学校にまつわる話 投稿者 豊中一中卒業生K


私は、中学時代「いじめ」を経験した。
このいじめの経験というのは、いじめる方と、いじめられる方両方である。
最初、私はいじめられるまで、いじめる側にいた。
その時は、まったく人の心というものを考えていなかった。
むしろ、いじめている事が楽しみになっていた。
本人に聞こえるように、その子の欠点を大きな声で叫んでみたり、教科書に傷つくような落書を
したり、その子の大切なものを隠したり、本当にひどい事をしていた。
何がどうゆう風に楽しかったか説明できないが、とにかく楽しくやがて、その楽しみは日課に
なっていった。

ある日、私は、クラスで一番強い子と(この強いというのはクラスを仕切れるという意味である)
けんかをした。(原因は覚えていない。忘れるくらいだから、きっとくだらないことだろう)
その次の日から、私に対するいじめが始まった。
私がしていた事をそっくりそのまま返された。
こんなに苦しいものだとは、思わなかった。
朝、ご飯が喉を通らない。胃が痛み、いよいよ髪の毛が抜けた。
そうなってからやっと私は自分が、どれだけひどいことをしていたかが解った。
私はいじめていた子に泣きながら謝った。
その子は、優しい顔で「いいよ」と返事を返した。
私は、こんなに心のきれいな、本当に優しい子にどこか嫉妬を持ち、脅えていたのかもしれない。
だからあんなにひどい事を、していたのかもしれない。
私に対してのいじめは、2カ月程続いた。
その2カ月はというのは本当に長く感じた。
しかし、その2カ月は、私にとって一番心の勉強ができた。
「因果応報」その時初めて痛感した言葉であり、同時に、自分にされた不愉快だと思うことは
人も同じだということ。
人は、感情に生きる動物かもしれない。
だからこそ、言葉や行動には、相手の気持ちを考えないといけないという事。
特に言葉の暴力は人の心を殺しかねない。
いじめというものが、完全に無くなる日はないと言っても、過言ではないかもしれない。
人は自分より下に人を置き、それが満足感となりやがて自分を安定させるための手段と
なっている。
だから、差別というものがあり、戦争というものがあるのだ。
仲間外れを見付け、それを指摘し、存在を消していく。
多数決で「正さ」常識を決め、少数の純粋な心を殺している。
本当の「正さ」とは自分を愛するように人を汎く愛し、それででた結果だろう。
今でも、人種差別、部落、また、学歴、等などくだらないことで、同じ扱いを受けず
苦しんでいる人がいる。
こういった差別の原因はいじめにあると思う。
このいじめが無くなる日は、無いかもしれないが私達は、少しでも正しい人間が増える
礎とならなければならない。

来年の1月15日、私は、中学時代の友達に逢う。
本当の成人になれるよう、私がしてきた過ちをもう一度、彼女に謝ろうと思う。
今の私の言葉で・・・・・・・