車椅子の少年〜番外編〜 


H君が筋ジストロフィー専門医がいる病院に入院して、入れ替わりに新しいクラスメートが増えた。
彼の名は「N君」脳性小児麻痺を患っていた少年だった。
彼は年齢からいくと中学生になっていた。
しかし彼は一度たりとも,学校に通学したことが無かった。
それは「就学猶予」という態の良い、教育委員会の(文部省)就学拒否だった。
当時養護学校もあまりなく、入学・通学には当時困難を極めた。
彼は車椅子とベットの中間くらいの車椅子に乗って、(殆どベット状態)母親に押されながら通学してきた。
彼の言葉は、奇声にのようにしか私たちには聞こえなかったが、母親は何を言っているのか理解していた。
母親が通訳者となり、私たちとコミュニケーションをとっていた。
授業中急に彼が、何か大きな声で叫びだし私たちは驚き、彼の方に目を向けることが暫しあった。
彼は2週間ほど私たちのクラスにいたが、それ以降担任の名前を冠したクラスに行った。
○○学級と呼ばれたそのクラスは、学年横断的なクラスだった。
そのクラスの生徒は「知恵遅れ」と蔑まれ、差別の対象になったし、精神的な虐めを受けていた。


そのクラスに軽度の運動障害と言語障害の児童がいた。
私は中学生になった彼が見事にオートバイをエンジンまで解体し、組み立てる様を見て驚いたことがある。
あのクラスに入れられる基準は一体なんだったんだろうかと?いまでも考える。
N君が○○学級に行った後、担任の先生が私たちに、ある問題を提起した。
私たちはすでに「憲法」「基本的人権」「三権分立」「労働三法」「労働三権」等を習っており、
それを踏まえての問題提起だった。


N君がこれからも私たちのクラスメートとして受け入れるか?否かだった。
受け入れ派と拒否派が真っ二つに分かれた。
受け入れ派は、N君も同じく教育を受ける権利があり、義務があると憲法論を展開した。
拒否派は自分達も授業を受ける権利があり、彼の授業中の声で勉強できない。
また、彼が授業を受けても理解できるのか?
○○学級で能力にあった勉強したほうがいいのではないか?といった意見であった。
この話には結論は無かった。
共に平行線を辿り担任の先生もあえて答えを出さなかった。
担任の先生はこの問題で、「ディベート」をさせたのだった。


修学旅行の時期がやって来た。
当時修学旅行といえば、伊勢志摩だった。
夫婦岩・伊勢神宮参拝が1泊2日の日程で組まれた。
担任の先生は予備知識として簡単な伊勢についての話をなされた。
まず、江戸時代「お伊勢さん」といい伊勢神宮参拝は庶民の夢であり、また羨望の的だったこと。
また、伊勢神宮に祭られているのは、天皇の祖先で「天照大神」が祭られており、
天皇家の氏神であるような事だった。

そして、天皇は憲法では象徴であり、主権は国民にあるということだった。
先生がルートの下見に行かれた時の話もしてくれた。
内宮(だったと思う)に入る所に高札が立ってあり、その文面は「下馬・下乗」書いてあったそうだ。
この意味は、これから先を参拝する人は、馬や乗り物に乗らないで参拝しなさいとの意だそうだ。
昔の人は、馬や籠または徒歩での旅行だった名残で、未だにその風習が残っていることだった。
私たちは直ぐにH君の車椅子の事を思い浮かべた。
それは素朴な疑問だった。
 
「先生。H君の車椅子も乗り物になるの?」
「H君はみんなと一緒に参拝できないの?」
先生は、「厳密に言えばH君の車椅子は乗り物になる。」
私たちは、「先生おかしいわ、H君の車椅子は足と一緒やから、馬と籠とは違う。」クラスメートは憤慨していた。
先生は、「H君が車椅子での参拝を断れたらどうする?」と投げかけた。

いろんな意見が出たが、結局私たちのクラスだけは、他のクラスの参拝が終わるまでその場所で遊ぶ。だった。
でも、もし車椅子での参拝を断られたらクラスで神社側に交渉っをしょうになっていた。
修学旅行の当日、高札の場所に着いた。
その入り口には皇宮警察官が立っていた。
私たちは緊張しながらH君を囲むように歩いていた。
子供心に緊張していた記憶が鮮明に残っている。
警察官がこちらに歩いてくる・・・・・担任の先生と校長先生、数人の先生方が警察官の方に歩き出した。
私たちは、息を飲みながらその光景を見ていた。
何か話している様子だった。私たちはたまらず近づいて行き、「車椅子はH君の足や」
「なんで参拝でけへんの?」と口々に文句を警察官に言った。
小学生が警察官を取り囲み、何か言っている様子が他の参拝客の目に留まりちょっとした騒ぎになりかけた。
先生は、「離れておきなさい。」と言って私たちを遠ざけた。
暫くしてその警察官は、先生方から離れていった。
先生は戻ってきて「さぁー行こうか!」と言った。
私たちは「認められたん?」と聞いたら・・・・・・
「いや、黙認するということや」と言った。
あれから30年ほど経った。
それ以降あの高札がまだあるのか?どうか知らない。
車椅子の方の参拝も今は自由に認められていると思う。
私たちはH君のお陰でさまざまな事を学んだ。

それから数年が経ち、山陽新幹線が開通し、大阪の殆どの修学旅行は広島の平和学習の修学旅行へと変遷していった