体育教師は、オリンピック選手


私の大学の同級生にボクシング部のTがいた。
彼は高校時代、2年生ながら高3の選手もなぎ倒し、高校チャンピオンになった。
翌年も1階級上げて高校チャンピオンになった。
あらゆる大学から勧誘の声がかかり、またプロのジムからもスカウトが殺到した。
彼は、高校時代の監督が私達の大学の監督になったために、彼は当時2部リーグに
低迷していた、私と同じ大学に進学したのだった。

当時、高校で活躍した選手は大抵東京の大学に進学し、関西で育っ、才能あふれる
選手が東京へ流失し関西学生スポーツ界の凋落は著しく。
全国に通用するメジャーなスポーツと言えば、アメリカンフットボールの関西学院大学
とラグビーの同志社大学、野球の近畿大学ぐらいだった。
関西復権と名を冠した記事に、関西に留まる有望スポーツ選手の記事がシリーズで
掲載されていた。その中の1人がTだった。
写真入りで掲載されたその記事には、「本当にボクサー?」と思えるほどの端正な
顔が写っていた。
記事は高校時代の戦歴と、彼が何故2部リーグに所属する大学に進学するのか?
がインタビュー形式でが掲載されているものだった。
彼はきっぱり、監督のHさんとオリンピックをめざすと答えていた。
彼のボクシングの持味は、矢吹ジョーばりの右クロスカウンターと、
天才的なディフェンスだった。しかるに彼は端正な顔立ちをしていたのだ。
入学式の当日、私は彼を見付けた。私は「新聞見たでーーよろしくな」と言った。
彼は笑いながら「こちらこそ」と礼儀正しく返答した。
「あっこいつメチャクチャいい奴だなー」と私は感じた。
僅か400人程の新入生は、みんな直ぐに顔見知りになった。
ボクシングが大好きだった私は、「減量がなく、腹いっぱい飲み食いできる」なら
ボクシングをしていたと思う。(なんちゅうやっちゃ)
ある日、ボクシング道場(ボクシング部はジムと言わず、道場と言っていた)
で、私は練習を見学していた。H監督が私に部員の1人とスパーリングをすることを
勧めた。好奇心旺盛な私はリングに上がり、ボカボカにやられた。
(ボクシングはするものでない、見るものだと痛感した。)
それから、H監督と親しくなった。H監督の家は、私の実家から歩いていける距離で、
監督も、奥様も「キムチ」が大好きだと解り、私は母親が作るたびに、H監督の家まで
「キムチ」を届けた。

大学2年の9月、前期試験を受けるために大学に行った私は、大学の横の川の土手で
雨ガッパをかぶり、ランニングしてる人を見かけた。
(このくそ暑いのにご苦労な事で。どうせボクシング部かレスリング部だろう)と
思いながら校舎に入っていった。
試験会場の教室でラグビー部の部員とバカ話をしていると、目は落ち込み、唇は荒れ、
カサカサで、顔色のどす黒いTが入ってきた。
「どうしたんや?」と尋ねると、「減量や・・・」と力なく答えた。
「なん日食べてないねん?」 「3日間」 食物はおろか、水さえ3日間飲んでいないのだ。
この9月のくそ暑い日に!
「あとどのくらいや?」「300グラム」
「後もう少しやな」「昨日から300グラムが落ちない」と力なく答えた。
Tは、5月に不注意から交通事故に遭い、2ヵ月程入院した。
Tは、モスク、オリンピックの強化選手になっており、代表選考会の全日本大会に
出場するために、急遽トレーニングを再開したのだった。
体調不十分で棄権するつもりだったが、やはり無理でも出場しようと思ったのだ。
普段Tは節制しており減量に苦しむ体質では無かったが、入院のため13キロも
体重オーバーしていた。
Tはどうにか出場できたが、優勝者にめった打ちされて負けた。
高校2年からの連勝記録はストップした。
Tは、H監督の家に行度に、私の家に立ち寄り、泊まって帰った。
朝6時ごろ目が覚めると、Tがいない。Tはいくら遅く休んでも、朝5時に起き、
ロードワークに出掛けた。
卒業時、彼は、国体の強化選手として、ある県に採用された。
一足先に監督のHさんもその県の採用試験に合格し、教師になっていた。
Hさんはボクシング部を作り、Tは、Hさんの高校に赴任し、2人でロサンゼルス
オリンピックをめざした。
ロス五輪の代表選考に大きなウエートを占める全日本アマチュアボクシング大会が、
鳥取の米子で行なわれる事になった。
今までの成績からみて、もしTが優勝することになれば、代表選手は間違いなかった。
私は、決勝戦は応援に行くと約束した。
彼は、約束どおり決勝まで進んだ。私は米子まで応援に行った。
会場に行くと、Tは私を探していてくれた。
案外リラックスしているなぁーと感じた私は、少し安心した。
試合が始まった。相手も必死だ。勝てばオリンピックに近くなる。
しかし、Tの相手ではなかった。判定になった。
素人目から見てもTの勝利だと思った。ジャッジの採点が集計される。
Tの手が高々と上がった。
控え室に戻って30分ぐらいしてから着替えたTは、私の所までやってきた。
私は「おめでとう」と声をかけた。Tは嬉しそうに「ありがとう」と答えた。
「決まりやな、オリンピック」と言ったら、Tは「この大会が、全部終了したあとに、
 選考会がある。まだ解れへん」と言った。
発表は、夕方になるので、県のボクシング協会の知人の家が近くにあるらしく、そこで
発表を待つことになった。
「私は、それじやー帰るわ」と言って米子駅に向かった。
その夜、遅くに家のチャイムがなった。
母親が出ると「XX(私の名)、T君よ。」と大きな声で呼んだ。
その声で、父親まで部屋から出てきた。
母親が、「勝ったんやて。良かったね。オリンピックは?」と尋ねると、
「はい、選ばれました。これが優勝のメダルです。」と私達の前にメダルを見せた。
「よかった、よかった。さっ上がり。」と母親が勧めると、
「まだ家に帰っていませんので、直ぐに帰ります。今日はここで失礼します」と言った
母親は、「えっまだ家の人に会ってへんの?」
「はい、鳥取から直接来ましたので・・・」
「何やってんの、はよ帰り。お父さんもお母さんも待ってるわ」
そう言いながら家のおかん(母親)は涙ぐんでいた。
(心のなかでは、T君が息子やったらなーーーと真剣に思っていたに違いない)
オリンピックは、3回戦で判定で負けてしまったが、Tはその後指導者になり、
Tの教え子がアトランタ代表になった。
その彼は、シドニーめざして現在トレーニングに励んでいる。