頑張り屋のM美はお母さん


通産1年あまりの教師生活の中で、今でも何かあると会って、
話をする教え子が数人いる。M美もその中の1人だ。
彼女は、2校目の赴任校の生徒だった。
私は、2年生の副担任になった。大体副担任は2つのクラスを掛け持ちするのだが、
私は1つのクラスしか受け持たなかった。なぜなら、そのクラスには車椅子の少女が
在席しており、音楽室や体育館等の移動時の安全面のため担任か私が
付き添わなくてはならないからだ。担任の先生は女教師で、私と同じ年だった。
偶然にも、当時彼女の付き合っていた男性が彼女の中学生の時の同級生で、
私の高校の同級生だった。(後に結婚し、現在幸せに暮らしている)
M美は、進んで車椅子の生徒の面倒をよく見てくれた。
成績も上位で、何事にも真面目で、他の先生からもすこぶる評判が良かった。
私達の学級経営も、彼女抜きにはうまく行かなかったろうし、助けてもらった。
彼女は在日韓国人であり、私も在日韓国人であり、本名で勤務していたので、
親近感を持ってくれたのか、家族のことや在日で生きることの自分なりの葛藤を
よく相談してくれた。私は、適切なアドバイスなどできるはずもなく、
ただ自分の経験した事だけを話した。彼女のご両親は、密入国で日本にやってきた。
日本にいる親戚を頼ってやって来たのであった。
彼女の出生届けは、親戚の子供として市役所に届けられた。

彼女の弟は、親戚の子供と同じ年に生まれたために、1年出生届けが遅れ、
1年間生まれていない子供として扱われ、就学も1年遅れた。
密入国で、日本で生活したきたご両親は、筆舌に尽くせないご苦労をなさったに違いない。
密入国であるために福利厚生の整った会社に勤める事も叶わず、手間賃仕事か、
日雇いの仕事にしか就労できなかったはずだ。
警察の職務質問にも怯え、近隣との争いに巻き込まれないため、理不尽なことにも
頭を下げつづけて来たのだろう。
このような状態を強いられてきた生活も、彼女が小学校3年の時に父親が警察に
出頭し、にわかに騒々しくなった。
家族全員が警察に取り調べられ、法務省の扱いとなったのだ。
当時彼女たちの通っていた小学校の先生や、先生たちの知り合いの弁護士の奔走の
お蔭で、1年許可更新の在留許可がおり、私の勤務する学校に通っていた事情があった。

とにかく、彼女は素直で、勉強し、弱い立場の生徒にも気を配ってくれた。
私のクラスに仲間外れにされる女子生徒が2名いた。
グループ分けを生徒達にさせると必ず残る。
2人は友達で、そのうえ2人とも無口だった。(これは仲間外れにされつづけていたために、
彼女達の防衛本能がそうさせたのだ。)ある日、私と担任がM美を職員室に呼び、
仲間外れの2人の事を頼んでみた。
グループ分けの時に進んで2人に声を掛け、グループに入れてほしいと頼んだのだ。
彼女は快く承知してくれて、以後2人はクラス全員には打ち解けることはなかったが、
M美のグループとはうまくやっていた。
私は、彼女と将来のことについてよく話をした。
彼女のお母さんは「銀行員に」と話していたらしく、
私は、「教師に」と、事あることに彼女に話をした。
彼女のような人生を歩み、かつ彼女のやさしさを持続できれば、
すばらしい教師になると確信していたからだ。
私は、彼女に教師になっほしい為に、色々な書籍を与えた。
彼女は、素直に感想を私に言ってくれたし、もっと本を読みたいと言ってきた。
私はある時、灰谷健次郎著作の*「兎の目」を彼女に渡し、感想を求めた。
彼女の感性に案の定響き、彼女は痛く感動した様子だった。

(私は、10年後読み返し、また感想を聞かせてほしいと言った。)

彼女は準進学校に進学し、高校3年になり、進路の時期がやってきた。
当時教員を離れた私に電話がかかってきて、相談したいと言ってきた。
私は、彼女と会った。
彼女自身は進学したいのだが、父親が就職を願ったのだ。
勉強する方法は幾らでもあるし、経済的負担を両親に掛けない方法を話し合った。
結果、彼女は私学の二部の大学を受験することになり、
短期大学を選択し、父親を説き伏せたのだ。
あらゆる奨学資金を申請し、アルバイトすることによって彼女の進学の夢は開けた。

入学2、3か月後、私は近況を知りたくなり、M美に電話をした。
大学が2部のために都合の良いバイトがなかなか無く、お弁当屋と喫茶店の掛け持ちを
しているとのことだった。
金銭的にも苦しく、アルバイトを探している最中だった。
私は数日前に、1部上場会社のある建設会社の現場所長に、現場でのアルバイト事務員
を探している事を聞いていたので口利きをすることにした。
通学のため4時30分までしか就業できないこと。教員をめざしているので1年後の
1月間は教育実習のため休まなくてはいけないこと
を了解のうえ、面接までこぎつけたのだ。
彼女は、本名を書いた履歴書をT所長に提示した。
所長は、一瞬考えた様子だった。
「日本語は大丈夫ですか?」げーー韓国語なんて喋れないよーーーー
日本で生まれ、育ち、日本の学校に通っているのにーー

私の友人にも、面接時同じ事を言われたことがあるらしい。
履歴書には、小学校から大学まで日本の学校名が書かれているにもかかわらず。

日本語しか喋れないことを説明し、彼女は採用になった。
その後、彼女は卒業する直前までそこでお世話になった。
さすが大手。アルバイトといえども、社会保険完備、ボーナス支給、M美は大いに助かった。
所長は、M美の真面目さがいたく気に入ったらしく、
教育実習の1月の間も出勤扱いにしてくれたそうだ。(T所長本当に有難うございました。)
また、M美が卒業する直前に、その建設工事が完工してしまい、M美は無職になった。
がT所長はしきりに、同会社の建築現場の事務員に紹介すると言ってくれた。
しかしM美は、教員を目指していたので、丁重に断った。
M美が卒業した頃、T所長から万年筆が送られてきたそうである。

その後、M美は3年間英語の講師をし、
後1年は中国からの帰国生徒の日本語の講師をし、韓国へ留学した。
韓国で知り合った男性と結婚し、韓国へ嫁に行ってしまった。
現在、ソウル近郊にて親子3人苦労しながらも幸せに暮らしている。

(10年後彼女はこの言葉を覚えとおり、なぜ私がそう言ったか答えを求めた)
*「兎の目」は純真な子供には、とっても響く著書であるが、私はこの本が偽善臭くて
 しょうがないのだ。

もし、彼女が教師になっていたなら、その時読み返してどう感じたか知りたかった。
彼女は、当時感じたままの感想を持っていた。