私が中学3年生の頃、私の家で法事があった。
その法事が終わり、大人たちは酒を飲み仏様のお下がりをつまみに上機嫌で酒を飲んでいた。
私の母の妹の旦那さんが、「A組担任君、おっちゃんはしがない町工場で働いているけど、
その昔は勉強できたんや」
「おっちゃんは英語も数学も得意やってんやぞ」と中年に差し掛かった義理の叔父さんがそう私に言った。
そして、中学3年の英語の教科書を私に持ってくるように言いつけた。
私は、教科書を叔父に渡した。
叔父さんは流暢な英語で中学三年生の教科書を読んだ。
私は「えっーーーーーーーーーーーーーーーーーー」とほんとに驚いた。
私の母は文盲である、父親にいたっては読めるが書きはほとんどできなかった。
同じ在日で、父親より少し年下の義理の叔父さんが、流暢な英語を読んだから
私には驚きの何物でもなかった。
そして一人称・二人称・三人称は「が・は・の・を・に」で覚えたら覚えやすいんやでと私に言った。
「おっちゃんは、工業高校しか出てないけど大阪で一番の工業高校出たんや」
「よー勉強したで、でも北野高校(大阪で有名な進学校)の奴らはもっと勉強しとった。」
「電車の中で、豆単で勉強して覚えたら破ってたわーーおっちゃんらはそこまでようせんかったけど・・」
それから20数年後定年退職した叔父さんが、またも法事に来た。
いつも通り仏様のお下がりで一杯やっていた頃、私は上記の話を叔父に向けた。
すると叔父さんは「そんな事おっちゃんいううたんか?」
「でも、勉強できたんはホンマやーーーと笑った。」
私は「伯父さんの行った工業高校は、今でも難しいよ。
おそらく工業高校の中では大阪で一番難しいよ。」
「伯父さんは、上機嫌で、そやろー昔は勤労奉仕(戦時中学生が軍需工場に働きに行くこと)で
おっちゃんの高校の生徒は、戦闘機のエンジン組み立ててんから」
と得意げに言った。(本当かどうかわかりません。私には・・・)
「それに、同級生は大学まで行ってエンジニアになったやつも一杯いるで・・おっちゃんは高卒どまりやけど」
ここから伯父さんの自慢話のオンパレード。
クラスで数学でいつも一番だったとか。同じ学年が甲子園に行き、
猛練習で勉強ができないためにカンニングさせてやったとか・・・・・・・(笑)
私は、いちいちうなずき話を聞いていた。
私は「伯父さんの頃のM工業は難しかったと思う、やっぱりエンジニアになりたかたん」と聞いた。
私は、伯父さんが何故M工業に進学したかは想像はついてはいたが、確かめずにいられなかった。
伯父さんの顔には少し陰りが見えたが、その頃を思い出すように、また懐かしむように話し出した。
「そうやな〜進路指導のときに中学の担任の先生が・・・・・・・怖い先生やった・・・・・・・・・・」
「『三歩下がって師の影踏まず』そんな先生やった。」
「おい、Y(伯父さんの苗字)お前進学先・・・M工業でええのか?
もう一度お母さんと相談して来い。って言われてな〜」
「お前やったら、Y高校でも行けるぞ!、考えんか?」ってな・・・・・」
「翌日「、やっぱりM工業にします。」って先生に言たんや。」
「そしたら、先生がホンマにいええねんな。って念を押されたんや。」
「お袋も、そうしろて言ってますから・・・・・手に職をつけたほうがええって・・・・・・・・」
「そしてな〜〜その頃は、高校に願書は担任の先生がもっていったんや」
「その日、担任の先生が、『おいY、今日先生と願書もって行くのをついて来い』
そう言われてついていったんや。」
「クラス全員の受験願い先生と持って各高校に回ったんやー」
「昼食時に、どこか食堂に入って先生と一緒に食べて・・
お金払うときに「先生自分の分は自分で払います。』って言ったら」
「先生が、『あほー生意気な事言うな〜!!』って怒鳴られたわ」と苦笑いをした。
「そして、最後にわしの高校に行って先生が『ホンマにええんか?』と尋ねられた・・・・・・・・・
私は、この話を聞いて熱いものがこみ上げてきた・・・・・・・・・・・・
おそらく、伯父さんはお母さんには相談しなかっただろう。
そして担任の先生は、入学願書をM工業とY高校の2通持っていただろう。
親を思う子供と、生徒の能力と可能性を大切にしたい担任の長い一日がそうして終わった・・・・・・・