第6回 「お笑いノスタルジア〜前編」

popholic

で「スーパーサブ」についてはなんだかわからなくなってきましたね。解釈の違いは埋まりそうもないようです。これちょっとおいてまたやりますか?

後、引きずることもないのですが「乳首隠して尻隠さず」問題。
どうしてこうも男は女性の裸に過剰に敏感なのでありましょう。
「乳首?そんなもの興味ないね!」そう言いながらどんぶり飯をかっこむ、そんな強い男になりたいとは思うのですが・・。
あえて脱線しますが「Vシネマ」の独自の世界観には前から注目しています。
実際はほとんど見たことないのですがレンタルビデオ屋にずらっと並ぶVシネマを眺めてるだけでそのなんとも言えない威圧感に圧倒されます。
世間がいくら反町だ、竹野内だと騒いでもVシネにおいては竹内力が絶対であり清水健太郎がスターなのであります。
しかし Vシネマいったいどういう層が見てるんでしょうね。
少なくとも僕の回りには「見た?ミナミの帝王の新作」なんて聞く奴はいませんが。
多分、オートバックスとか国道沿いのカー用品店によくきてる客層と一致するのではと見てるのですが。

さて「お笑いノスタルジア〜前編」とまいりますか。
私も幼稚園の頃、よく「電線音頭」踊ってました。
むしろドリフの記憶より「見ごろ食べごろ笑いごろ」伊東四郎、小松政夫コンビの記憶のほうがあるなぁ。
キャンディーズのミキちゃんが好きだったのも憶えている。
今思えばどこが良かったのかさっぱりわかりませんが。(ちなみにその後、ピンクレディーのミーちゃんに乗り換えるのですが。まぁそのあたりはまた別の機会に)
確かに僕らの世代は最初はドリフってのは当然なんですが実を言うとそんなに入れ込んでもいなかったように思います。
小学1年の時は裏番組の「欽ちゃんのドンとやってみよう」を熱心に見てました。
兄が居間でドリフ見てる時、隣りの部屋で一人「欽ちゃん」見てましたねぇ。
その頃の欽ちゃんはバラエティーにドキュメントスタイルを取り入れるなどかなり実験的なことをしており、今では考えられないが多分にラディカルな存在だった。
もちろんそんなこと考えて見てたわけではないが王道のドリフより斬新な欽ちゃんに惹かれるところがあったんでしょう。
小学1年の頃にはすでに文化系ガキだったのでね。
憶えてるのは気仙沼ちゃんとか西山浩司の「ミラクル光線」ってギャグ、欽ちゃんと前川清、香坂みゆきがなんかおもしろハガキ読むみたいなコーナーとか。

で漫才ブームが来るわけですね。
調べてみると1980年4月が一回目の「THE MANZAI」。
小学3年です。もちろんはまりました。
結婚して家出るとき昔のカセットテープが出てきたのですがそこにテレビの前にマイクセットしてむりやり録音した漫才がありました。
録音してたのが3組。ツービート、紳助・竜助、のりお・よしお。今と趣味変わってませんね。でも子供にしてはなかなか見る目あったでしょ。普通、B&Bとぼんちでしょうから。

それから「お笑いスター誕生」も好きでしたねぇ。
僕が見始めた頃はちょうどギャグシンセサイザーが10週勝ち抜きしたぐらいの頃。
小柳トムの警官コントに笑い転げたものでした。
あとやたら好きだったのが九十九一(つくもはじめ)。
おかまの独白とかそういう一人喋りをしてた人で確か9週目ぐらいで一回落ちて再挑戦で10週勝ち抜いたと記憶してます。
「お笑いスタ誕」には思い出深い芸人さんが多いですよ。
ミスター梅助
法律漫談、ラーメンの名前をずらっとあげて最後に「中尾ミエの麺ぱっちん」というとこで笑いとってました
ぶるうたす
筋肉漫談、筋肉天気予報「波が高まるでしょう」と言いつつ胸の筋肉を動かす
たかあき&のりたけ
ご存じとんねるず。貴明のサンダーバードのまねが印象的
アゴ&キンゾー
アゴ勇と桜金蔵のコンビ。最初見たとき、腹筋きれそうなぐらい笑った。ひたすらナンセンスなコント。「オッケー、オッケー、桶」とか、キンゾーがアゴの顎を持って「ロング、ロング、アゴ」とかほんとおかしかった。
こだま・ひかり
若き日の大木こだま師匠。相方ひかりの覚醒剤所持で幻の10週勝ち抜きコンビに。確か10週勝ち抜いた収録直後にひかりが逮捕され、テレビでは8週目ぐらいまでしかの放送されなかった。
その他、シティボーイズイッセー尾形青芝きんた・もんたミヤ蝶美・蝶子、そうそうコロッケもいた。
いやー、「お笑いスタ誕」語り出したらきりないぐらいですわ。

で話前後しますがついに始まったのが「俺たちひょうきん族」。
当時ラジオ小僧だった僕は深夜放送(ハイヤング京都)でぼんちが「ひょうきん族という番組が始まるんだ」みたいな話をしており第1回放送を首を長くして待っていたもんです。
一応、資料見ると81年5月から7月までパイロット放送。10月から正式に番組スタートしてますねぇ。
最初はいくよ・くるよとか阪神・巨人とかも出てたように思います。
ぼんちは途中から裏番組(日本テレビ系で三波伸介司会、お笑いスタ誕出身メンバーが主に出演)に引き抜かれ消えていました。
最初の頃はコンビがばらばらになって新たなコンビ、トリオを組むってのがメインでした。
一番はなんといっても「うなずきトリオ」(もともとこの発想は紳助が作ったネタからだったと記憶します)。
後のりお・洋七・おさむの「やかましトリオ」、紳助・たけしの「いじわるコンビ」、まさと・よしおの「仲良しコンビ」とか。
しかしこれ結果的には「うなずきトリオ」以外はいまいちだったと思います。

さてこの時点でかなり長くなりました。
まだ小学生時代から出てないのに・・。
でとりあえずこれだけの記憶が残ってるということはかなりのお笑い好き小学生だったのは間違いありません。
それも実践派ではなく研究派だったことも伺いしれます。
しかし僕の場合、HKさんと違ってクラスの人気者にはなれませんでした。
小心だった僕はいくらおもしろいことを思いついても授業中、大きな声でみんなに発表する勇気がなかったのです。
隣りの席の女の子や前後数人の友達にこっそり発表してマニア受けを狙うそんなガキでした。
でもよくそんなふうにこっそり発表したギャグを「クラスの人気者」みたいな奴にとられ、そいつがクラス中に発表して大うけ。
その姿を見てめちゃめちゃ悔しい思いをした記憶があります。
それも一回や二回じゃないのでその思いはいまだ強く残ってますね。
後、休み時間、みんながドッジボールとかしてるとき友人のT君と教室にあるもの片っ端から駄洒落にしていくという遊びをしてました。そんな努力もあってかクラス新聞の一角に「駄洒落コーナー」みたいなの書いたりしましたね。
小学4年から6年までの3年ぐらいかけてマニア人気を高めていった感があります。で中学に入って僕は「暗黒時代」に突入するのですがその話は次回「お笑いノスタルジア〜中編」に続けましょうか。
いやー、この話。予想以上に長くなりそうですよ。

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