指 輪  野々宮桂子(ののみやけいこ)


また春がめぐってきた。
出会いの、そして別離の季節だ。
あの子はどうしているのだろうかといつも思う。
春の花にも似た、可憐な少女だった。
少女は不登校を続けていた。ときどきは思い出したように登校するのだが、
一日じゅう窓の外をぼんやり眺めている。「グラウンドに好きな男の子でもいるの?」
とからかったら、「先生の発想、かわいいですね」と返された。
はじめて見たときから、彼女のことが気になってしかたがなかった。
子どもっぽい顔立ちに、妙に大人びた口ぶりとしぐさのアンバランス。
悟りきったような不遜な態度・・・・。
これではまるで私の少女時代のコピーではないか。
やがて私は出勤前に彼女の家を訪ねるようになり、彼女もそれを待つようになった。
十四歳の少女と二十二歳の新米教師は、姉妹のように手をつないで校門をくぐるまでになった。
学校が終わったあとも、ときには休日も一緒に遊んだ。
彼女には母親がいない。
母親は数年前に家を出て、遠い町で働いているという。兄弟もない。
彼女は小さなアパートの一室で、洗濯や夕飯の支度に追われながら、
父親が仕事から帰ってくるのをひとりで待つ。
「いつか、おかあさんと暮らせたら・・。
でも、私が働けるようにならないと、おかあさんに負担をかけるだけですよね・・・・」
母への思慕がため息に変わるとき、彼女の瞳は独特の翳りをおびていく。
事情があって、私は母の実家で育てられた。
愛情深い祖父母だったが、両親ではなかった。
そして気がついたら、母ひとり子ひとりの家庭になっていた。
「自分で育てられないのに、なぜ産んだの?」
口には出さなかったが、そんな思いが絶えず渦まいて、私から確実に何かを奪っていった。
あれは「子どもらしさ」とかいうものだったかもしれない。
私は不登校が悪いとは考えないが、彼女にとって学校が、「子どもでいることを許される空間」
であってほしいと願っていた。
彼女を存分に甘えさせてやりたかった。
「来年は先生が担任だといいな」
彼女の口ぐせだった。彼女にとって私は「先生」という形でしか関われない人間だった。
母でも姉でもない私の、それが唯一の呼び名であった。
けれども春になれば、私はその呼び名のまま、彼女のもとを去らなければならないのだ。
転勤を告げたとき、彼女は一瞬、ぽかんとして、それからまじまじと私を見つめた。
次の瞬間にはかすかな笑顔になった。
「転勤かぁ、しかたないよね。仕事だもんね」
この子はいつもこうなのだ.またしても「おとなの事情」を、抗おうともせずにのみこんでしまう。
別れの日、彼女はバス停までついてきた。
私たちはやっぱり手をつないで、無言のまま歩いた。
語りかける言葉が、私にはなかった。
「先生、わたし、先生みたいなおかあさんになりたい」
もうすぐバスがくる、というときになって、彼女はやっと口をひらいた。
とたんに大粒の涙が、彼女の頬をぽろぽろと転がり落ちた。
「先生みたいなおかあさんになりたい。でも、ほんとは先生の子どもに生まれたかった。
先生に育ててもらえればよかった。先生の子どもに生まれてくる子がうらやましい・・・・」
しゃくりあげる子を置いて、私はバスに乗れなかった。
バスは何台も、私たちを通り過ごしていった。

このまま、この子の手をひいて、連れて帰ることができたらどんなにいいだろう。
私の父がそうだったように、この子の父親も、案外すんなり娘を手放すのではないか・・・・。
けれども、それはできない相談だった。わかっているのに、私は逡巡していた。
彼女が初めてぶつけてきた感情の嵐に、おろおろしていた。
私はとっさに左手から指輪をひきぬいた。
宝石のないシンプルなデザインが、結婚指輪みたいできれいだと、彼女がいつもうらやましがっていた指輪だ。
いい恋をして、すてきな女の人になるのよ。
それから結婚指輪をもらって、それから・・・・おかあさんになるのよ。
これはそれまでのお守りだからね、なくさないようにしっかりはめて、しっかり幸せをつかみなさい」
そんなことを言いながら、私は指輪を彼女の指にはめてやった。
指輪は少し大きくて、彼女のくすり指でくるりとまわった。
かぼそい指があわれだった。
少女と指輪をのこして、私はバスに乗った。
こらえていたものがあふれ出て、とうとう振り返ることができなかった。

                         *
あれから十年・・・・。
いつしか連絡もとだえがちになり、今では彼女の近況を知るよしもない。
母親のもとに引き取られたり、父親のところに返されたりの不安定な生活が続いたと聞くが、
あの子はそれを無事に乗り越えてくれただろうか・・・・。
すてきな恋をして、すべてを抱きとめてくれる人に出会ったろうか・・・・。
あのときの指輪は、もはや彼女の指にはないのだと思いたい。
そして、あの指輪のかわりに結婚指輪をはめ、かわいい子どもに恵まれた、
幸福な人妻でいてくれることを願わずにはいられない。