「車椅子の少年」中学編その2 


私はH君との関わりを、急に止めたわけではなかった。
本当に少しづつ少しづつ・・・・・関わる時間が無くなった。
ある日、私はH君の教室にいた。
するとH君の担任の先生が私にこう言った。
「君は、案外冷たいねんなぁ〜。小学校の先生からH君のこと良く
面倒見てくれているって聞いていたのに・・」
「今では知らんぷりしてんねんなぁ〜」
私は怒りで胸が張り裂けそうだった。
授業が終わり、H君のクラスに来るとクラスメートが身の回りの世話をしている。
そんな中に入れないじゃないか!
私がH君のクラスに入ればこんなこと考えなくていいのに・・・・・・・・
クラスをはずしたのは先生たちじゃないのか!
この一言が境目になり、私はH君のクラスに行かなくなった。


中学生になると、思春期に入り小学生の頃のように
無邪気な友人関係でなくなってくる。

早い生徒は、性に目覚め、無知な知識の中で危うい学校生活を送る。
また、受験や競争社会に組み込まれ、
H君のことを真剣に考えようとする余裕がなくなってきた。

身の回りの世話は限られた生徒だけになり、それはやがて惰性的に変質していった。
体育祭kの時もそうだった。
小学生の時にあれほどH君も「参加できる競技」とい考えていた体育祭も何の問題提起も無く、
あっさりと毎年の競技に決まった。
H君は中学三年間、体育祭には直接参加せず、
見学だけの寂しい体育祭を過ごした。

先生達からもなんら問題提起は無く、
H君の中学生活はこうしてダラダラと終わりをつげようとしていた・・・・・・・・・・・

私はH君のことが心配になりながらも、日々の生活に埋没していった。
そうしながら、やがて卒業の日が近づくにつれ漠然と恐怖心が心の隅にあった。
それは、小学校の時に担任の先生から告白された、H君の寿命のことだった。


あの日私と、Y田、N村三人が教室で残されて、H君の病気のことを聞いたのだ。
病名、寿命・・・・私達はこのことについて二度と口にしなかったし、
親にさえ言わなかった・・・・・・・・・・

その時先生は、「14歳か15歳・・」もうH君にには時間が無いように思えた。
私達は怖かった、同級生の「死」に対して・・・・・・
しかしH君は、登校してきていた。
でも傍目から見ても、筋力は衰えより一層自由が利かなくなって来ていることが明らかだった。
卒業も押し迫り、高校進学の受験でみんなが忙しくなってきた。
私は、私立でラグビー部の強豪校に進学を決めていた。
ある日、H君の従兄妹の同級生にH君の進路先を尋ねてみた。
すると「H君な、大阪府立T高校受験したいんやけど、
断られてるねん、車椅子の施設が無い言うて・・・・」

「市立N高校なら、試験合格したら改善するって言ってくれてるらしい・・・・」
酷い話だ。
施設を改善するのにお金がかかる。
安全面で保障が出来ないので受験は見合わせてほしい。

門前払いが罷り通っていた。
市立高校は、市が人権宣言をしているために改善すると約束していた。
しかし、T高校なら成績的に勝算はあったのだが、市立高校は成績的に難しかった。
H君は結局市立高校を受験し不合格になった。
そうして、NHKの通信教育を自宅で受けることをになった。


H君の高校生活は、自宅でただ一人きりの高校生生活を送ることになったのだ。
私はその時に、太陽の下で汗を流しながら楕円のボール追いかけ、花園を目指していた。
ふと、車椅子やキンジストロフィーと言う文字を見かけたり聞いたりした時には、
H君のことを思い出したが

日々の生活に忙殺されH君のことはだんだん思い出さなくなっていった・・・・・・・・・・・・・・

次回「H君その後・・そして死」を掲載いたします。