車椅子の少年  中編 


新学期、教室に入った私はH君と目が合い「ニッ」と笑った。
彼は恥ずかしそうに笑いかえしてくれた。
小学生の私は、このクラス編成が作為的であったことなどとはこの時気づかなかった。
担任の先生は、25〜6歳で若くスポーツマンで、全共闘時時代をくぐり抜けてきた熱心な先生だった。
私はこの先生に初めてラグビーを教えて貰った。
というのは後に、私の大学のラグビー部の監督と同じ高校で2歳年下の後輩だと後から分かった。
新学期が始まって直ぐに私は、担任の先生に呼ばれた。
その時にH君の世話を率先してやってほしいと頼まれたのだ。
私は二つ返事で引き受けた。
そして、その時初めてH君の病気が「筋ジストロフィー」という難病であることを告げられた。
私は教室の移動や、トイレの世話などをしていた。
いつしかH君の世話係が3〜4人に自然に増えていった。
 
私たちは休み時間などH君とトランプをしたり、将棋をしたりして遊んでいたがやはり校庭で
ドッチボールや軟式テニスボールを使った野球がしたかった。
しかしH君をほったらかし遊びに行くには気が引けた。
そこで私たちはH君が野球が出来るように特別ルールを考案した。
H君が打った場合、代走が許された。
そして、守備はH君の車椅子にボール当たるとアウトになった。
私はH君の車椅子を押しながら、ボールを追いかけた。
この野球は、卒業まで続けられた。
 
秋になり運動会の季節がやってきた。
当時学年全体の競技といえば、6年生は「棒倒し」5年生は「騎馬戦」と決まっていた。
騎馬戦や棒倒しは、かっこよく見え男子児童は楽しみにしていた。
体育の授業も運動会に当てられ、学年全体での練習日も行い、その為に時間割まで変わった。
体育の授業時歓声を上げながら、騎馬戦に夢中になっている同級生を後目にH君はポツリと見学をしていた。
私はH君の事が気にかかっていたが、体育の授業を楽しんでいた。
運動会も押し詰まった頃、学活(学級活動いわゆるホームルーム)の時間に担任の先生が切り出した。
「同級生で、仲間のH君が運動会に参加できない。これで良いのだろうか?」
私たちは沈黙した。
この事はクラスの殆どの生徒が気にかけていたのだった。
運動会の日程も押し詰まっており、競技を変更するには無理があったし、1つのクラスではどうしょうもなかった。
今から思えば、この事は担任の先生も分かっていたはずである。
翌年の布石をこの時に先生は打っていたのである。
予定どうり運動会は開かれた。
H君は運動会には参加できず、一日中見学をしていた。
クラスの殆どが、H君の事を気にしながら運動会に参加していたように思う。
「Hクンが運動会に参加できない。」
この事はクラスが受け止めていた。
そしてこの問題は1年後に、学年全体を巻き込んだ激論に発展するのだった。
 
5年生も終わりに近づいた頃、担任の先生は私を含め3人の同級生を残した。
そして、ここで重大な告白をされたのである。
H君は、筋ジストロフィーという難病で現在の医学では不治の病であること。
そして子供の時に発病すると、14〜15歳で死んでしまうことであった。
私はH君があと少しで死んでしまうことを私たちに告げた、先生の意図が理解出来なかった。
そして、誰にも言ってはいけないことぐらいは理解した。
私たち3人は以後、H君の余命については話題にもしなかったし、親にさえ言わなかった。
とてつもないことを聞かされて、心が重たくなったあの時の感情を忘れられない。
つづけて、先生は6年生のクラス替えの時に、私たち3人と従姉妹を同じにクラスにするから
今まで通りH君の世話をしてくれるように私たちに頼んだ。
その時に初めて、私がH君と同じクラスになった訳を聞かされた。
やはり、H君をどの先生が受け持つか?連日会議になったそうだ。
そして、その先生が受け持つことになったときに、クラス編成時には最優先で生徒を選べる条件を出したのだ。
おそらく、担任の先生は4年生の時の歩道橋の一件を保護者から聞いていたに違いない。
私が指名されて、H君と同じクラスになったのだった。
そしてH君の世話を中心的にする3人が形成された。
私たちは受け入れた。
この事は秘密にするように先生に言われ私たちは守った。
6年生になったときに私たち5人は、同じクラスになった。