「国体の思いで」


衆議院解散!!総選挙に突入しました。
解散前には「神の国」「国体」発言があり物議をかもしだしました。
まぁー私たちの世代では「国体」といえば「国民体育大会」を連想してしまいます。
「国体護持」とは思いもつきませんが・・・・・・・・・・・・・・・・
しかしこの「国体」という言葉で、私も少し苦い思い出があったのを、思い出してしまいました。
 
私が高校1年の時、国体のラグビーの選手団は、選抜チームではなく単独チームでした。
予選を行い、優勝チームが代表として国体に参加しました。
当時私は補欠で、リザーブにも入らない選手だったので、どの高校に負けたのさえ覚えていません。
しかし、高校二年の時はしっかりと覚えています。
新チームになり、私は1本目(1軍)に入りました。
新人戦で優勝し、近畿大会に出場しました。
近畿大会も終わり、あと2カ月もすると国体予選が始まる頃。
私は1本目(1軍)から外されました。
理由は、外国籍だったからです。
当時、国体出場資格には「日本国籍を有する者」。
という条文があり、私には出場資格が無かったのでした。
監督は何も言わず、私を2本目に落としました。
国体予選が始まる初戦の前日に、監督が私に向かって「明日タッチジャジをするよう」と命じました。
(決勝戦はタッチジャッジは協会から派遣されるが、それまでは対戦チームから1名出していた。)
私のチームは、順当に勝ちあがり決勝戦まで駒を進めました。
結局決勝戦は、惜敗しましたが全日本高校代表選手を数人いたチームに、
互角に渡り合えた事がその後、大きな自信になりました。
翌年も新人戦でブロック優勝し、近畿大会に出場しました。
近畿大会が終わり、国体予選に向けて外国籍の生徒を外したチーム作りをするのかと・・・・・・・・・
思っていたが監督は、一向にそんな素振りをする風でなく、
近畿大会のチーム編成のままで練習をしていました。
その年から、国体予選のシステムが変わったのでした。
まず、4ブロックに分け、各ブロックごとに優勝チームを決めるのでした。
ブロック優勝まで春季大会とし、ブロック優勝チーム4校で国体予選をすることになったのです。
とりわけ、大阪は在日韓国人、朝鮮人が多く、
日本の学校に通学する生徒が、国体に出場出来ないことに対しての問題等が、
マスコミや、教育関係者者から異論が出されていた時期でした。
「日本国籍を有する者」この条文撤廃に向けた過渡期だったのです。
私のチームは、ブロック優勝しました。
そのため、韓国人をはずした国体予選用にチームを編成仕直さなければなりませんでした。
国体用のチーム編成が、優勝した翌日の練習からなされました。
私のチームから3人の正選手が、出場出来なくなったのです。
背番号でいうと、3番、5番、13番でした。ちょうど攻撃の要となる、右側の布陣が全滅でした。
練習終了後、私たち3人は監督に呼ばれました。
監督は、ルールだから・・・目標は冬の花園だから・・・と言っていましたが、
私たちは覚悟していたし諦めていましたから、特別にその時はなんとも思いませんでした。
またタッチジャッジは私が指名され、試合当日を迎えました。
レベルの高い大阪のベスト4が揃ったゲームは、好ゲームが期待され観客も多く集まりました。
ブロック決勝で、私のチームに負けた学校の選手も観戦に来ていました。
その選手たちが試合中、私に声をかけるのです。
「なんで、○○とXXとお前が出ないんや!勝てるわけないやろ」と・・・・・
私はただ苦笑いをして、「怪我や」と答えるのが精一杯でした。
案の定敗退し、チームメートは目を真っ赤にしながらグランドから引き上げてきました。
口々に私たち3人に「すまん」「悪かった」と謝りながら引き上げてきました。
私たち3人の代わり出場した2軍の選手は、泣くじゃくりながら私たちに謝っていました。
覚悟し諦めていたにもかかわらず、怪我や実力で出場できなかった訳ではないので、やはり胸中は複雑でした。
それから、数年後「日本国籍を有する者」の条文が撤廃されました。
 

私の友人に在日韓国人がいます。
彼のお姉さんのは、あるスポーツの高校チャンピオンでした。
彼女は、高校の監督から「国体に出場しろ」と厳命を受けました。
しかし、彼女は国籍を理由に断りましたが、監督は「黙っていればわからん」と取り合いませんでした。
30年以上前の、強豪校の監督は「スパルタ」「俺についてこい」の監督が多く、絶対君主的でした。
彼女の監督もそんな監督でした。
彼女は、渋々出場し、国体でも優勝しました。
ますます注目される選手となり、彼女の悩みは大きくなり、
国籍違反し国体に出場したことがいつ発覚するか?と気が気でなかったのでした。
秋のインターハイでも優勝し、高校3冠に輝きました。
彼女の争奪戦が、企業、大学と入り乱れ始まりました。
彼女はこのまま競技を続ければ、いつか国籍のことがばれ、ルール違反し、国体に出場した事が問題になる。
と考えた彼女は、競技生活をやめ韓国の大学に留学することになりました。
戦時下の色濃いソウルの金浦空港に降り立った彼女を待ち受けていたのは、韓国のマスコミでした。
彼女が留学手続きをした時に、大学側に提出した書類で、彼女が高校チャンピオンであることが、
韓国の体育協会に伝わり、「在日の高校チャンピオンが、祖国の為にオリンピック出場」か?
と大騒ぎになっていたのでした。
体育協会も、留学先の大学側も競技を続けることを熱心に勧めました。
しかし彼女は、アジア大会、オリンピックと韓国代表で出場すると、日本にまで伝わる。
なんの為に韓国へ留学したのか分からないし、何より国体出場させた監督にどんな迷惑をかけるか
分からない。そのことに恐怖を抱いていたのでした。
彼女は、頑として説得に応じづず、2度とラケットを持つことはなかった・・・・・・・・・・・・・