車椅子の少年〜その後4〜 


 『不安だったクラス替えもやっぱり今から考えると作為的だったね。
 実は・・お母さん・・・僕はクラスのみんなに悪いことしているなぁ〜って思っていたことがあるんだよ。
 たまに担任の先生が僕だけ、日生球場に連れて行ってくれたことなんだよ。
 (日本生命球場当時・現大阪近鉄バッファローズのホームグラウンドだった)
 外野が狭くてフラフラ〜〜って上がった外野フライがホームランになるんだよ狭い球場だったんだよ。
 観客は少ないし、野次は凄い汚いし・・・初めは怖い球場だなぁ〜って思っていたんだよ。
 先生がホームランになると猛ダッシュでボールを取りに行くんだ。
 ぼくはそのホームランボール2個も貰ったよ。
 今でも大切な宝物なんだよ。
 みんなに内緒で行っていたのが嫌だったけど・・・でも全員連れて行くのは先生も大変だったんだろうなぁ〜
 ある日、そのホームランボールを持って学校で自慢したんだ。
 みんな、最初はブーブーと文句言っていたけど、なんか「仕方ないや」って感じだったよ。
 でも、2個目のホームランボールを持っていった時には、みんな本当に羨ましそうで前回よりブーイングだったよ。
 M君なんて真剣に1個頂戴よって言っていたもの・・・・・・
 するとみんな、くれるんだったらぼくに頂戴って真剣に言っていたよ・・おかしいだろ、お母さん。

 6年生になって、しばらくした朝・・・・新聞を読んでいたお父さんが「母さん、これ」と言って新聞を渡したね。
 お母さんは食い入るようにその記事を読んでいたね。
 豚のすい臓から筋ジストロフィーの薬ができるかもしれない・・そんな記事だったね。
 その日、学校に行くと先生も、他の友達も新聞の切抜きを持ってきてくれていたんだよ。
 クラスがその日、一日中明るかったんだよ。
 ぼくもなんだかその日は、ウキウキしてすぐにでも・・本当に自分の足で走れるって思ったんだ。
 それからしばらくして、また刀根山病院に入院することになって、ぼくは退院する時には自分の足で歩いて
 退院できるものだと期待して入院したんだよ。
 でもね・・・・お母さん・・・・ぼくはそれは・・・・ただの錯覚だと直ぐに気がついたよ・・・・・
 小学6年生のぼくでさえ直ぐに気がついたんだ・・・・・・
 あの入院は、ぼくの病気を治す入院ではなくて出口の無い入院だったんだよね・・・・・・・・・・・・・
 ぼくは入院して直ぐにあのクラーク博士の手紙をくれたお兄ちゃんを探したよ。
 そうあの小学校4年の時に、ぼくの隣のベッドだった高校生の兄ちゃんだよ。
 長く入院していて、ほとんど病院で過ごしていた兄ちゃんだよ。
 探しても兄ちゃんは居ないんだ・・・・・どこを探しても・・・・・・ぼく・・探したよ・・看護婦さんに聞いたんだよ・・・・
 あの兄ちゃんはどこ?あの大好きなお兄ちゃんは?
 ある看護婦さんは、「最近勤めたから知らない」と言って、
 別の看護婦さんは「退院したよ」と言ってくれたんだよ。
 ぼくは嬉しかった、あの兄ちゃんはあの薬で治って退院したんだって凄く嬉しかった・・・・・
 それが幻想だってすぐに分かったよ・・新薬なんてそんなに簡単に出来ないのに・・子供だったんだね・・・
 ぼくと同じ病気で入院している他の人がそっと教えてくれたんだ。
 あの兄ちゃんは、死んだんだって・・・・・・死んで退院したんだって・・・・・・・・
 ぼくは毎夜ベットで毎日泣いたよ・・・家に帰りたいって・・・・・・
 だって、おかあさん・・・ぼくが入院した2ヶ月あまりの間に
 何人もぼくと同じ病気の人間が死んでいくんだよ・・・・・

 ベットが開いていくんだよ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 あのお兄ちゃんも死んだんだよ。
 ぼくはお母さんに無理やダダをこねたりしたことないよね。
 お母さんは毎日病院に来てくれたけど、ぼくは毎日お母さんに「家に帰りたい・・学校へ行きたい・・・。」
 って毎日毎日泣いて頼んだよね。
 お母さんとお父さんは、ぼくを最後まであの病院で入院させるつもりだったんでしょ。
 そう、出口の無い入院・・・・・・・・・
 でも、お母さん・・・・・それはお父さんとお母さんの苦渋の選択だったことはぼくは知っているよ。
 お母さん達がお医者さんから言われたぼくの寿命はあと2〜3年だったもんね。
 でも病院には高校生になっても生きている子供がたくさんいたから・・・・・・・・・・
 病院に入れば少しでも長く生きれると思ったから・・・・・・・・・・

 その間に、特効薬ができれば・・・・・・・・・・・・・
 お母さん、お父さん・・・・・・でもぼくは耐えられなかった・・・
 同じ病気の人が死んでいく様を見るのが・・・・だから毎日お母さんに泣いて訴えたんだよ。
 帰りたい・・・・学校に行きたい・・・・・野球がしたい・・・・・・・友達に会いたいって・・・・
 とうとうお父さんとお母さんは、根負けして退院を許してくれたね。
 3年しか生きられなくてもいい・・・6年間病院に居るより3年間充実した日々を送らせてあげよう・・・・・・・
 そう考えてくれたんだよね。そしてぼくは診察には行ったけど二度とあの病院には戻らなかったんだ。