車椅子の少年〜その後2〜 


連絡をしていったとはいえ、大切な息子を亡くし悲しみのどん底の家に
不躾にも尋ねた私を快く迎え入れてくれた。
まだ、遺影と遺骨、線香、蝋燭が祀られていた。
おばさんはお茶の用意をしながら「まだ立ち直ってないの、ごめんね。
でもHの友達が来てくれるのは久しぶりだから嬉しいわ」

と私を気遣ってくれた。
お茶を入れながらとめどない世間話を私達はした。
「A組担任君体育大学行ってるねんて・・・学校の先生になるの?」
その一言は、発病以来何かの職業に就くといったことをあきらめ、
ひたすら病気と闘い、特効薬ができるのをひたすら待ちわびた

家族の響きがあるように思えた。これは私の独りよがりの捕らえ方であり、おばさんは真っ直ぐな人だった。
「おばさん、ごめんなさい。ぼく・・教師になりたいんです。そしてH君がいたことを忘れたくないんです。」
「勝手ですが、H君のこと・・僕の知らないH君のこと教えてください。」
「まぁー気を使わなくていいのよ。おばさん嬉しいわ。Hのこと覚えてくれようとする友達がいるのは・・」
友達この響きが私をまた居づらくした。
しかしおばさんは、嫌味ではなく心底そう思ってくれているのに私だけが変に気を使っていた。
それは、中学になったてからのH君との関わりについて、私自身後ろ暗いところがあったからだろう。
「そう、その祭壇のところ・・・そこにHはずっーと寝ていたのよ。最後は安らかに眠るようだった・・・・・・・・」
たった一畳分のスペースがH君の世界でありすべてだった。
小学校4年時、120センチメートルの目線の高さになり、私の知らない間に、私が青春を貪っていた時に
彼はたった15センチの目線の高さになった。

 
『おかあさん・・・もうダメみたい・・・心臓が動かないよ・・息も出来なくなってきた・・おかあさん・・・ありがとう。
 最後にお母さんの顔を見たいよ・・でももう声も出ないよ・・・・こちらを向いてよ。
 寝返りも打てなくなってどのくらい経っただろう・・・・・
 もう家事は止めて・・・いつものように「Hどう?何か飲む?」そう言ってよ。
 ありがとう。お母さんこの病気と一番戦ったのはお母さんだったよね。
 覚えている?お母さん。そうあれは僕が幼稚園のときだったね。僕がよくなんでもないのに転ぶから・・・・・
 お母さん・・心配して、病院に連れて行ってくれたね。違う日に別の大きな病院に行きなさいって先生に言われて・・・
 帰りの車の中で、お父さんとお母さんは無言だったね。
 大きな病院で筋ジストロフィーって言われた時、お母さん泣いたよね。不思議だった。なぜお母さんが泣いているのか?
 帰りの車の中で、お父さんは怖そうな顔をしているし、お母さんは泣き続けていたから僕は不安だったよ。
 それから、お母さんは僕に厳しくなったね・・・・・。
 何でも「自分でしなさい。」って何一つ手伝ってくれなかった・・・・・・

 小学生になって僕は自分でもおかしいなぁ〜って感じるようになったよ。
 みんな、走ったり鬼ごっこしながら学校へ行くのに僕だけがうまく走れないんだ。
 みんなと同じように早く走れないんだ・・・・・・・

 そしてだんだんと足が上がらなくなり引きずるようになっていったね。
 学校に着くのがどんどん遅くなって・・・朝起きるのがだんだん早くなって・・・・・・
 僕が家を出る頃は誰も歩いていなくて・・・・・・・・
 でも、途中で追いつかれ追い越されて・・・・くやしかったよ。

 家に帰るとお母さんがいつも家の前で心配そうに待っていてくれたね。
 そして、いつもの口癖・・「何時に学校出たの?」そうして時計を見ながらため息ついたね・・・・
 僕はお母さんに申し訳なくていつも心の中で謝っていたよ。「お母さんごめんね。明日は早く帰ってくるからね」って・・・
 僕は誤解していたんだよ・・お母さん・・・・寄り道してないんだよって・・・いっも心の中で言い訳していたよ。
 そんなことは、おかあさんには分かっていたんだね。
 でもお母さんは、日ごと通学に掛かる時間が長くなることにため息をついていたんだね。
 それは、僕の筋肉が日ごと衰えていく証拠だったから・・・・・・・・
 あれは小学校4年のときだったね。
 病院でギブスを作ってもらったよね。恥ずかしかった・・・・・あれをつけて歩いていると年上の兄ちゃんが
 「大リーグ養成ギブスみたいや」ってはやし立てたから・・・・・
 従兄妹には悪いことしたよね。女の子で友達とおしゃべりや、遊びたかったのにずっーと僕と一緒だった。
 学校で僕の病気のことで嫌な事があったけど・・・お母さんには言わなかった。心配するから。
 でも、僕以上に従兄妹と嫌な思いをしただろうなぁ〜ごめんね。チカ・・(従兄妹のこと)
 そうそう、A組担任君と出会ったのはその頃だったね。
 歩道橋の途中でもう力が出なくて一歩も歩けなかった・・・・・・・途方に暮れていたんだ・・チカは泣きそうな顔しているし・・・・
 下りの階段はなんとか下りれるので、上りだけ彼に背負ってもらったんだよ。
 彼は軽々と僕を背負って歩道橋の上まで上ったんだ。
 お母さんは「自分で何でもしなさい」って言っていたか・・なんかズルしていたみたいで嫌だった・・・・・・
 それに、自分で歩かなかったから怒られるって思っていたんだ。
 正直に言おうかどうか迷ったよ・・・・翌日また上れないんじゃないのかって不安だったし・・・・・・・・・
 でもね、翌朝歩道橋の袂で、A組担任君たちが待っていてくれたんだよ。
 「おはよう!!」みんな口々に言ってくれたよ。
 そして、それが日課になっていつもみんな待っていてくれたんだよ。
 家の小さな段差に足が上がらないところをお母さんは見のがさなかったね。
 「歩道橋の階段はどうしているの?」と聞かれた時怒られると思った・・・・・・・・
 自分の足で登らなかったから・・・・・チカもしかられると思った。
 でもお母さんは叱らなかった・・・・「そう、A組担任君の家に御礼に行かなくちゃ」
 「でも、明日からは危ないから車で行こうね」ってお母さんは言ったよね。
 そして叱るどころか「ごめんね・・H気がつかなくて・・」そう言って泣いたね。
 ごめんね。お母さん・・・自分の足で階段登れなくなって・・・・・・・
 学校ではA組君達と挨拶するようになったし、学校に行くのが少し楽しくなったよ。
 そうそう、お母さん覚えている?小学校4年の時、刀根山病院に検査入院していた時に
 僕と同じ病気の高校生のお兄ちゃんがいたでしょ。
 なんか長く入院していていつもベッドで勉強していたでしょ。
 僕の隣だったよ。覚えている?ねぇお母さん
 あのお兄さんが僕が退院する時に手紙くれたでしょ。

 その手紙には「少年よ大志を抱け」って書いてあったでしょ。
 あれね、クラーク博士って北海道大学を創設した人の言葉だって5年の時に先生に教えてもらったよ。
 そうそう、5年生のクラス替えのときA組君と同じクラスになって僕はうれしかったよ。
 彼は「ニッ」と笑ってくれたんだ。
 5年生6年生の時が一番楽しかった気がする・・・・
 あきらめていたことがたくさん出来たから・・・・・・・
 そして友達がたくさんできたから・・・・・・・・・・
 クラスハイキング、遠足、運動会、野球、修学旅行・・・みんな参加できたもの・・・・・・