その日は、年の瀬も押し詰まったとても寒い夕暮れだった。
私は小学校1年生の長男と、自宅近くの川を取り囲んで整備された遊歩道を歩いていた。
日課になっていたウォーキングを長男に付き合わせ、親子で寒い中を私たちは歩いていた。
ふと息子が「お父さん、おばあちゃん」と言って私の袖をつかみ引っ張った。
私は何のことか分からず、息子に「誰のおばあちゃん?」と聞き返した。
息子は、遊歩道から2mほど下がった小道を指差した。
そこには昨年の冬に自宅近くでよく見かけた、ホームレスの老婆がたたずんでいた。
私と息子はその小道まで下りていった。
そして「おばあちゃん元気やった?」と尋ねた。
老婆は「ええ、おかげさんで・・といいながら確か・・けんちゃん・・・やったね」と私の息子の名前を呼んだ。
1年ほど前、我が家の夕食時にその話題が出た。
私は夕食時に、子供たちが1日どう遊び、誰と何を話したか?
楽しかったのか?誰と喧嘩したのかなど、日々子供たちに起こるさまざまな出来事に対して食事時に
質問をしたり話題にしてきた。
その日は、子供が「おばあさん帰ったかな〜」と独り言のようにつぶやいた。
それを受けて、家内が「マンションの前の空き地あるでしょ、そこで最近子どもたちが基地作りをしているのを
知っているでしょ」と最近子供たちが夢中になっている、空き地での基地作りを話題にしてきた。
当然、私はそのことは普段の会話から知っていた。
「最近その空き地に朝から、ホームレスのおばあさんがやってきて1日中座っているの・・ダンボールを敷いて・・・」と家内が答えた。
「座っているだけでも、寒いやろう・・・」
「そう思うねんけど・・・・行くところがないんやろうな・・・・・」
「それで、私今日はおにぎりとポットに入れたお茶を子供に持たして、
おばあちゃんに渡しって言ったら、おばあちゃんは受け取って食べてくれたらしい。」
今までに家内が子供を通じて、お菓子やらおやつを、老婆に渡した話を初めて私にしたのだった。
不思議なものである。もしその人が老婆でなく、男性の老人なら家内はここまでしたであろうか?
また子供を偏見無く近づけたであろうか・・と。
家内は子供たちが遊び場にしている空き地が自宅マンションの目の前にあり、
ひと通りも多く、何より相手が老婆であるために心を許していたのだった。
いつもなら子供たちは、適当な時間になれば家に帰って来るのだが、その日は夢中になり子供たちは帰宅しなかった。
家内が空き地に迎えに行くとその老婆は、「けんちゃん・あっくんのお母さんですか?今日もありがとう」とお弁当の礼を言ったのだった。
その老婆は、息子たちの名前を知っており、子供達と老婆の間では自己紹介済だったのだった。
そんな話を聞いてから暫くして、私は早く帰宅する日があった。
息子たちは、毎日飽きもせずに基地を進化させたり補修に余念が無かった。
私は空き地の前で車を降りたら、子供たちは私に気づき「あっ!おとうさん」と天使の笑顔を向けた。
息子たちから10mほど離れたところに座っている老婆に私は近づいた。
私は「寒くないですか?」と尋ねたら・・「少し寒いね・・・」と答えた。
つづけて「夜はどこですごしているのですか?」と尋ねたら「知り合いのところで」と多くは語らなかった。
私は「息子たちをよろしくお願いします。」と言ってその場を離れた。
息子たちには「時間になったら帰って来るんだよと言い残して・・・・・・・・・・
それから暫く、雨の日以外はその老婆は空き地にやってきては一日中座っていた。
我が家も老婆に弁当を作るのが日課になった。
しかし、そんな日も長くは続かなかった。
空き地は、新しく建て替えるために古い建物を壊してできた空き地なので、新たな工事が始まり
基地作りもできなくなり、老婆も来なくなった。
そして、1年後私と長男が遊歩道の下の小道で老婆と再会したのだった。
そのころ大阪には、近年にない寒波が来ていた。
私たちが老婆と再会したころ、ちょうど小雨が降ってきた。
雪に変わってもおかしくない寒さだった。
私は「おばあちゃん、どこで寝ているの?」と1年前の質問をまたしてみた。
老婆は「寒くて寝れない・・・・一晩中歩いたり立っていたりする・・・・・・」
なんと老婆は、夜は眠れば凍死してしまうので真冬の夜の街を、さまよい歩き続けていたのだった。
「今日みたいな雨の日はどうするの?」と尋ねた。
「屋根のある作りかけの家で朝まで過ごすんよ」と答えた。
老婆は、建売住宅の屋根のあるところを選んで一晩中そこで雨を凌ぐのだという。
「じゃいつ寝るの?おばあさん?」
「昼間暖かい時に少し眠る・・・」
昨年の空き地でのことが思い出された。
老婆は空き地に座っていたのではなくて、夜中さまよい歩いていたために睡眠がとれず、空き地で眠っていたのだった。
私は「この一年近くどこにいたの?」と質問をした。
老婆は「この辺りでうろうろしていたよ・・」と答えた。
「おばあさん、食事はしたの?」
「今日は・・・何も食べていないな〜」と弱々しく答えた。
「おばあさん、直ぐに戻ってくるからここにいてね。」と言い残し息子とコンビニへと走った。
お茶と夜の弁当と朝のおにぎりを数個買い、老婆の元へ帰った。
「おばあちゃん、これ食べて、そして明日の昼ごろここに戻ってきて」そう言って私たちは分かれた。
帰宅した私たちは、熱い湯船につかり暖かい鍋料理を食べていた。
暖かな寝具に包まれながら今老婆がこの寒い中、一晩中歩くことを想像すると胸が痛んだ。
私はあの老婆に対して何ができるのか?自問していた。
また一人を助けるために動いても根本的な解決にならないことはよく分かっていた。
また今何万人というホームレスや、定住した家も無い日雇い労働者が寒さに震えていることを考えれば
私は無為力で蟻の悪あがきだろう・・・・と考えると虚しくなってきた。
しかし1年が経ち息子との交流があった老婆を何かの縁かな・・・・・・と考えた。
私はコンビニで考えていた、あることに躊躇していたが「縁」とい言葉に触発され決心がついた。
翌朝、会社に出勤し仕事もそこそこに市役所の福祉課を私は尋ねた。
受付で手短に用件を言うと奥から中年女性のケースワーカーが出てきた。
私の知っている限りの(と言っても老婆で、ホームレスであることしか知らなかったが・・・)ことを伝えた。
この状態で福祉事業受託者になることができないか尋ねた。
ケースワーカーは、「いろいろ規定があって、それに当てはまらないと受けることはできませんと」当たり前のことを言った。
私も老婆のことは何一つ知らないので、いいようが無かった。
「それに、保護できる身内の方がいれば、たとえば息子、娘さんなんかがいれば対象外になるんですよ。」とケースワーカーは言った。
「最低条件として、住民票の確認と定住している住居があることも必要です。」
「ですからホームレスの方が生活保護を受けるのは難しいですね。」
私は「じゃ、住民票が定住している住居と同じところに登録してあって、誰か親切な方が住居を提供してくれれば最低条件はクリアーですか?」
と私はそのケースワーカーの目を見ながら聞いた。
ケースワーカーは、私を見返しながら少し戸惑っていた。
「ええ・・・ですね・・・」と短く答えた。
私は「じゃ、その老婆を連れてきますから聞き取り調査していただけますか?」と尋ねた。
ケースワーカーは、「そうですね一度連れてきていただきますか?お話をうかがいます。」と約束をしてくれた。
ここまでは私の予想どうりだった。
昼になり、私はお弁当とお茶を持って昨夜の場所に行った。
遊歩道のベンチに座りながら私たちは話をした。
老婆は弁当食べながら、私の話に答えていった。
「おばあちゃん、お歳いくつ?」
「う〜〜ん・・・63かな?いや64??65?」とはっきり自分の年を覚えていなかった。
「おばあちゃん、この辺は何年前くらいからいるの?おばあちゃん、いややったら話せんでもいいんやで。」
「あっちこっちいてたからなぁ〜この辺りは7年かな9年かな?あんまり覚えてへんわー」ととぼけたのか?忘れたのか私には判断がつかなかった。
「ずーっと大阪?」
「いや、昔は長野にいてたよ。そこで旅館の仲居しててんよ」
「ふ〜〜ん、おばあちゃん子供のころは?」
「大阪にいたよ。」
「子供のころ韓国からやってきて17〜8歳のころに日本に帰化したんよ。」
「それから長野に引っ越して・・・そうそう諏訪のあたり・・・・・・」
私は頭が混乱した。おばあさんの歳を考えると、そのころ韓国人が帰化するには膨大なエネルギーとお金を要したはずである。
本当にその話が事実ならその老婆は、裕福な韓国人の家庭に育った人である公算が高いのである。
今ほど簡単に(今でも簡単ではないが、当時から比べれば格段に簡素化されている。)
「それから長野に引越しして・・・・仲居をしていた・・・・・・」そういったきり口をつぐんだ。
私はその様子を伺い次の質問をするのに躊躇した。しかしここからが肝心な話だった。
「おばあちゃん・・・当時結婚はしなかったの?」
「したけどな・・・・・・」
「お子さんは?」
聞きながら心が痛んだ。
このような生活をしていれば思い出したくない事の方が多いはずだ。
おばあちゃんは寂びそうに笑いながら・・「ううん・・」と否定した。
私が子供のころ、リヤカーに野菜や果物、自家製の漬物を積んで行商をしていたおばあちゃんがいた。
戦争未亡人だったと思う。(定かでないがそんなことを聞いた記憶がある。)
そのおばあちゃんは、足が悪く足を引きずりながらリヤカーを引いていた。
そしていつもの辻に来るとリヤカーを止めて行商をするのだ。
顔見知りの人が通ると「ねえちゃん、なんか買うて(こうて)と呼びかけるのだった。」
そうすると、呼びかけられた人は市場帰りでも、「なすび」ひとつでも買ってしまうのだった。
私が成人し実家を出てたまに帰ったときに、そのおばあさんはまだ行商をしていた。
それを見て実家に帰ったとき、私は母親に「リヤカーのおばあちゃん、まだ行商してんねんなーーもう80歳ぐらいやろう」
「そやなーそれぐらいになるかな?もう少し若いかな?」と母親も年齢は測りかねていた。
私は「おばあちゃん、生活保護受けられへんのかなーー」とつぶやくと
「そうやねん、あのおばあちゃんに近所の人も勧めてんけど『働ける内は福祉の世話にならん』って言って聞かへんらしい」
とどこかで聞いてきた噂話を私に言った。
あのおばあさんが断ったのは本当のことだろう。
そんな思い出があるので、福祉の話は慎重にしなければならないし、相手の心を傷つけることもあるので苦心した。
「おばあちゃん、お風呂はどのくらい前に入ったの?」
「9年かな?いやもっと前かな?忘れた・・・・・」
「おばあちゃん、お風呂に入りたない?」
「入りたいなーーー」
「おばあちゃん、実は朝に市役所の福祉課に行ったんや、おばあちゃんのこと話したら話聞きたいって言うてんねん。」
おばあちゃんはじっと私を見ながら話を聞き入っていた。
「おっばあちゃん、できればこんな生活やめて毎日風呂は入れる生活しない?」
「でも、働くとこないし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「最初のうちは福祉に世話になって、働けるようになったら福祉断ったらええやん・・・」
おばあさんは、「そやな・・・・」とつぶやいた。
私は間をいれず「福祉課の人と話いみる?」と尋ねた。
「うん、してみる」とおばあさんは短く答えた。
「おばあさん、いやな昔の事や言いたくないことも聞かれるけど正直に答えてや」
「うん」
食事が終わって直ぐに私は老婆を車に乗せて福祉事務所に向かった。
その日は、給付金の支給日らしく福祉事務所は混雑していた。
その老婆は、人々の好奇な眼差しにさらされながら私の後を付いてきた。
受付に進むと、男性職員が私の後方にちらりと目をやった。
私は朝に面会をしたケースワーカーの名前を告げた。
奥の職員も老婆にちらりちらりと目をやっていた。
福祉事務所にホームレスと一目で分かる老婆がやって来た理由はみんなが気づいている。
しかし、厄介なものが来たといった空気が流れた。
ホームレスに関ると際限が無いからだろ。
福祉事務所は、ホームレスを救済するところではないといった雰囲気だ。
しかし、私は思う。私を含めてホームレスの存在を視覚で捕らえながら、頭の中には入れない。
気が付かない振りをしているのだ。
行商で生計を立てていた、気骨のある大正生まれの女性と違い、偽装離婚やその他不正な手口で給付金を受けている者もいるという。
生活保護における給付金の予算は近年うなぎのぼりで、給付を抑えようと窓口は必死なのだ。
そのために、近年餓死をした親子がいたのも事実だった。
生活保護の給付を頼みに言ったが、「若いから働きなさい」と断られそのまま餓死をしてしまった。
しかしながら、納税意識の無い暴力団がこの制度を悪用している事実もあるのだ。
そのため、本来なら給付されるべき人が給付されないで不幸な出来事がおこったりする。
私は生活保護は、恥ずべきことではないと思う。
国としての立派な制度だと思うし、もっと充実させなければならないと思う。
恥ずべきはその制度を悪用する人たちだ。
ケースワーカーは、話を聞いてくれたが私が聞き出した事と同じことしか聞けなかった。
現時点での保護は無理との判断だった。
私にはこの答えは分かっていた。
ただ、現実にホームレスの老婆を目の当たりにしたとき、ケースワーカーが一生懸命になってくれるよう連れてきたのだ。
私も話したことも無いホームレスの老婆が、目の前を通り過ぎてもおそらく知らない顔をしただろう。
息子達と交流があり多少の縁でも出来てしまえば、知らない振りは出来なかた。
ケースワーカーに質問をした。
「今の現時点で福祉にかかる方法は?」
『ありません。ただ行き倒れになったときは、病院に運び込まれたら福祉にかかります。ただし医者が退院を許可すればその時点で終わりです。』
『恒久的ではありません。朝言ったように、定住の住居があり、そこに住民票が無ければならないのです。』
『ですから、ホームレスの人が福祉にかかるのは難しいですね。』
「そうですか、では誰かが定住の住居を提供し、住民票を移動すれば審査の対象になるのですね?」
『そうですね、対象になります。』
「必ずですか?」
ケースワーカーは戸惑いながら『この方の場合は、身よりもいないみたいですし、高齢ですし・・』
「分かりました、もし条件が合えば適正に審査お願いしますね」と言って私はケースワーカーに微笑んだ。
するとケースワーカーは、意を決したように・・・・・・・・・・
ケースワーカーは、私を見つめ直し『一人住まいの場合は、家賃は42000円までと上限が決まっていますから』
『悪い家主は、生活保護受給者と思うと20000円の家賃でも42000円と吹っかけますから気をつけてくださいね。』
『どうしても相場以上の家賃を取るというのなら連絡ください。私が行けば通常の家賃に下げさせますから』
作戦は成功した。現実の老婆を見せることによってこのケースワーカーは味方になってくれた。
そして、私の意図もくみ上げて助言をしてくれたのだ。
老婆を遊歩道まで送って行き、夜と翌朝の弁当を渡し、また明日お昼にある約束をして分かれた。
私は住民票の在り場所を探すのに一苦労した。
なんせ40年以上も前の記憶なのですんなり行かなかった。
老婆とは毎日お昼に遊歩道で待ち合わせをし、3食分のお弁当を渡していた。
1週間あまりかかったが、ようやく見つけた。
私は練っていた計画を実行した。
医療関係に勤める妹には計画を話していた。
デイケアサービスのある病院を紹介してもらうことだった。
もちろんホームレスの老婆のことは、承知してもらわなければならない。
妹は知り合いに当たってくれて、承諾をしてくれた病院を紹介してくれた。
デイケアサービスをやっている病院は入院施設が無くても、お風呂があるところが多いのだ。
まず、老婆にゆっくりとお風呂に入って貰いたかった。
病院は老婆のためだけに大きなお風呂に新しい湯をはってくれた。
その間家内に老婆の下着や靴下を数日分と、ズボンとセーターと防寒ジャンパーやサンダルを買いに走らせた。
ゆっくりお風呂の後お医者さんが診察してくれた。
診断は、「若干の脱水症状があります。長い間過酷な生活を強いられてきたので入院検査した方がいいでしょう。」
そう言って紹介状を書いてもらい、公共の病院を紹介してくれた。
直ぐに連絡をしてくれ、私は老婆を乗せてその病院に向かった。
受付をしてもらい、老婆だけが診察室に入った。
最初の病院から老婆がどうんな境遇の人かは連絡を入れてくれているはずだった。
私は必ず老婆が何がしらかの検査に引っかかると、タカをくくっていた。
暫く入院してもらいその間、家を借りて体を直してから生活保護の審査に望もうと考えていた。
30分ぐらい経過し私が診察室に呼ばれた。
この大きな病院は大阪大学医学部系列と呼ばれ、ほとんどの医者は大阪大学医学部の医局から
派遣されている医者が多いと言う。
30歳過ぎのこの医者もおそらく、大阪大学医学部卒のエリートなのだろう。
その利発そうな顔から苦渋の表情が読み取れた。
医者は私に向かってこう質問をした。
『あのー患者さんとはどういう関係ですか?』探るように尋ねた。
私はありのままに言った。「このおばあさんは、息子の友人です。」
横にいた看護婦も、医者も面を食らっていた。
私の見た目から私の息子がまだ小さいことは、容易に判断できるから医者は困った顔した。
『実は・・・栄養状態もいいしこれと言って悪いところが見当たらないんです・・・・・・』
『入院させるほどのこともないと診断されますので・・・・・・・・』
しっ、しまったーー。この10日あまり毎日老婆は3食きっちりと食べていたので、体調がよくなっていたのだ。
私は心であわてていた。計画が・・・・・・・・私は医者の目をじっと見た。
「先生、このおばあさんの境遇を知っていますか?」
『ええ、聞いています。』
私は医者の目を見ながら心の中で『この寒空に老婆を放りだすのか!!』
本当にその心の言葉が通じた。言葉に出していないのに通じた。
医者は『ええ、今、市の福祉の方に連絡を取っています。もう少し待合室で待っていただけますか?』
『私も、いろいろと考えていますので・・・』と少し困った様子で答えた。
しかし医者も何とかしようと知恵を精一杯使っている様子だった。
でも自分の診断にうそはつけない。医者の良心と人間としての良心の間で揺れているのが分かった。
暫くすると看護婦さんが私を呼んだ。
そいてメモを一枚私に示しながら「この施設は公共の施設です。話をしてありますからここに行ってもらえますか?」
そのモメには「XXX婦人センター」と書かれていた、簡単な地図と住所と電話番号が書いてあった。
私は老婆を乗せてそのセンターに向かった。
そこはDV(ドメステックバイオレンス・家庭内暴力)にさらされた女性や子供を一時的に保護をする場所だった。
中年の女性職員が、私と老婆を見るなり「病院からの・・・」と言って出てきた。
私は着替えの入った、紙袋を職員に手渡して「よろしくお願いします。また明日にでも来ます」
と言って施設を後にした。
その後老婆にマンションを借り、住民票をそのマンション移した。
生活保護申請をしたらなんと担当者はあのケースワーカーになった。
そして、老婆は生活保護を受けられるようになり、寒い夜でもゆっくり眠れる生活を手に入れた。
それから数ヵ月後、春になったがまだ肌寒い日・・・・・老婆が散歩している姿を見かけた。
あのケースワーカーが自ら進んで担当者になってくれたのかどうかは・・・・私は知らない・・・・・・・・・・・・・
いったい何人のホームレスがいるのだろう。
私のしたことが、根本的な解決策にはならないことは承知している。
また私の心の中にもおぞましい偏見を持っていることも私は承知している。