、それはもうよく父の世話をした。
12月に再入院してからは毎日8時には病院に行き、最終のバスの時間まで。
父に話し掛け、背中をさすり、お茶を飲ませ、先生から掃除のおばちゃんにまで頭を下げ、気を配りまくっていた。
ちょっとは休めよって言っても一時も止まっていない。
母もよく頑張った。
2月25日が40回目の結婚記念日だった。
いい夫婦だったんだ。
息子の僕から見てもそう思う。
19歳で結婚して40年、か。
そりゃ泣いてもいいよね。
いくら泣いても追いつかないよ。
看護婦さんたちがテキパキと点滴の管などを取り外す。
僕も泣いてばかりはいられない。
兄に電話。
2月に香港に帰る時、もう会えないかもしれないと帰っていった。
今からすぐ戻るからそれまで頼むぞと兄。
さてここからが大変なのだ。
悲しんでいる暇はない。
「お葬式」の準備だ。
何から手を付けていいのかわからないが、まずは葬儀社にTEL。
母、手帳にしっかり電話番号書いている。
準備いいんだから、もう。
病院名を告げ迎えの車を手配。
それから親戚達に連絡。
その間、母と看護婦さんたちが父をキレイに洗って着替えさせる。
黄疸で黄色かった顔にもきれいに化粧がされる。
穏やかな顔だ。
今にも起きだしてきそう。
妻、娘も手伝って病室の荷物を片付ける。
伯母達が病院に駆けつけてくる。
窓からは暖かな日差し。
いい天気だな。
この病院にもよく通ったけど、今日が最後だ。
看護婦さんたちが次々と父の顔を見に来てくれる。
父が最期まで懸命に戦っていたことを改めて知る。
葬儀社の車が到着する。
ストレッチャーに乗って病室を出る父。
病院のみなが見送ってくれる。
さぁ、家に帰ろう。
あなたが建てた家だ。
僕達家族が暮らした大好きな家だよ。


2007年3月下旬の日記へ


今あなたがご覧になっているHPは「OFF! 音楽と笑いの日々」です。
引き続きお楽しみ下さい。