時計


私の父親は、9才の時に日本にやってきた。
父親の故郷は、釜山から車で2時間以上かかる、山のなかの田舎だった。
父親の父親(私から見れば祖父)が亡くなり、貧困に喘いだ。
当時、日本政府は、朝鮮半島を植民地化しており、行政は朝鮮総督府が牛耳っていた。
安い労働力確保の為に、日本本土は豊かで、夢のような生活があると宣伝していた。
貧困層の農民は、ジャパンドリームを夢見て数多く日本に渡った。
祖父の弟一家も、一足先に日本に渡っており、私の父と弟、祖母がその一家を頼りに日本へ
やってきた。
日本の生活は宣伝とは大違いで、現実は低賃金、重労働、すさまじい日本の奴隷感覚の
差別がそこにあった。
祖母は、子供二人を預け、朝鮮に帰国した。朝鮮で働き、迎えにくると約束をして。
しかし、祖母は二度と子供たちを迎えには来なかった。
(当時、大韓民国は無く、朝鮮だった。)
9才の親は、鋳物工場に働きに出かけた。弟は近所の使い走りをし、僅かばかりのお金を貰った。

祖父の弟は、父親たちを自分の子供たちと変わらず可愛がってくれたが、1年もしないうちに
亡くなってしまった。
ここから、すさまじい「いじめ」が伯母によって二人の子供に降り掛かった。

厄介者になった父親兄弟は、伯母の実子とはまったく違う食事が与えられた。
父親の僅かばかりの賃金も、給料日になると伯母が工場までやってきては持ってかえるのだ。
父親の弟の、使い走り銭まで取り上げた。
ある日、弟の髪の毛がのび放題で、まるで浮浪者のようなので、散髪代金をくれと喧嘩したこともあった。
日本語の解らない父親は、鋳物職人によく、こずかれ、殴られた。
鋳物職人は、重労働で、気も荒い人も多く、みんな貧乏な家の出だった。

父親は昼食の弁当も持たせてもらえず、昼食時には近くの原っぱで時間を過ごした。
ある日、昼食時にいつもいなくなる父親を気にかけたくれた日本人の人がいた。
その人は、その鋳物工場の跡取り息子だった。
父親は、名前の発音の近い「ケン」と呼ばれていた。
その跡取り息子は、腹を空かしてうずくまっている父親に近づいてきてこう言った。
「ケン、兄ちゃんな、お腹一杯やねん。弁当残してもたわ。食べてくれるか?」
父親は、その弁当箱を開けびっくりした。
卵焼きが入っていたのだ。(当時、卵は高級品だった)。おまけに麦飯ではなく、白米だった。
その日から、その跡取り息子は、父親に半分弁当を残して食べさせてくれた。
そんなに金持ちなら、跡取り息子なら、自分の母親に言って弁当を2つ作ってもらえば・・と
考えるが、そんな単純なものでない。
朝鮮人の子供、ましてや奉公人にそんなことを母親が許すことはない。
しめしがつかないからだ。
段々、世の中は、戦争色が濃くなりだした。太平洋戦争に突入したのだ。
また、日本政府は労働力が必要になり、朝鮮半島で、夢のような暮らしを宣伝したが、
日本に居る朝鮮人から真実が伝わっていたので、日本に来る朝鮮人はいなくなった。
労働力確保の為に、また従軍慰安婦確保の為に、農作業している農民を、日本の憲兵隊が
拉致し、炭坑夫や、従軍慰安婦に仕立て上げた。

父親は、その鋳物工場に数年勤めていた。
敗戦の色が濃くなったある日、いつものように原っぱで、跡取り息子の弁当を食べていると、
跡取り息子がおもむろに言い出した。「ケン、兄ちゃんな、戦争行くねん」
父親は、兵隊さんになるのか?ぐらいにしか思わなかった。
つづけて「戦争行ったら、もうケンに弁当やられへんな」
「兄ちゃん、死ぬかもしれん。ケンに形見分けしとくわ」と言って、腕にはめていた腕時計を外した。
そして、父親の腕にはめてくれたのだ。
昭和19年頃、腕時計がどれだけ高価で、どんな思いで貧しい朝鮮人の少年にその時計を託したのか?
そして、終戦。
父親は、空襲でその鋳物工場も焼けてしまっていたので、闇市で砂糖や石けんを売っていた。
風の便りに、その跡取り息子が無事帰還したことを聞いた。
父親は、直ぐに逢いに行きたかった。
でも、逢いにいけなかった。形見分けで貰った腕時計を売り払っていたのだ。

その跡取り息子は、鋳物工場を再興し、社長になった。
父親は、別の鋳物工場で職人として働いていた。
30歳の頃、借金に借金を重ね、倒産した鋳物工場を借り、鋳物工場を持った。
それを聞き付けた跡取り息子が、父親の工場にやってきた。
下請けだけど仕事を回してくれると言うのだ。
父親は、腕時計も売り払い、挨拶にも行かなかったのに、わざわざ来てくれて、仕事まで回してくれる。
そんな、跡取り息子に申し訳ない気持ちで一杯だった。

ある時、その跡取り息子と酒を飲んだ。
父親が「兄ちゃん、実はあの時の時計・・・・・・・」と言いかけると、
「ケン、苦しかってんやろ、売って生活できたんやろ」と後の言葉を遮った。
跡取り息子は、その日酔い潰れた。
父親は、跡取り息子を家にまで送って行った。
家につく頃、その跡取り息子は目をつぶり、殆ど意識のない状態の中からこう呟いた。
「ケン、偉なったな。良かったな」と繰り返し、繰り返し呟いた。