「車椅子の少年」中学編その1 


先日私は実家に立ち寄った。
すると母親が「押入れ整理していたらこんな出てきたよ、もって帰り・・」
そのものとは、私の中学時代の写真や、年賀状の類だった。
丁度30年程前の年賀状が1枚・・・・茶褐色に変色した葉書だった。
差出人は「H君」からだった。

あけまして
  おめでとうございます
昨年は、色色お世話して
くださいましてありがとう
ございます 今年
よろしくおねがいします
(段落も原文のまま)

文面はこれだけだった。
私はこの文面と、この年の年賀状の年度をみて愕然とした。
それは中学生1年の正月に頂いた年賀状だったからだ。
私は中学三年間「H君」とは距離を置いた。
置いたというより自然にそうなってしまったのだった。
私は「H君」の世話なんて中学になってからは殆どしなかった。
だのに「昨年は色色お世話くださいましてありがとうございます」と彼は年賀状に書いてきた。
私がH君との交流から遠ざかったのは、必然的になったことだったと
自分では思い込んでいたし思い込みたかった。
私は、あの中学校の中庭でのクラス発表時の感情は今でも鮮やかに蘇る。


私はどうしてかは分からないが、絶対にH君と3年間同じクラスになると考えていた。
それは確信だった。なぜだか分からないが・・・・・・・・
クラス発表の時私は1年2組。H君の名前はそこには無く6組にあった。
2組は窓が西面に面した、北角に近い2階にあった。
6組は南面の西角の1階にあった。
私たちがH君の世話をしていた4人の中心生徒のうち、従兄妹の同級生ともう一人が同じクラスになった。
クラスが別になりそのことを悲しむように私達は、H君の周りに集まった。
「教室に遊びに行くからな」と約束をして入学式に臨んだ。
入学して暫くは、休み時間になると私はH君の教室へ飛んでいった。
そして小学時代と同じように10分間の庭球野球を楽しんだ。
しかし、チャイムが鳴りH君の世話を最後まで出来ない自分がいた。
自分が遅刻するからだ。
そして教科の用意や特別教室への移動、体操服の着替え等、私には貴重な10分となってきた。
ある時は自分の用意が終わり、H君の教室に行くともうトイレは別の生徒が連れて行っており、
もうH君は私には必要が無いかもしれない。
新しいクラスメートがH君の世話をしている・・・・・・・
そう思った時に私は無理にH君の世話をしないようになった。
彼の人間関係に入って行ってはいけないと自分自身で考えたのだ。
そしていつしか私は、ラグビー小僧に変身していくのだった。
急にH君との関わりを止めたのではない、無理しないようにしただけだった。

でも、それは殆どなにも関われない常態といってよかった。

ある日私はラグビーの友人と小学校に寄り道をして帰った。
小学校の先生に誇らしげに詰襟を見てもらいたかったのだ。
5,6年次の先生が職員室にいて迎え入れてくれた。
開口一番「Hとは別のクラスになったんやてな」とおっしゃた。
情報を仕入れていたみたいだった。
つづけて「あれほど言っていたのに・・・・」と不満げにつぶやいた。
私は、「先生4人同じクラスになるように言ってくれたの」と質問した。
先生は「いや、そんなことは言えない、ただ君たち5人(H君含めて)はとってもいいところがあるから
伸ばしてほしいといっただけだ」と答えた。
私はどうしてこんな細かいやり取りを覚えているのだろうか?
不思議な感じがする。
今思えば、小学校の先生は強い希望として、
おそらく私たち5人が同じクラスに3年間過ごす事を申し出たと思う。
これは中学の自治を越権行為だが、強いお願いという言い回しで申し出たことであろう。
しかし、私はその中から外れた。
いつしか学校ですれ違っても「ニッ」と笑い会うだけのさびしい関係になっていった。