殴ったあの子もお母さん


教師は9月がとっても恐い。なぜなら夏休みが終わり、
だらけた夏休みの生活を引きずり、学校全体が浮つくからだ。
また、1学期中なんとか持ちこたえた生徒が、夏休みを境にガラッと生活態度が変わる。
F子もそうだった。
F子は私達のクラスだった。初めて見たときから、何事にもけだるそうにし、
覇気がなく、登校時間はいつも遅刻すれすれか遅刻してきた。
私達は、いつも彼女の様子を少しの変化も見逃さないべく注意深く見守っていた。
F子は、クラスに友人を作らず、いつも休み時間になれば、他のクラスの問題生徒のいる
教室の廊下まで行き、わずかな休み時間を過ごすのだった。
学級編成の時、問題グループをリストアップし、リーダー格の生徒は、学年主任、
サブリーダーは、生活指導教師、他の生徒は必ずクラスを引き離した。
F子のグループもクラスがバラバラで、いつもリーダー格の生徒の教室の前の廊下で
たむろしていた。

夏休みが終わり、新学期が始まった。
遅刻しながらもなんとか学校に登校していたF子は、2学期になると、2時間目、
3時間目に登校してくるようになり、学校も休みがちになった。
学校へ来ても、保健室に行く回数がふえた。いわゆる保健室登校だ。
保健室の先生は、格好の彼女たちの相談相手だ。
私達(担任の女教師と)は常に保健室の先生と連絡を取り、彼女の情報を得ていた。
夏休み中、F子は卒業生の男子と付き合いだし、その男は、定職にもつかず、バイクを
乗り回し、暴走族にも入っていた。担任の女教師は家庭訪問することにし、
女同士の方が良いと考え、彼女一人で家庭訪問に出掛けた。
母親も、F子には注意しているとの事だったが、母親自身だらしないところがあって、
F子も言う事を聞かないとのことだった。
F子の家は母子家庭で、母親は大きな病院の調理室で働いており、患者さんの食事を
作るために、出勤時間は夜中の2時ごろだった。
母親が出勤した後、F子は家を抜け出し、付き合っている男のアパートへ行き、
朝方帰宅するのだった。
私達はF子と何度も話したが、一向に改める様子もなく、
9月も終わりに近づいてきた。私達は彼女の妊娠を危惧していた。
何度も、何度も話をしたが、私達の話し方が悪かったのか、指導不足は歴然で、
彼女は、徐々に反抗的になり、話をしようともしなくなった。
その日は、体育祭の予行演習日だった。
私は、学年の総合指揮を取っていた。
午前中の予定が後少しで終わる頃、運動場にある門から、F子は眠たそうな顔をして
登校してきた。
F子は、私の横を何事もないような顔をして、通りすぎようとした。
私は彼女の腕をつかみ、「何時や思てんねん」と言ったら、
彼女は「はなしてよ。関係ないやん」と腕を振り払った。
私はとっさに、彼女の左の頬を平手で殴った。
彼女は崩れるようにして倒れ、動かなかった。
脳震盪を起こしたのだ。
その様子を見ていた他の先生方は駆け寄り、直ぐに保健室に運んだ。
女子生徒を殴ったのは、初めてだった。
男子生徒を殴っても、関係修復は案外できるものだが、
女子生徒は難しい事を知っていた私は、後悔した。(後に違う意味で後悔した)
F子は、直ぐに病院へ運ばれた。
そのまま、自宅に帰り養生した。
翌日に、管理職と学年主任の先生とが自宅に赴き、事情説明し、校長のポケットマネー
で見舞い金を包んだ。
私達は先生方の帰りを待ち、経緯を尋ねることにした。
、9時を過ぎ、ようやく校長先生たちが学校に帰ってきた。
私は校長室に呼ばれ、「お父さんでは無いのですが、親戚の方だと思うのですが
強硬に怒っておられ、君が来ないことも大変怒っています。(そらそうや)
明日もう一度私と謝りに行きましょう」私は承知した。
職員室に戻ると、担任の女教師と学年主任の先生が話をしていた。
女教師が険しい顔をしている。相当な事を言われたのだろう。
私のため、迷惑を掛け、申し訳ない気持ちで一杯だった。
学年主任の先生に、F子の家であったことを再度聞いた。
要約するとこうだ。
F子は自室で休んでおり、会えなかったそうだ。
校長先生が言っていた中年の男性と母親が居て、母親はあまり喋らずに、
その中年男性がほとんど1人で喋っていた。おまけに酒に酔っていたそうだ。
校長の差し出した見舞い金も、「こんな端金ですますんか?」と凄んだのだ。
とりあえず殴った本人(私)と担任を連れてこいになり、明日また行くことになった。
私は、女教師と職員室で話をした。
私は自分のした事を棚にあげ、酒を飲んで見舞い金を釣り上げようとする、中年男性に
腹が立った。女教師はそのことを察したのか、「先生、絶対に明日喧嘩せんといてな
我慢してや」と何度も私に頼むのだった。
翌日は辞表を書いて学校に出勤した。
(当時それが、けじめだと思っていた。なんと無責任な考えだ)
話の流れに依っては、そいつの前に辞表を叩きつけ、喧嘩してやろうと思った。
非は私にある、しかし大事なのは、なぜF子がだらしない生活を送り、どうすれば将来
立ち直るか考えなければならないのに「見舞い金の金額」まして「酒」を飲んで
話するバカがいるのか。
私は自分がやったことなど何処か忘れてしまい、一人で憤っていたのだ。
F子の家についた。母親と中年の男と伯父さん夫婦がいた。
家に入るなり、一升ビンを前に置き、コップ酒をあおっている中年の男が、
下からジロリと私を見上げた。
(このおっさんかーーー)
まず、中年の男が「上へ行って顔を見てこい」と凄んだ。
私と女教師は2階へ上がり、F子の部屋に入った。
F子の顔は左半分腫れており、目のまわりもまっ黒けだった。
私は、中年のおっさんの事などふっ飛んでしまい、後悔の念で一杯になった。
女教師は、体の調子はどうかとか聞いていた。またさりげなく、「中年のおっさん」の
事も聞いた。「親戚の人?」 F子「ううん、違う。おかあさんの友達」
私も、女教師もピンときた。
私達は1階に降り、話を始めた。おっさんは母親に酒を注がせて、コップ酒を
飲んでいた。目もすわり、ろれつの回らない舌で喋り始めた。
校長が再度、見舞い金を出すと「まだこんな端金で話を付けようと思ってんのか?」
と凄んだ。私が殴った経緯や、なぜそうなったか?F子のこれからの生活の事など一言
も無く、見舞い金の金額の釣りあげの話に終始した。
「誠意を見せろ、また考えてこい」になり、私達は学校へ帰った。
校長先生は、1度行ったからもう行かなくて良いと言って、
後のことはこちらで処理すると言ってくれた。
学校へ帰ってきたら、女教師は「先生、よく辛抱してくれた。ありがとう」と私に言った。
私は、全然辛抱などしてなかった。F子の顔を見たとたんに、その顔が離れなくなり、
顔ばかり浮かんで、おっさんの話に反応しなかったのだ。そして女教師は泣きだした。
「あんなおっさんが家にはいり込んでいたら、立ち直られへんな。
お母さんも子供の前であんなに堂々としていたら子供は、言う事きかへんわ」
私は、どちらが事件を起こしたか解らなくなり、彼女を慰めた。
2、3日後、校長先生にF子の事を聞いた。先生は「もう処理しましたから大丈夫です」
と簡単に言った。
私は「えっ」と思ったがその後何もなかったように日は過ぎ、F子も学校に登校した。
その後、F子は17歳ぐらいのときにスナックに勤めていると風の便りに聞いた。

その事件から10年ぐらいたったある日、高校のラグビー部の監督から電話があった。
T中学のある選手をスカウトしたいそうだ。
T中学にはW中学でK先生と私ともう一人O先生が顧問をしており、T中学の顧問の
先生が、O先生だったのだ。高校の監督さんはそのことを知っており、
事前にスカウトしたい生徒の調査を依頼したのだ。
私の通学していた高校は、今は、結構有名な進学校になっており、(昔はちがう)
スポーツも下降線をたどっていた。しかし各クラブ数名の枠があり、ラグビー部も
数人の推薦枠を持っていた。
誰でも良い訳でなく、成績もある程度なければいけないし、私立なので経済的にも
進学できるかどうか調査が必要だったのだ。
私は、T中学に電話を掛け、O先生にその旨を伝えた。
O先生は、成績、経済的事情はすべてクリアーで、保護者にこの話をしてくれることになった。
O先生は、久しぶりの電話を喜んでくれており、
今日都合が良ければ飲みにいこうと誘われ、承諾した。待ち合わせの居酒屋に行き、
O先生と旧交を暖めた。酔うほどに、昔話に花が咲、なつかしい先生の近況や、生徒の話になった。
O先生、「先生、(私のことをまだ先生と言ってくれる)F子の事覚えている?」
O先生 「先生が、殴ってごちゃごちゃした子」
私    「覚えていますよ。どうしてんのかな?」
O先生、「つい最近、W中学へ試合にいったとき、ばったりW中学の近くで会ってな。赤ちゃん抱いてたわ。」
私    「えーー本当ですか?」
O先生 「結婚して、子供できて、ええ顔になっていたで」
     「それでな、先生のことどうしているか、聞いてたわ」
     「逢いたいとも言っとったで」

     私は、嬉しくなった。

私     「そう言ったらO先生、あの時、母親の愛人がでてきて、お金にしようとしてたんですけどいつのまにか、
      話しついてしまって、なんで話し着いたか解らへんねんけど」
O先生 「そんなん、K先生(教師の鏡参照)が動いたに決まってるやろ。
      K先生の校区での絶大なる信頼解ってるやろ。
      K先生が動けば大概の事は、解決しはる」
私    「でも、K先生は私に一言もそんなん言わはれんかったけど」
O先生  「先生、K先生はそんな事いちいち、私が解決しましたって言いはる人か?」

     あっ、私は、長年の疑問が解決した。

     翌日私は、K先生の家を訪ねた。
     F子の事件のことを、10年たってようやくK先生にお礼を言ったのだ。
     K先生は、笑いながら一言「私の仕事ですから」 とさらりと、言ってのけた。