その少女は、目が大きく,きれいな二重瞼で、笑うと笑窪ができる、そんな美少女だった。
おまけに、色も白く、かるいクセ髪だったので、ショートカットにした、ヘアースタイルは、
まるでパーマを当てたようになっていて、よく似合っていた。
彼女は、2校目赴任先の私が,受け持ったクラスの少女だった。
彼女は、M美(頑張り屋のM美はお母さん参照)と大の親友で,いつもケラケラとよく笑う少女だった。
同じクラスの車椅子の少女や、仲間外れにされるクラスの女子を、M美と一緒によく面倒を見てくた。
彼女は、母親と妹の3人暮らしで、成績も良かった。
ある日、将来のことや進学のことを、M美と話をしているときに、M美の母親が、
「銀行員」になるように話しているとM美が告白すると・・・・・・
その少女も「私もお母さんに銀行員になりなさい」って言われてる。ようなことを話しをていた。
それで、「商業高校へ進学しなさい」と言われていることもわかった。
本人は、商業高校に進学するのがイヤみたいだった。
私が、何をしたいのか?尋ねると・・・言いかけてやめてしまった。
私が、教員をやめた後も、年賀状や、暑中見舞い、また何かあると手紙などくれていた。
中学3年生の年賀状には、「T商業高校を受験します。」と書いてあった。
T商業高校は、大阪では名門の商業高校だった。
公立だが、戦前は、「三商大」と呼ばれた国公立大学に進学するものも多く、
経理のエキスパートを養成する高等学校だった。
この、商業高校を卒業した生徒は、大手の都市銀行に就職率が高かった。
その少女の母親も、M美の母親も、資格がある「キャリア」的な職業に就かせたかったのだろう。
私の母親が、妹に対してそうだったように・・・・・・・・・・・・・
高校3年生になった時の年賀状には、「美術の教師になりたい」と書いていた。
しかし、教員の採用は少なく、母親は進学せずに銀行に勤めてほしかったようだった。
その春、手紙が私の所に舞い込んだ。
ある短期大学のデザイン科に入学した報せだった。
私は、ちょっと嬉しかった。
母親を説き伏せ、教師を目指しているのかな?と考えたのだった。
漠然と「あの子だったら、ええ教師になるやろなー」と考えた。
1年後の、春も終わりの頃、またその少女から近況報告の手紙が舞い込んだ。
私が勤め、彼女が通学した中学校に教育実習に行くことが決まった喜びの手紙だった。
その手紙を受け取ってしばらくしてから、私の自宅の電話が鳴った・・・・・・・・・・
受話器を取ると、相手が誰だかすぐにわかった。
私と、担任、副担任のコンビを組んでいた、元同僚の女教師からだった。
涙声になっていたその声で、良い報せでないことはすぐにわかった。
「Y子が・・Y子が死んでしまった・・・」と後は泣いているばかりだった。
あの目の大きい、笑窪のできる顔が浮かんできた。
「えっ、どないしたん!」私はびっくりして尋ねた。
何とか事情を聞き出すことが出来た。
「はっきり、わかれへん、事故で亡くなった・・って連絡だけ入ってん・・」
お通夜と、葬式の、時間、場所の連絡だけがわかり、私は急遽お通夜に出かけた。
お通夜には、連絡を受けた中学校の同級生や、高校、短大の同級生も来ていた。
そこで、状況が初めて解った。
Y子の、自宅は山の麓にあり、坂道や階段が多かった。
その石畳の階段を踏み外し、頭を強打してしまい死んでしまった。
彼女は、教育実習に行けることを楽しみにしており、
M美と同時期に教育実習が行けることを、喜んでおり仲良しだった2人は、連絡を取り合っていた。
彼女は、教育実習に行く前に天国へ逝ってしまった・・・・・・・・・・・
私は、遺影を見ながら・・・・・・・・・・・・彼女は素敵な恋をしただろうか?
高校生活、大学生活を謳歌しただろうか?・・・・・・・・と考えていた。
大学生になって写したと思われる、その遺影は「ほほ笑み」、昔と変わらぬ笑窪ができていた。
確実に、少女から女性へ変貌しつつある、その笑顔を見れば見るほど悲しさが込み上げてきた。
享年19歳・・・・・・二十歳の誕生日を迎える直前だった・・・・・・・・
「乙女」と表現するにふさわしい、その笑顔は、いまだにはっきりと私の脳裏に焼き付いている。