野々宮桂子さんの「指導困難児」を読んで−KOSAKA


 「校内暴力深刻化 件数倍増、過去最悪に」−。 98年12月19日の朝刊各紙社会面は一様に、悪化の一途をたどる校内暴力の現状を伝えた。文部省が発表した97年度調査を報じた記事だ。一方、同月22日付の日本経済新聞によると、総務庁が行政監察の結果、「教育委員会や学校は校内暴力やいじめへの認識が低く、的確な対応を取っていない」として、文部省に対し早急に対応策を講じるよう勧告した。

 ◆やり場のない怒りと悲しみ
 校内暴力に対する危機意識が低いのは、文部省だけでなく、私のような一般の社会人も同じだ。 野々宮さんの「指導困難児」は、約10年前に著者自身が勤務した大阪の長野中学校で実際に起こった出来事を通じて、そうした私たちに荒廃した学校の惨状がどんなにひどいものか、これでもかという迫力でみせつける。

 困難な状況に立ち向かおうと苦悩する教師たちがいる半面、校長や一部教師は自己保身に立ち回る。また、教育委員会は機能せず、父兄の一部は学校任せで無責任な態度に終始する。読むほどに重い気持ちにさせられ、やり場のない怒りと悲しみが心に充満した。 現在、似たような状況に陥っている学校が少なくないと思うと、寒々とした気持ちになる。 

◆「梅川事件」の教訓
 「しろうと」なりに、この本を読んで感じたことがいくつかある。 一つは、少年法の問題だ。野々宮さんは指導困難児の「広志」について言及した個所で、「心の病を治療する必要がある…放置したまま大人になれば、いつかは犯罪に結びついてしまうだろう。…しかし、現代の残虐な事件を次々と引き起こす少年たちにとって、古い時代に作られた少年法は甘い」(p211−212)と指摘している。私も、昨今の少年犯罪のひどさを見るにつけ、少年法の規定を改めることが早急に必要だと感じている。

 ジャーナリストの麻生幾氏が最近、週刊誌上で過去の社会的大事件を取材、検証している。その中に、三菱銀行が猟銃をもった男に占拠された「梅川事件」を扱ったものがあった。この事件の教訓の一つとして、麻生氏は犯人の梅川が少年時代に非行の限りを尽くしながらも、少年法に守られる形で、収監されることなく、“野放し”にされたのが事件の根っこにあると指摘していた。

◆「専門医の治療」を
 次に、学校の対応にも疑問に感じる点が少なくない。なぜ、一部の学校や教師は指導困難児に甘いのだろう。相応な処罰として警察に逮捕してもらうことを、なぜそんなにためらうのだろう。「学校では何をしても処罰されない」と彼らが思えば、ますます増長するのは当然の帰結だ。その結果、さらに事態は深刻化する。

 そうした教師の態度を見せられる他の一般の生徒が何も感じないはずはない。「…半ばひきつった微笑を浮かべている教師の弱さを、他の生徒たちは子どもらしい敏感さですでに見抜いているはずなのだ」(p43)。暴力生徒を野放しにする教師を尊敬できる生徒がいようか。また、そうした教師が一般生徒をいじめや暴力から守ってやれることができるのか。

 非常に素朴な感覚として「中学生くらいになれば、やっていいことと悪いことの判断はつかなければならない」と思う。その判断ができない生徒には鑑別所、少年院で「専門医の治療」を施すことはやむを得ないだろう。それは彼らを突き放すこととは違う。野々宮さんの同僚だった佐伯先生のことばにそれが表れている。「ちゃんとわかってくれるさ。それが指導なんだってことをな…子どもが望めば少年院から高校へ行かせてやることだってできる。その子が今じゃ立派な大人になっとる」(p96)。

◆奮闘する教師に深い敬意
 また、学校が秘密主義に陥りやすいことは、父兄などに不信感を生みやすい。校内の実態をきちんと外に向かって説明し、問題提起していくことで、父兄も交え地域ぐるみで改革の道を模索できる可能性だってある。ただでさえ、学校は閉鎖的な社会だ。小学生をもつ親として、そうした学校の在り方には不安を感じる。

 最後に、こうした閉塞的な状況の中でも、常に奮闘されている教師の方々が存在していることを心強く感じるとともに、その超人的な努力に深い敬意を払いたいと思う。願わくば、教育改革の実現に世論が盛り上がり、こうした教師の努力がいつの日か報われますように。
                                     (了)