天国の君へ


その生徒は、あまり友達がいなかった。
なぜなら、父親が特定の政党の熱心な運動員だったからであった。
私も、選挙になると宣伝カーの運転手を務めたりしていた父親を見たことがある。
普段の生活も、自分の信じるイデオロギーにのっとり生活するので、近所付き合いも特定の人達に
限定されていた。
ゆえに、その生徒も必然的に友達が少なくなってしまったのだった。

私が教育実習に行き、ラグビーの練習をしていると、その生徒は一人で練習を眺めていた。
私は、その少年の存在に気付き手招きをした。
生徒は少し躊躇したが、私に歩み寄ってきた。
私も、彼に近づいた。
「ラグビーやりたいんか?」と尋ねると、彼は「別に」とそっけなく答えた。
その生徒の家と私の実家が近かったために、私はその生徒の父親の事は薄々知っていた。
「おもしろいで。ちょっとしんどいけど」と続けると少し考えた様子だった。
「体操服持ってるか?」と尋ねると、頷いた。
私は、着替えてくるように言うと、その生徒は足早に校舎のなかに入っていき、着替えて出てきた。

部員に、仮入部を告げ、練習に参加させた。
その後、その生徒はラグビー部に入部し、教育実習が終わるまで練習に来た。
私は、教育実習が終る前日に部員に挨拶をした。
生徒と別れるときに言う言葉は決まっていた。
「20歳になれば一緒に酒を飲もう」だった。

近くに住みながら、私は彼とその後会うことが無かった。
しかし、父親は選挙の度に熱心に、自分の支持する政党の選挙カーに乗っていた。
10年ほど前、新聞を見ると、彼の名前が飛び込んできた。
交通事故の記事だった。
早速、実家に電話し、事故のことを尋ねると、やはりあの生徒の事だった。

一升ビンを提げた私は、その生徒の家まで訪ねて行った。
葬式が終わった後のその家は、まだ悲しみに包まれていた。
位牌の前に、湯呑みに酒を注ぎ、父親と私の湯呑みにも酒を注いだ。

父親は、「中学でラグビー部に入った後、高校でもラグビー部に入ったんですよ」
「怪我が多くて、何度もやめるように言ったんですけど、好きやからやめへんってよく喧嘩しました。」
「私が運動(政治活動)をするもんやから、友達も少なくて暗かったけど、高校へ行ってからは
友達も増えて明るくなっていったんです。」そう言って涙を拭った。
位牌の置いてあるテーブルの下に、弔問客に見せたのか、アルバムが置いてあった。
父親は、そのアルバムを見ながら、また話しだした。
そのアルバムには、幼児期の頃からの写真が貼ってあり、半分以上は、高校時代のラグビー部の
合宿やグラウンドでのスナップ写真だった。

「XXさん、私はね、父親が韓国人なんですよ。」
(はじめて知った事実だった。)
「昔、恋愛しましてね、その女性の父親が、部落解放運動を熱心にしていた方でね。
挨拶に行ったんです。そうするとね{朝鮮の血の入っている奴に娘やれん}って言われたんです。
部落差別を受け、あらゆる差別の解消を訴えてる人が、そう言い放ったんです。」

私は、父親が政治運動に熱心なあまり、子供の遊び仲間まで、影響していた事をこの父親は
知っていて、なおかつ、運動にのめり込んだ理由が初めて解った。

「それで運動に走ってしまったんです。子供にもそのことで辛い目にあわせてしまった。」
 とまた涙を拭った。
「でも、高校へ行きラグビーをまたやりだして、友達が増えて明るくなっていったのが
 嬉しかったんです。なにより3年間ラグビーをやり通したことも・・」

子供の人生のノーサイドの笛は鳴ってしまったけれど、この父親の心のノーサイドの
笛はいつ鳴るんだろうか?と思った。
おそらく、差別が無くならないかぎり鳴ることは無いだろう。