「塞翁が馬」 投稿者  匿名希望


私は学校が好きではなかった。
小学校、中学校、高校、大学といかせてもらったが、はっきりいって毎日とて
も苦痛だった。(大学はむいてない学科を選んだせいで、ほかのものとは意味
が異なるけれど)
学校は勉強をするところだというが、それはウソだ。
もし勉強をするだけのところだったら、私は毎日あれほど学校に行くのが苦に
ならなかったと思うからだ。
それが証拠に学生時代いかせてもらったドイツの学校は楽しかったし、トシを
とってからも語学学校やら写真学校やら学校と名のつくところにせっせと通っ
ている。
勉強が楽しいだけでなく、友人関係だって楽しい。お金と時間がゆるせばずっ
と学生でいたいと思うくらいだ。

なんでそんなに学校がキライだったんだろう。

なんだか学校はいつも息苦しかった。
給食の食べ方から、号令にあわせた行進、スカートや髪の長さ、その他いろん
な決まりごとがあってそれにあわせるのに腐心していた。
私は「こうしたい」という積極的な欲求のない無気力な子どもだったけれど、
あれこれおしつけられることにこたえながらも妙な息苦しさを感じていたよう
な気がする。
いわゆる優等生だったから、器用に先生方の要求にこたえていたけれど、それ
はそれで、普通に反発しているほかの子どもたちの気にさわっていじめにあい
つづけた。

肝心の勉強だってそうだ。

今考えると不思議だが、どんな問題にもひとつのこたえが用意されていて、そ
れが正解なのだ。2つ答えがある問題が出題されたとしたら、それは「出題ミ
ス」なのである。
でも本当に私たちが暮らす世界には解はたくさんある。真理と思われているこ
とがある日誤りとわかったりもする。解をうたがって多面的にみつめる姿勢こ
そ、学問や技術の発展を支えてきたのである。
だから、本当に、学校が学問を教える場だとしたら、用意されたひとつの解を
導く訓練をさせてはいけないはずだ。

でも日本の学校というところは少なくとも私が育ったときはそうだったし、今
も巷にあふれる教材やら、新聞の報道やらをみていると、たいして変わらない
価値観のなかにあるように思う。

本当に残念なことだ。

お金持ちで、海外や、インターナショナルスクールや自分の価値観にあう私立
の学校など、うけたい教育を選べる人は別だが、あいにく普通の家庭の子ども
たちにはうけたい教育を選べる自由はない。
その上、「受けたい教育を選べないからといって「受けない自由」が認められ
ていない。親には「教育を受けさせる義務」があるからだ。

今、学校を私と同じ気持ちで苦痛に感じているきみたちに、20年くらい前に同
じつらさを味わった友人として、伝えたいことがある。
それは、決してあきらめないでいてほしいということだ。
決められた解があたえられているテストにうんざりしても、号令や行進を苦痛
に思っても、その苦痛や絶望感に無力にならないでいてほしい。

いろんな方向で検討することの重要性を知ったり、無意味な生活指導の意味を
考えることは、どんな学校生活のなかででもできる。つまらない、問題の多い
ところほど考えるきっかけはつきないのだから。

是非つまらない学校生活にうんざりしているきみたちには、そのチャンスをつ
かんでもらいたいと願っている。「人生万事、塞翁が馬」というおちゃめな格
言が日本にはあるのだ。

私は大人になってからいろんな学校にいっている。
学校のときは苦痛だった語学ですら海外にでかけていってまで勉強している。
学校での出会いは楽しいし、そこで得た友人はかけがえのない財産である。

その費用を捻出できたのが、膨大な量の過去問を丸暗記して取得した某国家資
格だというのも皮肉なものだ。

それこそ、「人生万事、塞翁が馬」である。

「ちなみに私は未だにその資格をつかって仕事をしているが、大学で学んだこ
とも、国家試験のために暗記したことも正直なところ頭に残ってはいない。

本当の勉強は、学校が終わってからでもできるし、自身が学生のときには学校
を変えることは難しくても、自分が教員になって、学校を変えることだってで
きるのだから。