車椅子の少年  後編 


5年生の時に使用していた教室が、そのままあてがわれ、新生6年1組が誕生した。
その教室は、トイレも近く校庭のはしにあり1階であった。
他の6年生のクラスは、3階の教室だったので他のクラスとは離れていた。
しかし、利便性を考えるとベストの選択だった。
今から思えば、私たちの担任の先生は「チャレンジャー」だった。
なぜなら、「窃盗癖」のある少女が私たちのクラスにいた。
クラス編成時に生徒を何でも引き受けていたのだろう。
この少女も色々な問題を抱えており、色々事件を巻き起こした。
機会があれば、この少女についても書きたいと思っている。
 
 
5年生の時に、私たちは担任の先生に「朝日新聞の天声人語」を読むことを進められていた。
私は5年生の頃から、朝から新聞を読むひねくれた小学生になっていた。
新学期が始まり、暫くしてから新聞の記事に「筋ジストロフィー」に薬が開発されるかもしれない。
そんな記事が載った。
私の記憶では、ある研究者が豚の膵臓から抽出される成分が筋ジストロフィーに有効である。
そんな記事が載ったのだ。
私は新聞を学校に持っていった。
先生も持ってきており、H君もその記事を知っていた。
その日は、クラスの雰囲気は明るかったし、私自身もウキウキしていた。
それからまた暫くして、先生はH君が筋ジストロフィーの専門医がいる病院に入医院をする
事をクラスに伝えた。
確か大阪の豊中にある刀根山病院だったと思う。
その病院は筋ジストロフィーの子供達が多く入院しているらしかった。
私たちは、新聞の記事もあり、今度H君が登校するときには、歩いて来るのではないかと
幻想と期待をしてた。
入院前日、私たちは作文と千羽鶴をH君に渡し、直って帰ってきてね。
とみんなが口々に励まし,H君とのしばしの別れを惜しんだ。
 
先生は見舞いに行っていたようだった。
たまに「H君は元気にしている、病気と闘っている」と近況報告をしてくれた。
私たちは、もう直るんではないかと期待を持っていたので、
「立てるようなった?歩ける?」と質問をしていた。
しかし先生はいつも言葉少なに否定するだけだった。
入院後1ヶ月程して、H君が退院しまたクラスに帰ってくると先生の話があった。
病気のことを聞いたが、先生は変わらずに帰ってくると告げた。
瞬間、教室は沈黙に包まれた。
夏休みに入る少し前に、H君は学校に登校してきた。
入院する前と、さほど変わった様子がなかったのには、かすかな期待も裏切られた。
 
 夏休みが終わり、新学期。
みんな真っ黒になり元気な顔で登校してきたが、H君の顔は、あまり黒くなっていなかった。
家族旅行をしていたみたいだが、毎日戸外で遊ぶと言うわけにはいかず青白いような気がした。
H君は、私といつものメンバーに、家族旅行のおみやげをくれた。
始業式の日、私は教室に一人残された。
そして、担任の先生が「2学期の学級員に立候補しろ」と言った。
私はイヤだった。学級員は選挙で選ばれる。落選したら恥ずかしいと考えていたからだ。
説得され、承諾したが心は迷っていた。
学級員を決める当日、先生が司会になり「誰か学級員に立候補しないか?」と言った。
私はまだ決めかねていた。
するともう一度先生は、私の目を見ながら「立候補する者いないか?」と尋ねた。
すると、勉強の良くできるU君が元気よく手を挙げた。
先生は、黒板にU君の名前を書き書いた。
先生は、まだ立候補を尋ねていたが私は手を挙げなかった。
すると、先生は「誰か学級員に推薦する者いないか?」と聞いた。
H君の従姉妹の同級生が手を挙げ、私の名前を告げた。
結局選挙になり、私が学級員に選ばれた。
先生は、従姉妹の少女にも言いくるめていたみたいだった。
 
その日の放課後、職員室にまたもや呼ばれた。
そして少し立候補しなかったことをなじられた。
続いて、「児童会の会長に立候補しなさい」と説得された。
私は答えなかった。いつしか3年生時の担任が横に立っており、2人で説得されシブシブ約束させられた。
児童会当日、念を押されて私は教室に入った。
会長、副会長、書記と立候補の意思を確かめ、重複すると選挙になった。
私は、渋々手を挙げ、立候補者は私一人だったので選挙無しに、会長になってしまった。
 
2学期初めての学活(ホームルーム)の議題は、「運動会のプログラムについて」だった。
去年の6年生のプログラムが黒板に書き出され、内容を検討するのだった。
私は去年のイヤな思いが脳裏をかすめた。
活発な意見が出なく、このままで良いじゃないかとなったときに、担任の先生が口を開いた。
「H君が出来るプログラムがあるやろうか?」
「仲間のH君もクラスの一員だ、参加できなくてみんなえんやろか?」
この一言でクラスは沈黙した。
誰かが「そうや、H君も参加できるプログラムに変えよう」そんな意見が出てきた。
また、ある児童は、「楽しみにしていたプログラムもあるし・・・・」
賛成、反対の意見が出てきた。
そうして、H君の意見を聞こうになった。
H君は「運動会に出たい」短く答えた。
プログラム変更は、この一言で決まった。
どんな形で参加できるか?子供ながらにプログラムを考えた。
教科の時間をもつぶし、話し合いが続いた。
ある程度の意見がまとまり、児童会に議題を上げることになった。
私たち以外のクラスは、昨年通りで意見が上がってきた。
私は、H君の運動会の参加の意思やクラスとして、全員で参加したいと意見を言った。
その日は、意見がまとまらず、各クラスに持ち帰ることになった。
私は経過をみんなに説明した。
もし、私たちの意見が通らなかったら・・・・・
そこまで話し合いをした。
結果、クラス全員が運動会に参加せず、見学に回ることと意見がまとまった。
 
1つのクラスだけが従来通りのプログラムでやりたい!
私たちにも運動会を楽しむ権利があると主張した。
話し合いは平行線をたどり、再度話し合うことになった。
そのクラスの男子が「棒倒し」に固執したのだった。
学活で積極的に発言するの2〜3人ぐらいと相場は決まっている。
しかし、私たちのクラスは結構みんな発言していた。
「棒倒し」に固執したクラスの誰が、積極的に発言をしているか?
同じクラスの友人に聞いてみたら、案の定1人の男子児童だった。
K君だった。(中学校に入り彼もラグビー部に入った。)
その彼が意見を言い、彼のクラス全体の意見として従来の「棒倒し」のプログラムと上がってきたのだった。
私たちは数人のクラスメートと共に、校庭で遊んでいるK君をつかまえた。
何とかH君と一緒に運動会に出来ないか?
意見を変えて貰えないだろうか?
そんな交渉をした。
彼は快諾とはいかなかったが、承知してくれた。
 
今から思うに多分彼は、私たち数人に囲まれて交渉されたために脅威に感じたに違いない。
結果的には脅かしたことになるかも・・・・・・・・・・・・
 
メインのプログラムは、「棒倒し」から「早駕籠リレー」に変更された。
H君は、駕籠に乗り込み私とN君が駕籠を担いだ。
駕籠をバトンの変わりにリレーをする。そんな競技だった。
 
私はこのプログラム変更騒動でいろんな事を学んだ。
選挙・児童会・議長・団体交渉・スト権・・・・・・・・・・・
擬似的な国会、団体交渉・根回し・・・・・・・・
生きた教育を受けたのだった。
今から思うと、学年の先生方全員がこの事を導くために、意思統一をしていたように思う。
結果は、決まっていて生徒達が誘導されたように思われる。
とにかく、児童達は初めて障害者との共生というものに目覚めた出来事だった。
 
H君の家はメッキ工場を経営していた。その工場に一角にH君の自宅があった。
その工場が、区画整理のために売却になりH君は引っ越しをした。
しかし、私たちと同じ小学校に通学していた。
小学校も卒業に近づいてきた。
H君は、同和推進校である私が卒業した中学校に進学することが決まった。
越境入学だ。
逆の場合はよくある話しだが、同和推進校にわざわざ越境入学する生徒なんて皆無だった。
H君が熱望し、6年1組のクラスメートと離れたくなかったのだった。
入学を許可されたのだ。
まだ、養護学校が義務教育化されていない、そんな時代のある小学校の話しです。
  
一応小学校編は終わります。
次回「車椅子の少年〜番外編〜」を書きたいと思います。
H君と行った修学旅行の話し、運動会のエピソード、そしてN君という脳性小児麻痺の少年が
少しの期間だけ、6年1組在籍しました。そんな話しを書きたいと思います。
 
また中学編そしてその後を、まとまり次第書きたいと思います。